第72話 降り月(くだりづき)


 年頭から体調不良にみまわれていた大御所秀忠は、気候が温暖になるにつれ、ようやく回復のきざしを見せていたが、一方で、以前より患っていた眼病が悪化し、六月には片目の視力を完全に失った。


 ところが、七月に入ると、ふたたび不快を訴えはじめ、便通もとどこおりがちになる。


 寛永八年七月十七日、秀忠は、将軍・家光とともに城内紅葉山にある東照宮に出向き、家康の月命日の供養をおこなったが、無理がたたったのか、参拝中に昏倒し、いったんは快方にむかったものの、半月後にまた倒れ、以後、病臥する日が多くなった。


 初秋よりたびたび異母兄を見舞っていた月仙は、十月のある暮夜、先ぶれもなく突然おれの居室にあらわれた。


「年内に、西ノ丸にて長丸と福松の元服をおこなう」


 規定事項として宣言された一報に、しばしフリーズ。


「……は……?」


 実父おれの同意もなく、なんで勝手に決めてるの?


「年……内?」


 しかも、三ヶ月以内にふたり同時だと!?


「しかたあるまい。大御所さまたってのご所望だ」


「…………」


 どうせ親父のことだから、『自分の目が黒いうちに、なんとしてでも、孫たちの元服を見届けたい』などと、咳きこみながら、弱々しくつぶやいて同情を誘い、あっさりほだされた月仙が『万事おまかせあれ!』と胸をたたいた ―― そんなところだろう。


「しかし、たかが旗本の子の元服を、西ノ丸でとは。本当の狙いはなんですか?」


「国松!」


 坊主は、ただでさえつり気味の眼をさらに引き上げて、一喝。


「おまえもわかっているはずだ。大御所さまがもう長くはないと。ならば、末期にかわいい孫の晴れ姿を目にしたいと切望するのは、人として至極当然のこと!」


「たしかに、このところ病状もかんばしくなく、心配ではありますが、父上が肉親の情だけで、さようなことを言い出すでしょうか?」


 長年、海千山千の家康のもとで雌伏のときをすごした秀忠が、今わの際に、持ちかけてきた一見ほのぼのイベント ―― 絶対、裏になにかあるにちがいない。

 

「ひねくれたことを申すな。認めたくはないであろうが、いいかげん覚悟を決めて、父の最後の願いくらい聞いてやれ。わしなど、父上の臨終に立ち会うことさえ許されず、ほんに切ない思いを……(ぐっすん)……」


 ドン引くほどの涙声に、不本意ながら黙りこむと、


「これは他言無用と言われておったのだが、わしが諏訪の配所から江戸に移送された折、そのまま府内入りするものと思うたら、なぜか駿府に連れてゆかれたのだ」


「駿府に?」


 信州諏訪から江戸に向かうなら、甲州街道一本で来られるのに、わざわざ甲州往還を使って、遠回りした!? 

 なにやら、本格的にキナ臭くなってきた。


「ひさしぶりに顔を合わせた兄上は…………対面するやいなや、いきなりわしに頭を下げた」


 ……マジか。


「兄上によると、わしの改易は、父上の遺命であったそうな」


 いわく、六男・忠輝は伊達政宗の婿だったため、武勇にすぐれる一方、反骨心旺盛な息子が、舅にたきつけられて、兄に反するのではないかと家康は危惧したという。

 そこで、臨終の際、徳川政権安定のため、自分の死後、忠輝から力を奪うよう、秀忠に指示したらしい。


 まぁ、親父秀忠自身も、武功をあげる兄弟たち(秀康・忠吉・忠輝)にずっとコンプレックスを抱いていたフシがあり、ましてや、亡父の遺命という大義名分つきなら、なんのためらいなくもなく処分しただろう。


「なれど、駿府にてまみえたとき、兄上は、『わしは、そなたを終生蟄居させるつもりであったが、国松の言を聞き、禁を解くと決めた』とおおせになられてな」


「わたしの!?」


 なんで、そこでおれが?


「国松は、徳松を『弟も同然』と申し、みずからの禄の過半をゆずった。ひるがえって顧みるに、わしは実の弟であるそなたになにをしたかと考えたとき、まことに情けなく思うた、と」


 当時の感動を思いだしたのか、滝涙で言葉をつまらせる叔父。


「さらには、『国松は、誕生以来ずっと命を狙われておる。そなたを江戸に呼んだは、わしに代わって、近くで守ってほしいからだ。そなたに無体な仕置きをしておきながら、かようなことを頼むは道理が立たぬは重々承知しておるが、このとおりだ』と、手までついて懇願されたのだ」


