第73話 寛永九年一月
一進一退がつづいていた親父の病状は、七草を過ぎたころから深刻さを増し、二十日にはとうとう薬さえ受けつけなくなった。
昨年末からほぼ毎日、枕頭に詰めきりだったおれと千姉ちゃんは、ここ数日は西ノ丸に泊まりこむほど、容態は思わしくない。
肉親が衰弱していくさまを、至近で見せつけられるのは正直しんどいが、考えてみれば、あっちの世界の忠長は、たびかさなる乱行から、寛永八年五月に自領での蟄居を命じられ、重篤になった父の見舞いを懇願するも、秀忠は最期まで面会をゆるさなかった。
おそらく、息子の更生を願いつつ、心を鬼にして突き放したのだろう。
それを思えば、メンタル的にはキツくても、最後の瞬間まで寄り添えるのは、ある意味しあわせなのかもしれない。
昼過ぎになって、月仙が登城してきた。
叔父は、ずっと帰宅できないおれの代わりに、家族のフォローをしてくれている。
おれたちの対面に着座した月仙は、かがみこんで耳元で、なにやらヒソヒソ耳打ち。
親父は弟を見上げてちいさくうなずくと、疲れたようにまた目を閉じてしまった。
数刻後、
「公方さまの御成りにございます」
奥小姓の取次ぎが聞こえ、次の間の襖が開いた。
現れたのは、家光とお福、雲行院(阿茶)、英勝院(お勝)、そして
将軍の登場に、上座にあたる位置をゆずろうと立ち上がりかけたが、
「国松は、そのままそこに」
叔父に強く制されて、首をかしげつつ座りなおすと、
「みなさまはそちらへ」
月仙は、家光たちに褥の裾付近を示した。
「無礼であろう!」
案の定、お福がブチ切れた。
「なにゆえ、上さまが下座に!?」
「雲光院は大御所さまの養母であるぞ! 武蔵、わきまえよ!」
お福だけでなく、お勝も怒声をあげる。
「父上のお召しというから、わざわざうかがったのに……なんですか、このあつかいは!?」
激昂するお局たちに調子づいた兄貴もまた、突っ立ったまま不平を鳴らす。
刹那、
「どちらが無礼かっ!」
腹にひびく重低音が空気をふるわせた。
「入室後、礼もせず、大御所さまを見下ろしつづけ、あまつさえ、病床の傍らで大声を出すとは、慮外者めらが!」
かつて万単位の兵を叱咤激励していた
静まりかえる室内に、かすかな身じろぎの音が流れる。
「……起こせ」
かすれ声で、親父が命じた。
「父上、ご無理をなさっては!」
となりの千姉ちゃんが、涙ながらに訴えるが、親父はおれをガン見して、圧をかける。
「国松」
再度うながされ、しかたなく上体を起こしてやれば、姉ちゃんが、すかさず羽織で背を覆う。
「ち、父上、お加減は、いか、いかが、ですか?」
兄貴がどもりながら、見舞いの言葉を口にする。
「天下の将軍が、
弱々しい口調で、強烈な皮肉を返した親父は、息子からスッと視線を外し、
「森川」
部屋の隅にひかえる側近を呼ばわった。
名指しされた男は、一礼して部屋を出ていったかと思うと、すぐに数人の小姓を引き連れてもどってきた。
小姓たちは、それぞれ茶碗の載った盆を捧げ持ち、兄貴たちの前にそれを置いて退出していく。
「父上、これは、いったい?」
いぶかしむ兄貴に、親父は凄絶な笑みをうかべ、
「それは、お江が飲んでいた薬だ。なんでも滋養がつく妙薬だそうだ」
そう告げた瞬間、お福と阿茶が硬直した。
「薬、ですか?」
「ああ、そなたは幼きころより多病ゆえ、特別に作らせたのだ」
将軍の問いに答えながらも、するどいまなざしはオババたちに向けられている。
「阿茶らも高齢ゆえ、家光とともに飲むがいい。滋養をつけて、長生きしてもらわねばな」
「お、大御所、さま」
「そうであろう、阿茶?」
雲光院は、シワだらけの顔を蒼白に染めてうめく。
「先年、二条城への行幸に備えて、われらが江戸を発ってほどなく、お江は夏風邪をこじらせて、数日寝こんだらしい。この薬は、見舞いに来た阿茶が『滋養がつく妙薬』と申して、置いていったものだ」
「阿茶どのが!?」
道三Ⅱの見立てによると、おふくろの死因は『
当時の状況から、阿茶も一枚かんでいるとは思ったが、実行犯は、おふくろと対立していたお福だと決めつけていた。
だが、真犯人は
「服薬を調べるにあたっては、かなり難儀したのだぞ? なにしろ、お江を看取った御殿医は、下城直後に口を封じられたゆえ、柳生に探らせ、ようやく突き止めたのだ」
忍びの者は、暗殺術に長けており、とくに毒にはくわしいという。
だから、似たようなスキルを持つ柳生に調べさせたのか?
