第66話 西ノ丸
急峻な箱根路を踏破し、小田原以東は強い浜風に苦しみながら、ひたすら馬を駆る。
戸塚を過ぎ、相模と武蔵の国境を示す堺木の地蔵堂前を通って、権太坂の急斜面を下れば、保土ヶ谷宿。江戸までは十里(40キロ)弱。
これなら、昼には西ノ丸に入れそうだ。
ここから先の切所 ―― 江戸の最終防衛ライン・多摩川には、幸いにも橋が架かっている。
慶長五年、家康によって架けられ、その後補修・架け替えを繰り返し、貞享五年の洪水で流されてからは再建されず、船渡しに代わってしまったあの『六郷大橋』が、この時代にはあったのだ。
架橋してくれた
「藤吉」
傍に差し招き、手早くしたためた手紙を渡す。
「なんとしてでもお連れしろ」
「はっ」
「頼んだぞ」
またたくまに遠ざかる馬影に、万感の思いをこめて祈った。
南北に長い品川宿を突っ切り、いかつい高輪の大木戸を抜けると、前方に増上寺の三門(三解脱門)が見えてきた。
西ノ丸まではあと一里ほど。
日も中天にさしかかったばかりだ。
最後の一鞭をくれ、ラストスパートをかける。
ヘロヘロでたどり着いた西ノ丸大手門には、異様な空気がただよっていた。
いつもは開け放たれている高麗門がいまは固く閉ざされ、分厚い門扉の前の大手橋には、女駕籠を中心とした一団がいて、供侍と門番がはげしくやりあっている。
「どういうことだ?」
疲労困憊で思考停止中のおれに、偵察に行っていた喜六がすかさず報告。
「なに? 姉上が?」
どうやら前方の女駕籠には、長姉・千姫が乗っているらしい。
だったら、ちょうどいい。
挨拶がてら、状況を探りに行こう。
馬を預けて駕籠に近づくと、殺気だったオサムライさんに行く手をふさがれた。
「松平武蔵守だ。姉上にご挨拶申しあげたい」
強面の武士集団は、おれの陣笠の家紋を見るや、いっせいに膝をついて頭を下げた。
「姉上、忠長にございます」
駕籠の横でひざまずいて声をかけると、
「忠長とな?」
中からくぐもった
「ご無沙汰いたしております」
「ふむ、久しいのう」
アラサーとは思えぬ美魔女が冷たくほほえむ。
大坂の陣直後のファーストインプレッションが最悪だったせいで、おれは姉貴にゴキブリレベルで嫌われている。
ジト目で睥睨していた姉貴は、ふとなにかに気づいたようで、
「そなた……たしか、父上とともに上洛していたはずでは?」
柳眉をひそめ、(おまえ、なにサボってんだよ!?)な非難のまなざしを照射してきたが、おれはその詰問に戦慄した。
(まさか……)
背筋がゾワリと粟だった。
「で、では、姉上はなぜこちらへ?」
「わらわか? 屋敷にこもってばかりいては気がふさぐでな。母上に会うて話などしたら、すこしは気も晴れようかと来てみたら、なぜか御門を開けてもらえぬのじゃ」
駕籠の長柄には、徳川四天王本多平八郎家の丸に立ち葵紋がついている。
しかも、中にいるのは西ノ丸の主・秀忠とお江の嫡女。
なのに、開門拒否?
「供が申すには、門番が『御台の許可なき者は通せぬ』とぬかしおるそうな」
「御台さまが!?」
そんなことは、ありえない。
孝子はおふくろのことを、実母同然に慕っている。
御台所が、母親に会いに来た
というか、そもそも孝子にはそんな権限は……。
(―― ! ――)
「御免っ!」
供侍の間を縫って走り、門に衝突する寸前で門番に押し返される。
「松平武蔵守、大御所さまの命により大御台さまのもとへ参る! 門を開けよっ!!」
叫びつつ、懐から親父の書付を取り出して、高く掲げる。
この書付は、道中なにかアクシデントがあったとき、最優先で便宜を図ってもらえるよう、親父がおれに持たせてくれたものだ。
「この江戸において、大御所さまと御台所、どちらの命が優先されるかなど、申すまでもない! ただちに開門いたせ!!」
もみあっていた男たちは即座に固まり、いち早く我に返ったひとりが親父の花押を認めると、
「かっ、開門っ!!」
真っ青になって呼ばわった。
「火急の用である! さっさと取り次げ!」
開門と同時になだれこみ、
「姉上もともに!」
行列をしたがえて下城橋を渡り、西ノ丸へ急行する。
旅塵にまみれた草履を脱ぐ間、千姫は侍女の手を借りて駕籠から降り、
「どういうことじゃ?」
式台を上がろうとするおれの袖を、仏頂面でつかんだ。
かなりムカついているごようす。
「それは、のちほど。いまは母上のところに急ぎましょう」
「申せ! なにが起きているのじゃ!?」
一刻を争うときなのに、千姉ちゃんは頑固に食い下がる。
「姉上……」
とそこへ、
「御前さま!」
聞きなれた声が窮地を救った。
振り返れば、さっき別れた藤吉が二挺の駕籠をバックに立っている。
「藤吉、よくやってくれた!」
シンプルな駕籠から降りたったのはふたりの坊主。
「法印さま、ようお越しくださいました。かたじけのう存じます」
「挨拶は無用。疾く大御台さまのもとへ」
高齢の僧は険しい顔で式台に上がる。
「玄鎮、薬箱はあるな?」
「はい、おじいさま」
後ろの駕籠から降りた若い坊さんが木製の箱を抱えてついていく。
「あれは曲直瀬どのではないか?」
「そうです。二代目曲直瀬道三さまと、孫の玄鎮さまです」
目を泳がせる姉貴の背を押しながら答える。
これこそが藤吉に命じたミッション。
道三Ⅲの代わりに、父親の道三Ⅱと、子の道三Ⅳを連れてこいと命じたのだ。
かつて京を中心に活動していた道三Ⅱは、慶長十三年、親父に招かれて江戸に屋敷を与えられた。
以後、京都~江戸を往復していたが、高齢になったため、最近は息子の道三Ⅲに役目をゆずって、江戸屋敷で後進の指導にあたっている。
道三は、姉貴の前夫・豊臣秀頼の典医もしていたので見知っていたのだろう。
「だが、なにゆえ、御殿医がここに?」
「京に急使が来たのです。母上の病が篤いと」
「なんじゃと!?」
「わたしは父上に命じられ、江戸に戻ってきたのです」
「そ、そんな……わらわのもとにはそのような知らせはまったく……」
姉貴の暮らす屋敷は、三ノ丸にある。
百里も離れた京都に送られた急報が、目と鼻の先にいる長女には届いていない。
いや。
―― なんらかの意図をもって隠されていた ――
そう考えるべきだろう。
「だからこそ、急がなければならないのです!」
呆然自失して動けなくなった姉を引っ張って、おふくろの居室に向かって進みかけたとき、
「なんの騒ぎですか?」
うす暗い廊下の奥から硬質の声が湧いた。
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