第62話 骨鯁之臣


「くっ……っはっはっはっはっは!」


 上座から、哄笑が湧いた。


「父上?」

「「大御所さま?」」


 真顔にもどった親父の眼は、完全にわっていた。


「予想以上だ」


「なにが……でございますか?」


 ビックリして涙も止まったヒゲオヤジ。

 今度は、眼球がカピカピになるくらい、目をかっ開いている。


「家光のことよ。将軍位について最初に手がけたのが、寵童の取り立てと、傅役の追放とはな」


 まぁ、おれも、それは思った。


「諫める者は、ひとりもおらなんだのか?」


「それがしも、翻意いただけるよう、言葉をつくしましたが……」


 親父は、苛烈な眼光を浴びて震えあがる三十郎を冷ややかに見下し、


「あやつは、伯耆青山のごとき骨鯁こっこう之臣のしんを厭うゆえ、いずれやるとは思うていたが、さっそく実行したのだな」


 そう言ってせせら笑う様は、魔王そのものだが、ビビってばかりもいられない。

 

 ちなみに、『骨鯁之臣』とは、君主が嫌がっても躊躇せず、ガンガン諫める剛直な家来のことだ。


「大御所さま、なにとぞ、伯耆守に対する処分の撤回を! わたしのお役目は、伯耆守の助力なしでは到底なしえません。大事な相談役を奪われては、困ります!」


 最終形態に変化へんげした魔王に、必死に嘆願するおれを見て、青山は、

 

「武蔵守……」


 いつもは呼び捨てなのに、いきなりの敬称『守』つき。

 オッサンは、相当感激しているようだが。


(いやいや、別にアンタのためじゃないからね?) 


 お福を無力化するため、人事権をかっさらったものの、前世は連戦連敗の就活生。今生も、親のコネで就職した世間知らずのボンボン。

 言うまでもなく、採用人事のノウハウなど持っておらず、前世で培った『通りやすいエントリーシートの書き方』だの、『好印象を与えるグループディスカッションでのポジショニング』だののテクニックが、役立つはずもない。


 だから、書類選考・面接・実技試験等は、業界武家事情にくわしく、人生経験豊富な青山に丸投げして、おれは最終責任者になるだけでいいと考えていたのに、こいつが追放されたら、完全に詰んでしまう。

 青山の罷免は、おれにとっても死活問題なのだ! 


「信賞必罰は、武門のよって立つところ。では、伯耆守はどのような落ち度により、罰せられたのですか? まずは、その罪状をお聞かせください」


 本丸代表の知恵伊豆に、八つ当たりでプンスカしながら詰問すると、


「どうなのだ、伊豆?」


 親父もすかさず追撃。


「それは…………」


「長年、誠心誠意仕えてくれた世臣(代々仕えている家臣)を処分したのです。定めし、万人が納得しうる相応の理由があるにちがいありません。

 いくらなんでも、将軍の好悪だけで、御沙汰を決めたわけではありますまい?」


「…………」


 皮肉たっぷりの催促に、さすがの知恵者もうつむいたまま、くちびるを噛むのみ。


「答えられぬことが、すでに答えというわけか」


 沈黙を守る三十郎に、冷たい侮蔑が飛ぶ。


「武蔵、堀田の儀、家光の願いどおり認めてやれ」


「え? よろしいのですか?」


 おれだけでなく、満額回答をもぎ取った三十郎も、困惑気味。


「かまわぬ。その代わり、家光にはこう申せ。

『当分の間、臣下の任免・処遇は、すべて西ノ丸にて取り扱う。それが不満なら、堀田取り立ては未来永劫認めぬ』とな」


「つまり……今後、公方さまは、生殺与奪の権を持たぬと?」


「さよう。家光のふるまいは、徳川の執政としての器量に疑義を抱かせるもの。

 賞罰を公正に行えぬ公儀が、信頼されると思うか? 

