第53話 元和五年 十月


 例の御前会議から早半年。


 広島藩は改易となり、信濃高井郡等に捨扶持四万五千石を与えられた福島は、十月上旬、川中島の配所に入った。


 福島の改易は想定内だったが、驚いたのは、単なる思いつきで口にした『毛利リターンプラン』がほぼそのまま採用されてしまったこと。


 親父たちは、あの与太話をまじめに討議し、四方領地替えという形で実行した。


 つまり、福島の後に毛利を、毛利の後には浅野を、浅野が出た和歌山には駿府から徳川頼宣を、そして、毛利の監視役として、大和郡山藩主・水野勝成を備後に配したのだ。


 水野勝成の父・水野忠重は、家康の母・於大の方の弟で、徳川二十神将のひとり。

 ジジイの従弟にあたる勝成だが、大坂夏の陣では『戦功第二』というめざましい活躍をしたにもかかわらず、家康が与えたのはたった六万石。

 あまりの薄遇にブチ切れた水野を、親父秀忠は、

「俺が実権を握ったら、十分に報いてやる! 今はこらえてくれ!」と必死になだめた。


 今回、水野が賜った福山藩には、古代からの良港として有名な鞆の浦、石見銀山と大坂との中継港・尾道など、広島藩から引っぺがした優良な商港が含まれており、表高は十万石だが、実高は二十万石ちかくあるかもしれない。

 

 その水野は、転封の公示が出た翌日、大量の手土産とともにおれを訪ねて来て、

「いや~、奇遇にも、それがしの幼名も国松でしてな」

 などと、終始ニコニコしながら小一時間ほど世間話をして帰っていった。


 親父……いったい、なにを吹きこんだ?


 余談だが、親父は今回の領地替えを、公式発表前におれにこっそりリークし、


「空いた駿府に入らないか?」


 ギラギラする眼で迫ってきた。

 おそらく、ここで素直にうなずけば、徳川姓に復するオマケつきだろう。


 ―― 駿河遠江五十万石  徳川忠長 ――


 最大かつ最悪のフラグだ。

 もちろん秒で断った。


 どうやら、おれは歴史の復元力を甘くみすぎていたようだ。




 一連の事務手続きが一段落したある日、大溜にひとりの若侍が駆けこんできた。



「伯耆守さま! 一大事にございます!」


 異様な喚声に、全員の手が止まる。


「三十郎?」


 敷居の向こうで大きく肩を上下させていたのは、かつての同僚・松平三十郎。


「どうしたのだ、そのように大声を出して?」


 三十郎らしくない醜態に、首をひねるヒゲオヤジ。


(というか、なんでここに?)

 

 元服を機に正式な世継ぎとなった兄貴は、二年前から西ノ丸に住んでいる。

 当然、三十郎たちもそちらで勤務しているので、この時間こいつが本丸にいるのはおかしいのだ。


「なんなのだ、早く申せ!」


 焦れた青山が怒鳴りつけると、三十郎はグッと表情を引きしめ、


「に、西ノ丸さまが……西ノ丸家光さまが、坂部五右衛門をお手討ちになさいました!」


「「「な、なんだとっ!?」」」


 騒然となる大溜。 


 筆を放り投げ、飛び出していく青山忠俊。

 よろめきながら、その後を追う酒井忠利。

 頭を抱え、うなだれる本多正純。

 強張った顔で尋問をはじめる土井利勝と、懸命に答える三十郎。


 そんな喧噪を、冷めた目で俯瞰するおれ。

 

(こっちでもやらかしたか)


 乱れる呼気で語られた事件の顛末には、心当たりがあった。



 【坂部五右衛門御手討ち事件】

 

 家光の性癖を語るうえで、重要なエピソードのひとつだ。 


 衆道男色にめざめた兄貴は、中でも坂部五右衛門が一番のお気に入りだったが、ある時、兄貴が入浴している隙に、坂部が他の小姓とイチャイチャしているところを目撃し、激高してバッサリやっちまったのだ。


