第64話 義姉


 寛永三年 初夏



「まぁ! 長丸は、もうひとりでお座りが!?」


 愕然とする大御台所。


「それに、先日お会いしたときより、ひと回りも大きゅうなられて!」


 熱視線を照射しながら、身をよじる御台所。


「「「ほっぺもお手々もふくふくとして……かわゆぃぃぃ!」」」


 江戸城西ノ丸奥御殿に、ひときわ大きく響きわたる嬌声は侍女たちのもの。 


「おそれながら、大御台さま、御台さま」


 赤ん坊を囲んで大騒ぎする女たちの横から、お竹がおもむろに切り出す。

 

「長丸さまにおかれましては、最近、下の前歯が生えはじめていらっしゃいます」


「「なんですと!?」」


 カッと目を見開くおふくろ大御台所義姉御台所


「「長丸長丸殿、後生じゃ。お口を大きくアーンと開けてくだされ!」」


 必死に懇願するふたりに対し、不安定に体をゆらしていた長丸は、次の瞬間ドビュッとヨダレを噴出させながら、ニタッと笑った。


「「なんと! 長丸長丸殿はわれらの言葉を解しておるおられる!?」」


「はい、若さまは天才でございますゆえ」


 笑いながらあお向けにひっくり返る赤ん坊をたくみにキャッチしつつ、重々しく告げるお竹。


「まことに! して、義母上ははうえ、ご覧になられましたか!?」


「ええ、ええ、しかとこの目でっ!」


「下の歯茎に、白い米粒のようなものが!」  


「生まれてからまだ七月しか経っておらぬに、きちんとお座りもでき、歯まで生えてくるとは、尋常ならざる御子じゃ!」


「いかにも! 若さまは神の申し子にございますればっ!」」


 婆バカ炸裂発言に、乳児を抱っこしたお竹は全力でかぶせる。


「いや、生後七ヶ月ともなれば、ほとんどの赤子はお座りができ、歯も生えはじめるころ。長丸だけが特別発達が早いわけでは――」

「「「だまらっしゃい!!!」」」


 鬼女三体にすごまれて固まるおれと、その傍らで苦笑する妻。


 このようなやりとりは、長丸が祖父母に初お目見えして以来、いく度となく繰り返されているため、嫁はすっかり慣れっこになっているのだ。



 お竹は、一昨年、おれが結婚すると、それまで女主人のいなかった屋敷の奥向きを差配してきた経験を活かして若い奥方を補佐し、昨秋、長丸が生まれてからは、乳母的ポジションにシフトして、全身全霊をかけて長丸にかしずいている。


 その入れこみようは、実親のおれたちでさえドン引くほどで、おれ的には、それを見せつけられる実子徳松のメンタルが心配になり、なにかあったら速やかにフォローしてやろうとスタンバっていたのだが、徳松は長丸を疎んじるどころか、お竹に輪をかけて溺愛する始末。

 肩すかしを食らったおれは、近ごろふと寂寥感に襲われることが多くなった。



 そして、ムチムチベビーに魅了され、その下僕と成り下がった者がここにもひとり ―― 義姉の孝子だ。


 孝子は、五摂家のひとつ鷹司家の姫君で、おれたち夫婦と同じ寛永元年の冬に、徳川家光兄貴と結婚した。


 だが、男色家のモ~ホ~兄貴は、祝言後の新床をバックれて、お気に入りの堀田と一夜を過ごし、それ以後も正室と褥をともにすることがないまま今日に至っている。


 いうまでもなく、この婚姻は、武力で天下を取った徳川家に、帝室との縁も深い名家から嫁を迎えて箔をつけ、政権基盤を固めるための政略結婚。


 そのような思惑で調えられた縁組にもかかわらず、兄貴は、遠い京都から嫁いできた公家の姫君を粗略にあつかい、本来なら正室が持つはずの奥向きの実権も乳母のお福に与えたまま冷遇しつづけている。


 自分の結婚の意味も理解せず、平然と愚行をくり返す兄貴。

 かつてオヤジは、「家光は将軍の器ではない」と言っていたが、とうの昔に息子の賦質ふしつを看破し、見限っていたのだろう。


 また、今回の縁組は、おふくろや入内した妹の和子、九條家に嫁いだ異父姉・完子と義兄の九條幸家等、多くの親族の周旋によって実現したもの。

 兄貴のやりようは、みなの尽力を軽んじる行為で、それでなくても、もともと折り合いが悪かったおふくろと兄貴の間の溝はさらに深まる結果となった。


 とはいえ、一方では、自分が拝み倒して連れてきた姫君につらい思いをさせている点では加害者サイドでもあり、そうした罪悪感からか、おふくろは、なにかしら口実をもうけては孝子と交流を図り、婚家で嫁が孤立しないよう常に気を配って、今日のような身内の集まりにも必ず孝子を連れてくる。

 

 つまり、婆バカのとばっちりで、長丸狂信者がまたひとり爆誕したというわけだ。


 

 熱い握手会(長丸が相手の指をニギニギする)が一段落すると、義姉はいきなり居住まいを正した。


「本日、国松さまたちにお運びいただいたのは、お頼みしたき儀があったからにございます」 

 

「頼み?」


「はい。この儀、すでに大御所さま、大御台さまにもお許しをいただいております」


「……父上と母上が?」


 なんか急にキナくさくなってきた。


 首をかしげる若夫婦に、おふくろは鷹揚にうなずいてみせる。


「そうです。国松、長丸を御台さまの猶子ゆうしになさい!」


 ビシッと命じられ、一瞬思考を失う。


「「は?」」


 わけがわからず、だまりこむ息子夫婦に、おふくろはグイグイ膝を進め、


「国松、四の五の言わず、『諾』とおっしゃい! 御台の御為に!」


「義姉上の?」


 前のめりで返事をうながすおふくろを、思わずジト目で見やる。


 猶子とは、他人同士が親子関係を結ぶ制度だが、猶子は養子とはちがって家督相続にはからまず(例外もある)、どちらかというと後見人・被後見人の関係に近い。


 たとえば、豊臣秀吉などは、関白・近衛前久の猶子になることで社会的身分を得て、卑賎の出自にもかかわらず、関白になることができたのだ。

 


「どのような意図かお聞きしても?」


 ヘタに御台所孝子などの猶子になったら、ふたたび将軍継嗣問題に巻きこまれかねない。

 簡単にOKなんてできるか!



 なぜならば、兄貴は筋金入りの男色家モ~ホ~

 将来的にはわからないが、とうぶんは世継ぎ誕生は期待できない。

  

 あっちの世界のような兄貴とのドロドロの後継者レースから抜け出るために、今までいろいろやってきたが、ここで長丸が取りこまれたら、今度こそ逃げられない。

 死ぬか生きるかのサドンデスゲームになるのは確実だ。 


「長丸は旗本である私の嫡男。大事な跡取りを差し出してまで、権力の座を――」

「逆じゃ! 逆なのじゃ!」


 気色ばむおれを、おふくろが遮る。


「逆、とは?」


「わらわが、孝子どのを猶子にしているのは存じておろう?」


「……はぁ」


 孝子は、兄貴と結婚したことで、秀忠夫婦の義理の娘になったが、じつは、その前年、婚礼のために江戸に下った際、婚前の段階で、すでにお江の猶子になっていたのだ。


「御台は、生まれ育った京を離れ、この江戸に輿入れしてくれた。なれど、頼りにすべき夫はあのザマじゃ。

 もし、後ろ盾となっているわらわに万が一のことがあらば、江戸に知己もおらぬ御台は孤立し、苦境におちいるは火を見るよりも明らか。

 ゆえに、長丸を介してそなたらと縁戚となることで、今後、御台を支えていってほしいのじゃ」

 

「つまり、この縁組で利を享受するのは、猶子の長丸ではなく、後見側の義姉上ということですか?」


「さよう。そなたも存じておるように、御台の母方祖父はわが伯父・織田信長公に忠誠をつくした佐々成政どの。

 さらに佐々どのは、天正十二年、家康公が織田信雄どのを奉じて起った小牧長久手の戦いにおいて、ひとり越中にて奮戦したものの、信雄どのが秀吉と勝手に和議を結んだため、孤立無援となってしまった。

 東西を敵にはさまれた佐々どのは、危険な冬山を踏破して、はるばる遠州浜松まで援軍をもとめて来られたが、すでに秀吉と和議を結んでいた家康公は、その要請に応えることはできなんだ。

 この儀、大御所さま(秀忠)も、いまだお心にとどめておられ、『せめて孫娘の孝子どのには、江戸にてなに不自由なく過ごしていただかねば、内蔵助どの(佐々成政)に申しわけが立たぬ』とおおせでな」



 たしかに、義姉・孝子は、あっちの世界でも家光に疎んじられ、奥の主宰者であるはずの御台所の権限は渡されぬまま、『御台所』の称号まで取り上げられたあげく、本丸から追い出され、吹上に設けられた軟禁所『中之丸』に押しこめられたとか。


 お福に至っては、やつが後年書いたといわれる『東照権現祝詞』の中で、


『中之丸殿、心正しからずして、気に障りあり。これ、不思議の妙罰なり。これ、また大権現御神罰となり』

(孝子は家光に従順ではなかったので、家康さまの神罰が当たって、気ちがいになった)と、コキおろしてまでいる。


 気がふれたというのが本当なのか雑言なのかはわからないが、知り合いもほとんどいない(京から見て)ド田舎の江戸で、これといった理由もなく、周囲から敵意を向けられつづけたら、メンタルをやられてもおかしくない。

 あっちの世界と同じ状況になっている現在、おふくろの憂慮は至極当然のこと。


 それに、孝子の実家鷹司家は、十六世紀半ば、無嗣により三十年ほど断絶していたが、織田信長の口利きで、他家から養子を迎えて再興したといういきさつがある。


 そのとき二條家から入ったのが孝子の父・鷹司信房で、この『信』の字は信長から贈られた偏諱らしい。


 おふくろにとって、孝子は父方母方ともに織田家との縁が深く、親近感を抱きやすいのだろう。


 考えてみれば、おふくろは、いまの長丸ぐらいのころに父方の浅井一族を滅ぼされ、ものごころついてからは織田の姫として育った。

 その織田家も、本能寺の変後、家臣の羽柴秀吉に家督を乗っ取られ、従兄の信雄、叔父・有楽斎(長益)の息子など、親族はそれなりにいるものの、本家自体はなくなってしまった。


 それもあって、織田カラーの濃い孝子にはついつい肩入れしてしまうのかもしれない。


 そう思うと、断るのも気が引ける。


「……わかりました」


 しぶしぶそう答えれば、おふくろは安心したようにほほえみ、


「実の姉と思うて、しっかり支えるのですよ」と、ムチャブリをかます。


 一方、義姉の孝子は、


「なれば、あらためて長丸どのを抱かせてくだされ」


 お竹から渡された赤ん坊の四つにくびれたパツパツの腕をやさしくなではじめる。


「でも、奥向きのことなど、母上でなくてはわからぬことも多いのですから、ぜひ長生きなさって、しかと義姉上を後見してさしあげてくださいね!」


 親父とおふくろの思惑どおりになってしまった悔しさに、思わず憎まれ口をたたいたが、おれはうかつにも忘れていた……寛永三年がどういう年だったかということを。

 

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