「父上が……」


 ふたりの対面は、時期的には、おふくろの葬儀が終わったころ。

 不仲だった異母兄に何度も頭を下げられた忠輝は、テンションが上がりまくって、その場でスパッと髻を切り落とし、「僧形なら、世俗のしがらみにとらわれず、どこにでも出入りできますゆえ、守りやすうございます!」と、やる気マンマンでおれの後見役を買って出たという。


 戦国最後の猛将も、完全に親父の手のひらでコロコロされているようだ。


 つまり、親父は、おふくろが毒殺されたと考えて、おれや嫁の孝子がつぎの被害者にならないよう手を打った ―― いや、待て。


 徳松の元服を機に屋敷を大規模リフォームしたとき、例の謹慎所はつぶされず、そのまま残された。

 あれはたしか、元和八年 ―― おふくろが亡くなる四年も前のこと。

 だとすると、忠輝を江戸に呼びもどして、コキ使う算段は、もっと前から……。



「わかりました。やりましょう」


 用意周到な親父が、唐突に言いだした儀式イベント

 おそらく、この性急さは、自分が余命いくばくもないと悟ったからだろう。

 それならば、後顧の憂いなく旅立てるよう、息子として協力してやらなきゃ。


「よくぞ申した!」


 新規の感涙にむせぶ叔父にハグされながら、おれはそう遠くない別れのときを思い、くちびるを噛みしめた。




 

 プラン遂行に当たっては、まず第一段階として、見舞いにきた徳川義直の手をガッチリ捕獲した親父が、


「五郎太……よう来てくれた」


 だれかさんにやったのと同じ手口で交渉スタート。


「じつはな……このところ毎晩のように、忠吉が夢枕にあらわれて、なにか言いたげにこちらを見ておるのだ」


 重々しい口調で告げたあと、思いっきりためて、


「いまだから打ち明けるが、あやつは亡くなる直前、国松をもらい受けたいと申し入れてきてな」


 松平忠吉は、秀忠の一歳ちがいの同母弟おとうと

 慶長十二年、清洲藩主だった忠吉は無嗣のまま亡くなり、藩は改易となった。

 その二ヶ月後、義直が兄の遺領を継いで立藩したのが尾張藩だ。


「その縁組はなしは、御台お江に強く抵抗されて流れたが、いまにして思うと、忠吉とて、改易をのがれるための養子がほしかったわけではなく、死を目前にして、わしとの縁をつないでおきたかったのではないか、ともに過ごした幼きころに思いを馳せ、己の在りし日の姿を刻みつけたかっただけではないのかと……」


 目をウルウルさせて、義直を見上げ、


「たしかに、わしは関ヶ原で兜首をあげた忠吉をねたましく思うたこともあった。なれど、母を同じゅうするただひとりの弟が逝ってしまったとき、とてつもない喪失感に襲われたのだ。

 ゆえに、せめて亡弟をしのぶよすがとして、その遺品を手元に置いておきたいと父上家康に願い出たが、父上は溺愛していたそなたに領地もろとも引き継がせてしもうた」


 と、ここで、咳きこむパフォーマンス。

 病身をフルに活かした渾身の演技だ。


「だから、後生じゃ……忠吉の遺品の……みなとは言わぬ、そのうちのいくつかを、冥土の土産に、ゆずってはもらえぬか? このとおりだ……頼む、五郎太」


 叔父・義直は異母兄の領地だけではなく、忠吉の遺品もすべて相続している。

 親父によると、おれを養子にしたいという申し入れは本当にあったらしい。

 あのとき、親父がおふくろの反対を押し切って、忠吉の養子にしていたら、おれは清洲五十二万石の二代藩主。

 そうしていれば、大事な遺品をむざむざ異母弟に奪われずに済んだと、いまになって後悔しているのかもしれない。


 というのも、今回のイベントの目的というのがまさにコレ ―― 親父が長年にわたってためこんでいた鬱屈、すなわち、忠吉の所領は取り返せなくても、なんとかその遺品くらいは奪還して、血縁者に承継したいという願望をかなえること ―― だからだ。



 兄の気迫にのまれて、うっかりうなずく弟。


「では、わしの代理として月仙を尾張に遣わすゆえ、形見の品を選ばせてくれ!」


 あれよあれよという間に、引き渡し許可状にも、きっちりサインさせていた。



 順調に下準備が済んだプロジェクトは、月仙一行が尾張に乗りこむことで最終局面をむかえた。


 月仙は、収蔵庫に入る許可状をこれ見よがしに掲げて、うちの家臣団とともにガサ入れを敢行。


 その結果…………、見つけてしまったのだ。

 そこにあるはずのない、いや、あってはならないある物を。

 


 かくして月仙は、『直鋒』と書かれたデカい纏(旗型馬印)や、忠吉が関ヶ原の戦いで着用した純白の甲冑など数点をたずさえて、無事帰府。 

 


