第65話 帰府


 滞在先の京都・二条城に、江戸からの急使が到着したのは、寛永三年九月十一日のことだった。



「お江が!?」


 蒼白の親父が回してきたのは、留守居の土井利勝からの文。

 そこには『大御台所 不例』の一報がしたためられていた。


「かなり深刻なご容態にて」


「バカな! 上洛するわれらを見送ったときは、お元気だったではないか!」 

 

 使者の言葉に、手にした書状を思わず握りつぶす。



 今回の上洛は、徳川家の婿となった御上を二条城で接待するという一大イベント。


 その準備や根回しのため、おれと親父は五月末に江戸を立ったが、西ノ丸に出発のあいさつに行ったとき、おふくろは血色もよく、


『都にはうつくしき錦・金襴・繻子等、女子の好むものがあまたある。奥方にはもちろんのこと、日ごろ世話になっている孝子どのやお竹にも、忘れずに土産を買ってくるのですよ!』

『わらわには大御所さまが買うてくださるゆえ、つまらぬ気づかいは無用じゃ』

 シレっとのろけるくらいピンピンしていたのに。



「国松」


 親父は、涙目で呼気を荒げるおれに鋭い一瞥をくれ、


「ただちに江戸に向かえ」


「しかし、これからまだ儀式がいくつも……」


 帝の行幸というメインイベントは昨日で終わったものの、今後も行事はめじろ押し。 

 現に今日も、五日間の接待が成功裡に終わったことを賀詞挨拶ヨイショしにやってくる大名どもの引見で、親父と兄貴はメシも食えないくらい忙しい。


 また、二日後の十三日には御所に参内して、行幸に対するお礼と大御所・将軍のダブル叙任(太政大臣・左大臣)およびそれを祝う宴が予定されていて、主役のふたりはもちろんのこと、式典を取り仕切る高家義父助手のおれパシリにも、それなりに役割がある。



「案ずるには及ばぬ。吉良と大沢がおるゆえ、そなたひとりが欠けたとて障りはない。いま動けるのはそなたしかおらぬ。早く行け!」

 

 逡巡するおれを、親父はもどかしげに叱咤し、


「道三を連れていけ。あの者なら、なんとかしてくれるはずだ」


 すさまじい眼力で威圧してきた。


 道三というのは、奥医師の曲直瀬玄鑑(今大路道三)のことで、曲直瀬流医家の三代目。

 三代目曲直瀬道三は、十代で従五位下典薬助に任じられ、当時の帝(先年亡くなった本院)から『今大路』の家名を与えられた。

 三十二歳のときには、僧形の最上位『法印』の称号を得ており、当代一の内科医といえる。

 その道三Ⅲは、幼少のころは小姓として親父に仕え、大坂の陣にも従軍。そして、今回の上洛にも親父は道三を伴っている。つまり、親父が最も信頼している医者なのだ。


「御意。かならずや母上をお助けいたします!」


 自分の主治医を妻のもとへ、という親父の思いをムダにはできない。


 一礼して立ち上がり踵を返そうとしたとき、


「お待ちください」


 突如、兄貴の近習のひとり・稲葉正勝(千熊)が声をあげた。


「上さまの名代として、それがしも同道させていただきとう存じます」


「わしの名代?」


 ずっと沈黙しつづけていた兄貴が、いぶかしげにつぶやく。


「はい。上さまはお立場上、京を離れることはかないませぬ。なれど、病床の母君もお気がかりでございましょう。せめて、それがしが上さまの名代としてお見舞いをと愚考つかまつりました」


 なるほど。

 いくら不仲だとはいえ、実母の危篤を無視したとあっては、兄貴がまわりから不孝者だとそしられる。

 しかし、ドンくさい兄貴はそこまで考えが回らない。

 側近の稲葉は主君の評判を落とさないよう、『家光は母親を心配して、自分を派遣した』という体裁をととのえるつもりなのだろう。


「相わかった。千熊、武蔵に同道せよ」


「はっ」


 稲葉のゴリ押しが通って、おれは兄貴の側近とともに帰府の途につくことになった。



 その日は準備などもあって出発が遅れ、鈴鹿峠の手前、土山宿で投宿。

 気持ちは焦るが、東海道筋の各宿に先ぶれを出して、乗り換える馬の手配もしなければならず、また、日が落ちてからの峠越えは危険だと反対されたのだ。


 翌日はまだ薄暗いうちに宿を立ち、三十一里ほど進んで桑名泊まり。

 桑名と次の宿場・宮間は海路なので、渡し船の都合で足止めをくらったからだ。


 三日目はかなり無理をして掛川まで行き、四日目は日が落ちたあとも小望月こもちづきの明かりをたよりに山道を駆けつづけて、なんとか箱根宿までたどり着いた。


 箱根から江戸までは約二十五里。

 旧暦九月十五日は、グレゴリオ暦なら十月末~十一月初旬だから、おそらく日の出は定時法の六時前後。

 箱根は東海道一の難所だが、五時半ころには空は白みはじめているうえ、月明かりもある。

 未明に出発すれば、四つ(十時)すぎにはおふくろのいる西ノ丸に着くはずだ。



 ところが、翌朝、思わぬトラブルが発生した。


 出発時間になっても、ほかのグループが現れないのだ。

 