 考えてみたら、徳川忠長が改易になったのも、家臣を手討ちにした乱行等が原因らしいが、家光だって坂部以外にも辻斬りをしていたという説もあるし、ある意味、五十歩百歩ではないか。


 あっちの世界で家光の残念エピソードを聞いたときは、

「両親に愛されず、優秀なライバルに世継ぎの地位を脅かされつづけたせいで、ゆがんでしまったんだろう」

と同情したものだが、おれが早々と後継者レースから離脱したのに変わらなかったということは、もともと家光はそういう気質で、兄弟そろってやらかしていたのなら、遺伝的にヤバい家系なのかもしれない。


(……なんだかなぁ……)


 

「お傍におりながら、おぬしはなにをしていたのじゃ!」


 遠い目で意識を飛ばしていたおれは、突然の怒声にわれに返った。


「ムダに禄を食みおって……腹を切って、詫びろ!」


 本多の理不尽な叱責に、気づいたら、拳を握って立ち上がっていた。


「お言葉ながら! 一旗本に、将軍世子を諫めることなどできましょうや!? 

 さようなお役目は、傅役である伯耆守・備後守酒井忠利、乳母のお福らがいたすべきではありませぬか! 下の者に責任を転嫁するは、卑怯にございまするっ!」


「ひ、卑怯じゃと?」


「ええ、そうです。重ねて申しあげれば、西ノ丸さまの動向は、逐一ご老中がたのお耳にも届いていたはず。それを放置しておいた結果、このような惨事につながったのなら、本多さまとて無関係とは言えませぬ!」


「武蔵! やめるのだ!」

 

 怒りで顔色を変える本多と、あわてて割って入る土井。


「だれに向かって口をきいておるのじゃ! 図に乗りおって!」  

  

「上野介も落ち着け!」


 つかみかかろうとする本多を、土井が羽交い絞めにする。


「武蔵、そなたはもう帰れ! 許しが出るまで、屋敷にて謹慎いたせ!」

 

「承知いたしましたっ!」 


 軽く会釈し、いまだに喚き散らすジジイから離脱する。



(クソッ!)


 下城の支度をしながらも、荒れ狂う心を持て余す。


(でも、このままシカトするわけにもいかんだろう)



 【痴情のもつれによる衝動的殺人】 


 そんな不祥事をしでかした兄貴だが、おそらく不問に付されることになる。

 なぜなら、次期将軍たる家光には、ひとつの瑕疵もつけられないからだ。


 となると、被害者の坂部はじめ、相手の小姓、それを阻止できなかった周囲の人間……あの場にいた何人かが、兄貴の代わりに罪に問われるだろう。


 さっきの流れからすると、ひょっとしたら三十郎も……。


 むろん、あっちの世界では、三十郎 ―― 松平信綱が、こんなくだらない事件のとばっちりで失脚した事実はない。


 しかし、こっちの世界では、おれや兄貴が三年も早く元服したり、後水尾帝が退位したり、サツマイモ・ジャガイモの栽培が元和年間中に成功しそうだったりと、あっちとはかなり違ってきている。


 だとしたら、松平信綱がその政治手腕を発揮する前にフェードアウトする可能性だって……。


 ダメだ! それは絶対ダメだ!


 家光は徳川幕府の基礎を固めた将軍と位置づけられることが多いが、実際は重臣たち ―― その多くは知恵伊豆こと松平信綱の働きによるもの。


 正直言って、ハデに散財しただけのヘンタイ兄貴より、三十郎のほうが幕府にとって、はるかに価値がある。

 全力であいつを守らなければ、徳川幕府はおしまいだ!

 

 

(……そうだ、親父に手紙を書こう)


 ついでに、あの件も書き添えて。




 そして、その半月後。

 再出仕をうながす使者が、親父の命令書を携えてやってきた。

   



「武蔵にございます」


「入れ」


 登城するやいなや、親父に呼び出されて御座之間に。


 おれを迎えたのは数人のオッサン ―― うち三人は顔なじみの老中だが、ひとりだけ見慣れないやつがいる。


「そなたの献策を受け、この者も同席させることにした。藤堂和泉守だ」


 そう言って引き合わされたバカデカい年寄りは、


「ほぅほぅ、これがウワサの……」


 ハンパない目力でおれを一瞥すると、傷だらけの面相をゆがめてニタッと笑った。


(こ、怖っ!)


 伊勢津藩主・藤堂和泉守高虎 ―― 城造りの名手で、八回も主君を変えた筋金入りの戦国武将だ。


「くだんの提言については、和泉守はすでにその儀、家中法度に盛りこんでおるゆえ、この者に指導を仰ぐがいい」


「はっ」


(なるほど、藤堂高虎か)


 くだんの提言とは、三十郎への助命嘆願といっしょに提出したある法案 ―― やつが家光の死後さらされるであろう非人道的なバッシングを受けないための手立てだ。


「なれど、この歳で追い腹の弊害に思い至るとは、なかなかの識見」


 厳ついジイサンは、建具をも震わす大音声で褒めてくれた。

 

 そう、おれが親父に提案したのは、追い腹 ―― 殉死を禁じる条文を、武家諸法度に追加することなのだ。


 戦国時代、主君が討ち取られたり、敗戦で自害したりすると、家臣もその傍らで腹を切ることはよくあった。


 ところが、天下統一が成り、主君を戦で失うことがなくなると、たとえ病死でも、家臣が腹を切って、あの世についていくという謎行動が流行りだしたのだ。


 その嚆矢は、親父の同母弟・松平忠吉だといわれているが、この行為が武士たちの間で、「自分の忠誠を示す究極の形」としてもてはやされ、徳川一門をはじめあちこちの大名家でおこなわれることとなった。


 それはしだいにエスカレートしていき、殉死者の数イコール大名の偉大さといった考えがはびこり、ついには殉死をしないやつは不忠者という不当な烙印を押される事態にまで至った。

 森鴎外の『阿部一族』に描かれたあの空気感だ。


 この風潮に対し、幕府は何度も禁止令を出すが、家光が個々の訴えを容認してしまうこともあって、結局これが完全に禁じられるのは、半世紀以上先の天和三年(1683)。


 こうした背景があり、家光の没後、老中の堀田正盛・阿部重次他、内田正信、三枝守恵らが殉死した一方、しなかった三十郎への風当たりはとんでもなく強く、


『伊豆まめは豆腐にしてはよけれども 役に立たぬは切らずなりけり』

『仕置だてせずとも御代はまつ平 ここに伊豆いづとも死出の供せよ』


 と悪意をもって揶揄され、非難されたらしい。


 しかし、家光逝去直後に起きた由井正雪の乱の鎮圧、明暦の大火後の復興事業等々、知恵伊豆がいなかったら、あれほどうまく対処できたか疑問だし、第一、こんなバカげた行為はさっさとなくすべきだ。


 そう考えて、謹慎中、親父に内々に手紙を送って、殉死禁止を提案してみたのだ。


 都合のいいことに、今年七月、薩摩の島津義弘死去に際し、十三人もの殉死者が出ており、この最新事例を引き合いに出して、殉死の無益さを訴えた。


 親父にとっても、このブームの先駆けとなったのが、ひそかにコンプレックスを抱いていた弟の忠吉だったこともあり、予想以上に食いついてきた。


 そこで、すでに自藩の家中法度で殉死禁止を定めている藤堂高虎を、おれの指導教官に任じたのだろう。


「この儀、厳罰をもって臨むべきかと。もし家中にひとりでも追い腹が出た場合、改易にするくらいの覚悟がなければ、悪しき風潮は根絶できませぬ!」


 先日の本多の暴言や、モ~ホ~兄貴のせいでしなくてもいい苦労をさせられる三十郎の不憫さに、再度ムカついてくるおれ。


「武蔵守の言やよし! さような法度を布いても、傾奇者かぶきものが多い家中では、なかなか徹底できるものではございませぬ。……たとえば、伊達などでは……」


 おれの発言に賛意を示した藤堂は、獰猛な笑顔で親指を立ててみせた。









(ちなみに、駿府と大和郡山は幕府領になりました)





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