「投薬のかいもなく、お江は三ヶ月ほどで亡くなってしまったが、その碗には、お江が日々少量ずつ服用した分がまとめて入れてある。ただちに効果が出るであろうよ」
ゼイゼイと呼気を荒げて、親父は追い打ちをかける。
「父、上……」
鈍感な兄貴でさえ、異様な雰囲気を察したらしく、絶句したまま固まっている。
「さぁ、家光、遠慮せず、飲み干すがいい」
ゆがんだ笑みをたたえ、執拗にうながす大御所。
「なんだ、いい歳をして、ひとりでは飲めぬのか? ならば、月仙、手伝ってやれ」
命令されるやいなや、叔父はすばやく立ち上がり、将軍の手に茶碗を押しつけた。
「ささ、ググっと、一気に」
手を添えて、むりやり口元に誘導するが、兄貴ははげしく首を振って、懸命に抗う。
やにわに、
「なりませぬ!」
横から伸びた手が茶碗を薙ぎ払った。
「上さまを害するおつもりか!?」
家光を背にかばったお福が、吠える。
「これは異なことを」
冷え冷えとした
「それを飲みはじめたお江は、いっそう病が篤くなった。なれど、ふたたび見舞いにおとずれた阿茶は、『良薬は薬効がありすぎるゆえ、体になじむまでは悪化したように思えるが、それは一時のこと。つづけていれば、みるみる回復にむかう』と、説き聞かせていたそうだが?」
「母上は、そのようなことを言われていたのですか!?」
腹の底から、ふつふつと怒りが湧いてくる。
「姑にも等しき阿茶どのからそこまで言われては、母上も拒むことなどできませぬ!」
「ああ。しかも、気づいたときには、傍仕えの者まですべて入れ替えられ、身内どころか、だれひとり味方のいない西ノ丸で、その妙薬とやらを摂らされつづけ……たったひとりで死んだのだ」
「……なんと、むごいことを……」
泣きくずれる千姫。
おれも、あの日の光景を思い出して、息が苦しくなる。
「薬効がありすぎるほどの妙薬だ。そなたも飲んで、病弱な身体を治すといい」
最高級寝具を
「さあ、疾く」
「父上……父上は……っ!」
大量の泪を噴出させ、兄貴が叫んだ。
「それほど、私がお嫌いですか? 殺したいと思われるほどに、実の息子が憎いのですかっ!?」
底光りのする眼光に射すくめられながらも、滂沱の涙を流して抗議する姿に、ズキリと胸が痛んだ。
たしかに、おふくろが毒殺されたことはゆるせない。
だからといって、その怒りを兄貴にぶつけるのはまちがっている。
これまでのやりとりを見ているかぎり、兄貴は母親が毒殺されたとは知らなかったようだ。
お勝も、大御台がふつうの死に方ではないと察していても、実際の殺害方法までは知らずに協力している感じだ。
だとしたら、殺害そのものにかかわったのは阿茶とお福のふたり。
お福がかわいがっているからといって、兄貴をスケープゴートにしていいのか?
「父う ―― 」
「…………ではない」
(え?)
地を這うようなつぶやきに、言うべき言葉を失う。
「そなたは………………わしの子ではない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます