第67話 寛永三年 師走
「阿茶どの……それに英勝院まで」
暗がりから現れたオババたちに、姉貴はたじろいだ。
阿茶局はジジイの側室のひとりで、家康との子はないものの、親父の生母・西郷局が早世したため、養母として秀忠・忠吉兄弟を育てた。
二代将軍の母的ポジションを得た阿茶は、家康没後『雲光院』と称してはいるが、剃髪はせず、下賜された屋敷に住みながら、世代交代した『奥』にもいまだに隠然たる影響力を持ちつづけている。
一方、英勝院(お梶)はジジイの死後落飾し、忠輝の母・茶阿や家康最晩年の側室・お六たちと北の丸の比丘尼屋敷で共同生活をしていたが、若いお六は喜連川義親に再嫁し、茶阿は元和七年に没した。
ジジイが死んだあと、子のいる側室はゆかりの大名家に身を寄せたが、英勝院は唯一の子・市姫が数え年四つで亡くなっているので、今も比丘尼屋敷で暮らしている。
その英勝院は、お福と仲がいい。
―― ここまでピースがそろえば、一連の妨害工作の裏に誰がいるかは明々白々。
「大御所さまの命により、母上の見舞いに参る。通していただきたい」
ババアどもを威圧しつつ、いちおう丁寧に頼むが、立ちふさがる壁はビクともしない。
「大御台さまの命にございますれば、目通りはかないませぬ」
「なんだと?」
「『おのれの病み衰えた姿を見せとうない』とおおせにございますれば」
「さきほど大手橋の門番は、御台所の命により城門を閉ざしていると申したが?」
「御台さまは、大御台さまの意を汲まれ「偽りを申すなっ!」
ぬけぬけとほざく
「御台所に、城門を閉鎖する命は出せない!
なぜなら、兄上は義姉上を粗略にあつかい、その権限を乳母のお福に与えているのは周知の事実。
千姫を締め出せと命じたのは、お福であろう!」
「お福が!?」
お局たちの目力にビビっていた千姉もわれに返り、
「わらわに母上の病を隠しておったのも、お福の企みか?」
「偽りではございませぬ」
腹に響く重低音で、ついに
「御台所は東国の風儀に慣れておりませぬゆえ、お福は主の代わりに奥の差配をしているのでございます。よって、お福の指示は御台所が出したも同然」
「よくもさような詭弁を……もうよい! そこを退け! そなたらと話す暇はない!」
なおも展開される稚拙な抗弁に、ブチ切れる姉貴。
おれもその勢いに乗っかり、
「いかなる権あって、先々代の側室がわれらのジャマをする!?」
女相手に暴力は避けたいところだが、いまは一刻を争う時。
行く手をはばむお局コンビを押しのけ、驚異的裾さばきで疾駆する千姫を先頭に、道三Ⅱ・Ⅳとそのあとを追う。
正面玄関から入城したおれたちは、表御殿を突っきり、表と奥をつなぐ細長い廊下を走り抜け、奥御殿にたどり着いた。
千姉ちゃんは、金糸銀糸の刺繍で覆いつくされた重い打掛を羽織っているにもかかわらず、猛スピードで進んでいく。
もしかすると、
親父の御座之間の横を通り過ぎ、縁づたいにおふくろの居室をめざす。
つきあたりの中庭の前を右折すれば、すぐに大御台所の部屋。
一気に加速した姉貴に置いて行かれ、高齢の道三Ⅱを介助しながら進んでいくと、
「そなたら、なにをしておるっ!?」
御殿内にとどろく絶叫。
尋常ではない空気に、あわてて居室に駆けこむと、目に入ってきたのは異様な光景 ―― 侍女ふたりがおふくろの体を乱暴に持ち上げ、褥横に置かれた棺に納めている現場だった。
「「お、大御台さまは、先ほど身まかられましたゆえ、棺に……」」
怒気まみれの姉貴の詰問に、見慣れぬ奥女中たちはオドオドと答える。