 あのような者に、権綱けんこう(国家統治の大権)をゆだねてはおけぬ」


「し、しかし、公方さまは、いまだお若く、経験を積めば必ずや―― 」

「若い? 武蔵は、その家光より、さらに二歳年少だが?」


 おれは前世今世合わせると『不惑アラフォー』。

 老成していて当然だ。

 


 親父のブリザードに鳥肌を立てていると、


「わしは間違うておるか、武蔵?」


 その冷ややかな目に、全身がゾワリと粟立つ。



 ―― 試されている ――



「いえ、権力というものは大きくなればなるほど、行使する際の責任も重くなります。

 人の上に立つ者は、功罪を公正かつ公平に評価することが肝要。

 戦乱の世なら、功績などもわかりやすいでしょうが、泰平の世においては、賞罰は臣民に不満不審を持たれぬよう、より慎重に判断・決定しなければならないと思います」


 下座の知恵伊豆をチラ見しつつ答えると、


「そのとおりだ。だが、罷免を撤回することはできぬ」


「なぜですかっ!?」


 気色ばむおれに、親父はいまいましげに、


「『綸言りんげん汗のごとし』。いくら未熟とはいえ、天下の将軍が一度口にした命令をくつがえしたら、徳川の威信に傷がつく」


『綸言汗のごとし』というのは、「エライ人の発言は、かいた汗を体内にもどせないのと同じで、取り消すことはできない」という意味。

 エライ人は絶対にミスをしない完璧人間というタテマエなので、あとで「ヤベェ。まちがえた!」と思っても、絶対に訂正してはいけないらしい。


 そうは言っても、青山がいなければ、三十万人基金はスタート前に頓挫だ!



「兄上が要らぬとおおせなら、父上がお引き取りになってはいかがでしょう?」


「なに?」


「父上は、なんの瑕疵もない社稷しゃしょくの臣に、手を差し伸べるおつもりはないのですか?

 本丸で罷免された伯耆守を、西ノ丸づき年寄りに任じ、直参関連の業務を管掌させればよいではありませんか!」


『直参関連の業務』 ―― そこには当然、新規採用業務も入っているわけで……。


「なるほど」


「それがしを、社稷の臣とっ!?」


 オッサンの目に、ふたたび涙滴が盛りあがる。


『社稷の臣』とは、身命をなげうって国事にあたる重臣のこと。

 青山には、今後、世話になる予定なので、軽くヨイショしておく。


「ふむ、そうだな。横槍を入れてきそうな上野介も、もはやおらぬし……そういたすか」


 ボソッと、不穏なことをつぶやく親父。


 

 上野介 ―― 下野宇都宮藩主 老中・本多上野介正純は、去年秋、あっちの世界と同じように失脚した。



 本多正純失脚といえば、『宇都宮城釣天井つりてんじょう事件』。


 だが、実際は釣り天井などという芝居じみた暗殺装置は存在せず、表向きの改易理由は、福島正則と同じ『城の無断修理』『福島正則改易の際の諌止』『鉄砲の秘密製造』『宇都宮領返上申し入れ』『主君に対する態度』等々いろいろ挙げられているが、本当のところは不明だ。


【※ 宇都宮城釣天井事件 : 元和八年四月、将軍・秀忠の日光社参で、宿泊予定だった宇都宮城に釣り天井(部屋に入ったターゲットを、綱で吊ってあるだけの天井を落として圧殺させる仕掛け)が設けられているとの密告を受け、急遽別の城に泊まり、事なきを得た。数か月後、本多は、その罪を咎められて改易となり、嫡男ともども秋田に配流 ―― というかなりマユツバな通説】



 じつは、おれは、この歴史的事件について、完全に蚊帳の外に置かれているのだ。


 なぜならば、乃可勢を渡された数日後、おれは再度親父に呼び出され、京都に行くよう命じられて、江戸を離れていたからだ。


 その出張目的は、上野の皇子たちが作った貝合わせ道具を、父親である本院先々帝に至急届けろという意味不明なもの。

 

 出張先の京都では、やけにフレンドリーな本院に構い倒され、歌会だ、重陽の節供だ、後の月見だ、虫狩だ、玄猪げんちょだ、紅葉狩だと、三ヶ月以上あちこち連れまわされ、おれが提案した大嘗祭のドサクサにまぎれて、ちゃっかり復活していた新嘗祭にも参加させられたあげく、「五節舞ごせちのまいのダンサーで、好みの女子がおじゃれば、持ち帰ってもよろしおすえ?」なお誘いまで受け(もちろん断った)、なおも引き留める自称&仮想祖父本院を振り切り、どうにかこうにか帰府したら(ただし、十月朔日の更衣で、ジイチャン・新院(先帝)・今上(義弟)それぞれから下賜された冬装束三セット・御製・御宸翰etc.大量のお土産つき)、すべて終わっていたのだ。