「一大事にございます!」


 迎えに行っていた藤吉が、慌てふためいて駆け戻り、

 

「法印さまにおかれましては、突然の病のため、出発できぬとのこと!」


「なんだと!?」


 想定外の報告に、急いで宿に取って返すと、部屋の前には稲葉とその供たちが陣取っていた。


「曲直瀬どのはいかに?」


「昨夜からはげしい腹痛と嘔吐に襲われ、かなり憔悴しておられる」


 不機嫌そうに答える稲葉は、なぜかラフな小袖姿。

 完璧な旅装のおれとは対照的なそのいでたちに妙な違和感をおぼえ、


「ところで、貴兄らは、なぜ身支度を整えていないのだ?」


 出発予定時刻はとっくに過ぎているのに、稲葉たちは袴すら穿いていない。


 それを咎めると、稲葉は色をなし、


「なにを申す。法印どのが出立できぬ以上、われらもここに留まるしかあるまい!」


「留まるだと? ふざけたことを。大御所さまは、一刻も早く江戸に戻れとおおせられたのだぞ!」


「ふざけているのは貴殿のほうだ。大御所さまがお遣わしになられた御匙(御殿医)を置き去りにする気か? 正気の沙汰とは思えぬ」


 稲葉は、取り巻きたちといっしょにせせら笑った。



 おれへの敵意を隠そうともしない稲葉。

 以前から友好的とはいいがたかったおれたちだが、ここ数年さらに関係が悪化している。

 なぜなら、おれが稲葉の昇進を阻みつづけているからだ。


 兄貴の将軍襲職直後、堀田の仕官話が持ちこまれたが、それが認められると、今度は稲葉への五千石加増の承認要求がきた。

 稲葉は、そのときすでに五千石を与えられていたので、五千石加増されたら計一万石となり大名に昇格する。 

 実際、あっちの世界では、稲葉は加増されて大名の列に加わり、常陸国柿岡藩を立藩している。


 だが、稲葉はお福の嫡男。

 そんなやつを大名にしてしまったら、おれの死亡リスクが高まるのは必至。

 だから、おれは本丸から出張ってくる交渉役三十郎を、例の常套句 ―― 『じゃあ、稲葉はどんな功績を立てたの?』 ―― で撃退しつづけ、その結果、敵認定されているのだ。


 

 とはいえ、いまはやつの好悪などどうでもいい。


「ならば、曲直瀬どのに直接会って話をつける」


 部屋の前に立ちふさがる野郎どもにそう告げると、


「なんの病かもわからぬ病人に会うとは軽率な」

「はやり病かもしれず」

「万が一、徳川の御曹司どのになにかあっては一大事」

「同行しているわれらの責に」

「「「ここを通すわけにはゆかぬ!」」」


 退くどころか、ニヤニヤしながら妨害してくる。

 

 しばらく睨みあったもののラチがあかず、


「藤吉、加助、喜六!」


 ここで切り札を投入。


「「「はっ」」」


 一瞬にして眼前の障壁がなくなった。


 おれの世話係の藤吉はもとは柳生の門人。

 そして、イモ栽培の作業員として拾った孤児たちは、いつのまにか柳生流剣術を身につけ、さらに伊賀者からヘンな技まで伝授されて、オソロシイくらい使える護衛集団に育っている。


 頼もしい家来が切り開いた通路を進み、客室に入る。


 そこにいたのは、別人のように変貌した坊主とその弟子たち。


「法印どの、いかがなされた?」


 どす黒い顔色にビビりつつ尋ねると、曲直瀬はおれをじっと見すえたあと、


「かような大事の折に申しわけございませぬ」


 か細い声で絞り出すように詫びた。


「わたしのことはご放念いただき、武蔵守は江戸にお急ぎください」


「……しかし」


 さっきはああ言ったが、こうしてやつれ果てた曲直瀬を目の前にすると、置いていく決心が鈍る。


「わたしは医者です。世話をしてくれる者もおります。いますぐ出立することはかないませんが、しばらくここで養生し、回復しだい後を追いますゆえ、武蔵守はどうぞお先に」


 きっぱり言い切ると、布団の下からやせた両腕を伸ばし、おれの手を握った。


「? 法印――」


 ぎらつく目でおれを制した曲直瀬は、


「一刻も早く江戸へ!」


 断固とした口調でうながす。


「わかりました」


 ひそかに渡された紙片をすばやく懐にしまい、頭を下げる。


「では、ふたたび江戸で。ご快癒を心から祈っております」


 別れの言葉は、完全にうるみ声。



(おそらく、曲直瀬は……)


 認めたくない予測をため息とともに吐き出し、しずかに部屋を出る。


 いまだに廊下に転がる男どもをにらみつけ、


「法印どのはこの地で養生なさることになった。われらはこれより江戸に向かう!」


 室内の曲直瀬にも聞こえるよう、高らかに宣言する。


「待て!」

「御匙を置いていくなど」

「どういうつもりだ!?」

「われらは行かぬ!」

  

 わめきながら追いかけてくる稲葉一派。


「ここに残りたければ、残ればいい」


 そう言い捨てて、宿舎前に用意されていた馬に飛び乗る。


「このこと、上さまに知れたらタダでは済まぬぞ!」



 憎悪に満ちた複数の罵声を背に、おれたちは一路江戸めざして走り出した。


 








  

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