「法印っ!」
呼ぶまでもなく棺に殺到した道三ズは、すばやくおふくろを診察したあと、力なく首を振った。
「は、はうえ……?」
千姉は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ち、
「十日ほど前、お会いしたとき……いたってお元気……なぜ……?」
放心し、ブツブツつぶやきつづける。
「身まかれてから、四半時も経っておりませぬな」
おごそかに告げる道三Ⅱの言葉に、姉貴はハッと顔を上げ、
「では、わらわが足止めを食らっておらなんだら、死に目に会えたかもしれぬのか!?」
超ド級の怒りをぶつけられた道三は、沈痛な面持ちで頭を下げた。
「おのれ……おのれっ、お福めっっ!」
滂沱の涙で床をたたく姉の横をすり抜け、寝棺に無造作に放りこまれた遺体にそっと触れる。
道三の言葉どおり、まくれあがった絹の寝巻から露出した腕はまだ温かかった。
不自然な格好で横たえられた四肢をそろえ、乱れた寝巻を整える。
おれの前ではいつも穏やかにほほえんでいた端麗な貌は苦しげにゆがみ、白くなめらかな肌はどす黒く変色していた ―― まるで、箱根宿で別れたあの男のように。
「母上の御匙を呼べ」
姉貴に怒鳴られて、ずっと隅でふるえていた侍女どもに命じる。
「な、なにゆえで、ごっ、ございましょう?」
年長の女中が、どもりながら問う。
「むろん、臨終にいたるまでの経緯をくわしく聞くためだ」
「かの者は、先刻、下城させました」
ふたたび現れたお局コンビが、手で払うようなしぐさをすると、侍女たちはこれ幸いとばかりにダッシュで逃げていく。
「下城とは、どういうことだ?」
おふくろが死んでから、まだそんなに時間も経っていないのに、主治医が帰った?
そんなバカな話があるか!
「はい。連日の近侍で疲労しておりましたゆえ」
1ミリの説得力もない出まかせを、のうのうと口にする英勝院。
「では、即刻召し出してください。記憶が薄れぬうちに聞きたいことがあります」
「使いは出しますが、しばしお待ちいただくことになりますぞ」
お局は、無表情のまま機械的に繰り返す。
「ならば、ただちに使いを出せ! おまえたちが母上の死を隠し、われらを門前払いしようとしたことは、後日かならず問題にする! 覚悟しろ!」
オババどもは、激昂するおれに形ばかりの礼をして立ち去った。
阿茶たちが奥御殿から退去したのをしっかり見届けてから、おれは道三Ⅱに向きなおった。
「法印さま、やはり、これは」
「はい、おそらく『ちん』かと」
老医師はそう言って、懐からクチャクチャになった紙片を取りだす。
六郷で藤吉に手紙を託したとき、おれは道三Ⅲに渡されたメモ ―― なにかから引きちぎったらしき小片に、たどたどしい手跡で『ちん』とだけ書かれたもの ―― を同封しておいたのだ。
「玄鑑(道三Ⅲ)もおのれが一服盛られたと自覚し、もしや、大御台さまもと考えたのでしょう」
『
一方で『鴆』という語は、ヒ素・
医学が未発達なこの時代、どの毒を盛られて死んだかを見極めるのは困難で、当代一の名医・道三Ⅱでさえ、「病死ではなく毒殺」と見立てるのが限界なのだ。
悲痛な表情をうかべる道三Ⅱ・Ⅳは、おふくろを救うことができなかった無力感とともに、箱根で病臥している肉親の末期を予測したのだろう。
だが、毒殺の疑いがあるのなら、感傷になどひたっていられない。
「法印さま、この見立てを即刻、京に」