 突然いなくなった事情を、同僚のオッサンたちに聞いて回っても、みな固く口を閉ざし、結局なにがあったか、今日までわからずじまい。


 ………どう考えても怪しすぎる。



 本多正純は、『家康の知恵袋』と言われた本多正信の嫡男で、親子ともども家康側近として仕えていたが、元和二年に、家康と正信が相ついで亡くなると、急速にその権勢を失っていった。


 家康存命中は側近として駿府にいたせいか、正純は、秀忠側近の土井らとは隔意があり、幕閣の中でもちょっと浮いた存在だった。


 家康は、征夷大将軍となったわずか二年後、親父秀忠に将軍職をゆずったものの、実権は手放さず、江戸には腹心の本多正信を置き、駿府から江戸に指示を出しつづけていた。


 その時の連絡係が正純で、今でも本多は、親父と話していると、しばしばデキの悪い生徒を教え諭すような教導口調になる。


 それは、大御所家康さま側近時代の名残りだろうが、親父にしてみたら、いつまで経っても教師ぶる本多に、いいかげんウンザリしていたのかもしれない。 



 また、正純は、典型的な官僚キャラで、ささいなことでもスルーせず、執拗に詮索するようなところがあり、万人受けするタイプではない。


 たとえば、家康は、なぜか家臣から諫言されるのを好む傾向があり、ちょっとした忠告でも喜んで聞いていたらしく、ある時、それを不思議に思った正信が家康に尋ねた。

 すると、家康は、

「主君のために良かれと思い、忠言するその志が嬉しいのだ」と答えた。

 家康の器量の大きさに感激した正信は、息子にその美談を語って聞かせたのだが、正純は、

「上さまに諫言とは無礼千万! そいつは誰ですか!? なんと言ったのですか!?」

 と、父親を問い詰めた。

 せっかく披露してやった殿のちょっとイイ話に、感動するどころか、犯人を追及するような口ぶりに、正信はキレて、

「そーゆーところ! おまえは、そーゆーところがダメなんだよ!」と叱責したという。



 ―― たしかに、人に嫌われそうだ。



 元和八年八月、出羽山形藩最上氏の改易にともない、上使として城の受け取り役に任ぜられた本多は、翌月、無事任務を完遂したところに、江戸から糾問の使者がきて、あれよあれよというまに所領を召し上げられてしまった。


 しかし、本多は、突き付けられたさまざまな嫌疑については終始一貫否定しつづけ、秀忠が、親子二代にわたる忠勤の功として提示した温情(マイナス九万五千石の五万五千石)も、

「暗殺なんてたくらんでない! 濡れ衣だ! そんな減封、受け入れられない!」

 と突っぱねたことから、メンツをつぶされた秀忠の怒りを買い、結局千石の捨扶持のみを与えられ、秋田藩主・佐竹義宣さたけよしのぶにお預けとなった。


 配流先の秋田では、最初は、人格者として有名な義宣から厚遇されたものの、それが幕府の知るところとなり、厳重注意を受けた外様の佐竹は、待遇を変えざるをえず、一転して板戸で囲われた暗い屋敷内での幽閉にシフト。 

 そして、改易から十五年後の寛永十四年、赦免されることなく、配所にて死亡。享年七十三歳。


 しかも、いっしょに流された嫡男・正勝は、七年前の寛永七年、三十五歳の若さで、父に先立ち亡くなっている。


 正純は、最期に、


『日だまりを 恋しと思う 梅もどき 日陰の赤を 見る人もなく』


 息子に先立たれ、陽光も入らない薄暗い部屋での孤独を想起させるような、もの悲しい辞世を詠んでいる。



 おれが不在のあいだに、なにがあったかはわからない。

 

 だが、本多の失脚は、今回の青山のケースと似ていないか?



 だとしたら…………親父も兄貴と同じなのか?


 

 さっきから、そんな疑惑が胸中に渦巻いている。


 ふたりの違いは、襲職後すぐか、十年待ったかの差だけで、先代のころから上から目線で説教をたれる目の上のたん瘤本多正純がジャマになって、切り捨てたんじゃないのか?


 さんざん息子家光をディスっておきながら、親父だって『骨鯁之臣』を追放したんじゃないのか?



 もし、そうなら、おれは今後、親父をどういう目で見たら…………。



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