 寛永八年十一月、大御所主導のもと、松平武蔵守嫡男・長丸(7)ならびに次男・福松(5)の元服の儀が執りおこなわれた。

 

 これにより、以後、長丸は松平次郎三郎忠義ただよし、福松は源次郎忠頼ただよりと名乗ることになる。


 この諱および通称は、すべて秀忠が決めたもの。

『次郎三郎』は徳川家(松平家)が代々使ってきた由緒ある名で、『竹千代』に匹敵する、ある意味一族にとって特別なミドルネーム。


 そのうえ、『忠義』『忠頼』という真名は、秀の字を冠するおれの息子たちのほうが、直・宣・房より上位。尾張・紀州・水戸より武蔵守家のほうが格上、こっちが嫡流!と、暗に示す名づけらしい。


(……頼むよ、親父。一族にケンカ売って逝くとか、ホントやめて!)


 

 そして、儀式の最後に、秀忠から忠義に、元服祝として一振りの短刀が贈られた。

 

 これこそが、月仙が発見した尾張藩にはあるはずのないブツ ―― 『物吉貞宗ものよしさだむね』だ。


『物吉貞宗』は、鎌倉時代末期の刀工・貞宗作の名刀で、家康愛用の品。

 なんでも、これを帯びて戦に臨めば必ず勝利したことから『物吉』と名づけられたんだとか。


 開闢の英雄のラッキーアイテム。

 そんな重要文化財なら、当然、徳川宗家宝物蔵に厳重に保管されてしかるべき。

 しかし、今回、どういうわけか、それが尾張徳川家で見つかったのだ。


 元和二年に家康が亡くなったとき、駿府城には大量のグッズが遺された。


 ジジイの遺品は、謹慎を食らっていた忠輝以外の兄弟に形見として分けられた。

 その際に作成されたのが『駿府すんぷ御分物帳おわけものちょう』という相続リスト。

 これは、各家ごとに分与遺産が記された目録なのだが、問題の『物吉』は、尾張のリストには載っていない。


 ようするに、何者かがこっそりパクったわけだ!


 何者か……おそらく、家康の側室だった義直の母・亀だろう。


 元和二年当時、亀は、ジジイ終焉の地・駿府城で暮らしていた。

 また、その刀の重要性は家康の身近にいた亀なら知っていたはずだし、逝去のドサクサにまぎれて持ち出すことも可能だったろう。


 分与目録に載っていない遺産は、すなわち将軍家の財産。 

 慶長十二年、徳川家が保持していた約千二百振ほどの刀剣類のうち、上物の約百振は将軍・秀忠に譲られた。

 今秋、体調不良を自覚した親父は孫の元服を企画し、プレゼントするため『物吉』を持ってくるよう命じたが、宝物蔵のどこを探しても、それが見当たらなかったそうだ。

 

 急遽、大御所はひそかに探索を開始し、それが尾張家にあることを突きとめた。


 そんなこんなで練られたのが、今回の奪回計画 ―― だったらしい。


 そう、おれには忠吉の遺品回収だと言っておきながら、それは『物吉』捜索のための単なる口実。

 おれを仲間に引きずりこんだのは、わが家に押しつける予定の宝刀を返還させないよう、一蓮托生の関係にしたわけだ!


 源氏の通字『義』『頼』を諱にした男児ふたり。

 徳川創業のシンボル『物吉貞宗』。

 トドメは、歴代の天下人が所有していた『乃可勢』。


 こんなのフラグ以外のなにものでもない!!


 くそ!

 やっぱり、あいつら親父&忠輝、企んでやがった。




『物吉貞宗』収公に際しては、尾張藩から猛抗議を食らうかと思いきや、意外にもいまのところクレームは来ていない。


 そもそも後ろ暗い入手法で所蔵していた品であるうえに、「形見分けしてない物が、なぜ尾張ここにあるのかなぁ? コレ、どうみても盗品だよね? 宗家のお宝に手を出したんだから、まちがいなく磔刑たっけいだねぇ」と、発見時に月仙がイイ笑顔で、クギを刺しておいたおかげだろう。 



 こうして、二ヶ月前に二寸(6㎝)大の血塊を吐いた親父は、なんとか孫の元服に立ち会うことができ、おまけに暮れに生まれた長女(小督)を抱くこともできた。



 さらに、師走には、徳松が結婚。

 お相手は新見正勝の娘で、大久保彦左衛門の長男・忠名の嫁の妹 ―― 早い話、大久保家とは相婿関係になり、仲人は彦左衛門が務めた。


「あのジジイとの縁が、一生切れないのか!?」と、徳松は発狂していたが、まぁ、そこそこうまくやっていくだろう。



 慶事つづきの年末だったが、年明け早々、大御所の容態は一気に悪化した。






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