「承知つかまつりました。あわせて玄鑑のことも書き添えます」
「使者はわたしが手配します。こうなると、だれを信用していいかわかりません。法印さまの文も大御所さまのもとに届かない恐れがあります」
無言で頭を下げる祖父の横で、道三Ⅳは、
「しかし、お身内が到着する前に、棺に納めるとは……よほどご遺体を見られては困るとみえる」
目を真っ赤にして吐き捨てる。
「しかも、寝棺ということは火葬にするつもりだったのですね。焼いてしまえば、のちに調べられても、毒殺の証拠は隠滅できますから」
「火葬?」
たしかに、おふくろが入れられているのは寝棺で、これは火葬のときに使うもの。
土葬の場合は、筒状の座棺に遺体を座った姿勢で納めるのだ。
この時代、火葬は稀だ。
なにしろ火葬するには、大量の薪が必要で、土葬にくらべて、はるかに金がかかる。
だが、あちらの世界では、日本一の金持ちである徳川将軍十五人とその側室、だれひとりとして火葬された者はいない。
将軍関係者で火葬だったのは、お江だけなのだ。
おふくろだけが唯一の……。
「姉上」
さっきから嗚咽をもらすだけで、ひとこともしゃべらない千姉を見やり、
「母上の葬儀はどういたしましょう?」
「葬儀?」
ノロノロと復唱し、いぶかしそうに聞き返す。
「兄上はお福の傀儡。母上の、われらの大事な母上のご葬儀を、お福主導でやらせてよいのですか?」
「それはならぬ!」
バカでかい怒声とともに背中に走る灼熱感。
いきなりの闘魂注入に涙目でにらむと、姉貴が滝涙ながら、完全復活していた。
「母上の葬儀はそなたが取り仕切るのじゃ!」
「わかりました。そのかわり、姉上もお手をお貸しください」
「ああ、まかせるがよい。わらわは、今年に入り二度身内の葬儀を出しておるゆえ」
「あ、姉、上……」
そうだった。
今年五月、姉貴の夫・本多忠刻が三十一歳の若さで病死し、ほどなく姑で、おれたちの従姉でもあった熊姫 ―― 家康の嫡男・信康と織田信長の娘・徳姫の間の子 ―― も亡くしている。
そのうえ、姉貴は、五年前には、待望の世継ぎ・幸千代さえ喪っており、家督は義弟が継ぐことになったので、実家に出戻ってくることが決まっている。
さっき姉ちゃんが『屋敷にこもってばかりいては気がふさぐ』と言っていたのは、大事な人を次々に亡くして、鬱っぽくなっていたのだろう。
それなのに、今度は母親まで……。
「姉上、いつぞやは心無いことを申しあげてしまい、申しわけありませんでした。わたしは身内を亡くすつらさも知らず、あのようにひどいことを」
千姫が二十歳そこそこで夫の豊臣秀頼、養母ともいえる伯母・淀殿と死別して、江戸に帰ってきたとき、おれはひどい言葉を投げつけてしまった。
「身近なひとを亡くす、痛みを……」
話すうちに、視界はゆがみまくり、すぐ傍にいる姉も、傍らに控える道三Ⅱ・Ⅳの姿もおぼろになる。
「お、おれは……姉上にくらべたら、身内の死に対してまったく耐性が……」
おふくろは、おれに無償の愛を注いでくれた。
前世ではついに得られなかった無条件の愛を。
一時は、こちらから距離を取ったのに、そんなことはおかまいなくおれをいつくしんでくれたかけがえのない
巨大な喪失感にへたりこみ、ひたすらしゃくりあげていると、
「ほんにそなたはもの知らずよの」
口ぶりこそ叱責調だが、姉貴はさっき自分が張りとばした背中をやさしくなではじめる。
「もうよい。あのことで、そなたもじゅうぶん罰を受けた。いまさら謝罪など不要じゃ」
「は?」
罰?
罰ってなんだ?
「そうであろう。そなたは、かの失言で父上のご勘気をこうむって、ご宗家を出された。しかも、大名どころか旗本にまで落とされ、徳川嫡出男子としては、これ以上ない屈辱を味わったはずじゃ」
「え? 旗本に、落とされた???」
いやいやいや。
おれが親父に「旗本になりたい!」って宣言したとき、あんたもその場にいたじゃないか。
なのに、不詳の弟が豊臣秀頼をコキおろす ☞
「お待ちください、姉上。その罰という話は、どなたからお聞きに?」
「ふむ。たしか、お福からそのように」
「お福が!?」
あのババア、おれが宗家を出て旗本になったことを懲罰だと言いふらしていたのか!
「……ああ、なるほど。お福は以前から事あるごとにそなたを貶め、母上を害そうと狙っておったのか」
悲しみに支配されていた姉の目の色が、突如変わった。
「あのような毒婦に、徳川を思うようにはさせぬっ! 」
徳川最強兵器・千姫が爆誕した瞬間だった。
寛永三年(1626)九月十五日、大御台所・浅井江は江戸城西ノ丸で亡くなった。享年五十四。
法名は『崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼』と定まり、以後『
同年十一月二十八日には、朝廷から臣下の女性に与えられる最高位である従一位を追贈された。
お江の遺体は、没した三日後の十八日、芝増上寺に移され、一ヶ月後の十月十八日、盛大に法要が営まれたあと、寺内に作られた墓所に、
この葬儀を取り仕切ったのはお江の次男・忠長。
当初、秀忠親子が京を発つのは十月初旬以降となる予定だったため、やむなく葬儀はふたりの到着前に行われることとなり、先に江戸に戻っていた忠長がその任に当たった。
ところが、京での用事が思いのほか早く片づき、将軍・家光は、事前に帰城することができたにもかかわらず、家光は母の葬儀には参列しなかった。
また、お江の夫・秀忠も駿府まで戻ってきたものの、なぜかその地を動かず、側近の青山幸成(ヒゲジジイの弟)を江戸に遣わし、秀忠自身は師走近くまで駿府城に引きこもった。
余談だが、お江を看取った御殿医が、九月十六日、大川に浮かんでいるのを漁師が発見した。
遺体に目立った外傷はなく、誤って川に転落したものとして処理された。
そんな寛永三年も押し詰まった師走のある宵、松平武蔵守邸に一挺の駕籠が担ぎこまれた。
旅塵にまみれた質素なその駕籠から降りたったのは、ひとりの僧。
壮年の坊主は、墨染の衣をひるがえし、軽快な足取りで屋敷の中に消えていった。
※ ※ ※ あとがき的なひとこと(本文とは関係ありません) ※ ※ ※
江戸に戻っていた家光がお江の葬儀に参列しなかったこと、秀忠が駿府にとどまりバックレたこと、どちらも史実です。
(ノД`)・゜・。
ちなみに、家光がお江の法要にはじめて参加したのは、大御台が死んだ2年後の寛永5年9月の三回忌法要のときです。
一方、父・秀忠のときは、寛永9年1月24日に大御所逝去 ☞ 25日増上寺に遺体移送 ☞ 2月3日、家光と御三家(義直・頼宣・頼房)そろって増上寺に参詣。
秀忠の本格的な葬儀は、2月15~28日に行われ、家光は、15日・24日・28日の3回、法要に出席しています。
一説によると、徳川将軍家では、将軍や一門の大名などは、死の穢れがつくという考えから、先代の葬儀には一切かかわらなかったとか。
しかし、こうした慣習は家綱以後のようで、家光期まではまだ過渡期で、実際、徳川忠長は実母・お江の喪主を務めています。
このことから、作者は、
(家光がお江の葬儀に出なかったのは徳川家の慣例だったわけではないのでは?)
(やっぱりキライだったから、バックレたんじゃ!?)と思い、
「家光の行動って、息子としてどうなん?」な書き方をしました。
ただし、これは作者が資料をもとに勝手に想像しただけですので、話半分で聞いてください。
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