第50話 元服
元和三年四月 ―― あのプレゼンの二カ月後、
法要を終えた親父は、江戸に帰るやいなや、そのまま上洛の途についた。
京都では帝の急な交代などがあったため在京期間が長引き、ようやく江戸にもどってきたのは秋風の吹くころ。
そんな長期出張を終えた親父に呼び出されのは、帰城からしばらく経ってからだった。
奥小姓に案内されて招じ入れられた中奥の執務室には、ほかにも先客がひとり。
「大炊……殿」
大炊頭こと土井利勝は、おれの乳母・朝倉局の義兄で、家康の従弟にあたる男。
土井は親父とは六歳しか違わないのに、数え年七つのとき、生まれたばかりの長丸君(秀忠)の傅役に抜擢され、それ以来ずっと親父の補佐をつづけている。
おそらく朝倉は、その縁でおれの乳母に任じられたのだろう。
「お久しゅうございます。とはいえ、国松さまのごようすにつきましては、お清から折々に聞いておりますが」
おだやかな笑みを浮かべる中年男は、妙に含みのある言い方をした。
ちなみに、『お清』というのは朝倉のファーストネームだ。
「そう……ですか」
これまでは将軍嫡子としてぞんざいな口をきいていた相手だが、いまでは身分が逆転し、むこうは佐倉六万五千石の大名で、おれは一万石以下の旗本。
そのうえ将軍の片腕ときたら、いくらでもへりくだってやる……自分の身の安全のために。
「……ほぅ」
「以前お会いしたときより、ずいぶんと大人になられましたな……想像していた以上に」
ほがらかな声音で称賛され、逆に全身に緊張がはしる。
覚醒する前はなんとも思わなかった言葉のひとつひとつに、真っ黒い罠が仕掛けられているようで、動悸がはげしくなる。
「わたしも一家を構え、これまでのように庇護される側から家人らを守る立場に変わりましたので」
「ははは、たしかにそうですな」
無難な返しに、人のよさそうな顔で相づちを打つオッサン。
だが、その射抜くような鷹眼は、油断なくおれを観察している。
「ときに、国松」
息詰まるやりとりは、低音の余声によって断ち切られた。
「こたびそなたを召したは、急ぎ元服の儀を執り行わねばならなくなったゆえ、その日取りを伝えておこうと思うてな」
「元服?」
十五歳前後でおこなうイメージがある元服だが、じつは何歳でやらなければならないという、はっきりした決まりはない。
その証拠に、叔父の義直は六歳のとき、異母弟・頼宣は同じ年に五歳で元服させられている。
だから、現在数え年十二歳のおれが元服するのは、けっして早すぎるわけではないのだが、それにしてもあまりに急な……。
それに、あっちの世界では、たしか国松が元服したのはもう少しあと ―― 和子が入内した元和六年ころじゃなかったっけ……?
「元服については異存はございませぬが、わけをお聞きしてもよろしいですか?」
武家の男児にとっての一大イベント・元服。
ましてや武家の棟梁、徳川将軍の子の儀式なら、かなり前から入念な準備をして行うはず。
それなのに、長期出張から帰った直後に突然そんなことを言い出すところをみると、十中八九京都がらみだろう。
「ふふっ、相かわらず聡いな。じつはな……」
親父はそう言って背景を教えてくれた。
おれの腹案を実行すべく上洛した親父は、着到してすぐ上皇に拝謁を願い出た。
数日待たされたあと、ようやく拝謁の許可が出、仙洞御所をおとずれた親父が対面したのは、死んだ魚のような目をした
親父は、いつものように実直な泥人形の仮面をかぶり、
「八年前の裁定については、それがし個人は不当だと思うたのですが、なにぶんあのころは、父・家康に逆らえず……」と遺憾の意を示してから、例の『皇統をお守りしたい』構想をブチ上げたという。
プレゼンが終わった瞬間、上皇はすっくと立ちあがり、小走りに上座を下りてきたかと思うと、ガシッと親父の両手を握って、
「
さっきまでの半病人のような雰囲気は霧散し、対面所の隅々にまで響き渡るデカい声でそうのたまったそうな。
「右府は昨年父親を亡くしたのであったな。ならば、今後は朕を父と思え! 朕も右府をわが子と思う!」
はじめて自分の鬱屈をわかってくれる人があらわれた喜びに、上皇は一気に活性化。
どんより濁っていた目は煌々と輝き、全身から生気がほとばしり出た上皇と親父の会談はサクサク進み、今上退位計画は想定どおりの結果に。
とはいえ、例の皇子を江戸で修業させるという要請については、はじめはなかなか了承してくれなかったらしい。
そこで、「もし上皇がゴネた場合に出してね」と言って授けておいたとっておきのプランを奏上。
その案というのは、「新帝
大嘗祭とは、新帝の即位後最初におこなう新嘗祭のことで、ようするに取れたばかりの新穀を天照大神らに供えて、国家安寧、五穀豊穣などを願う大事な皇位継承行事だ。
ところが、戦国期には戦乱や財政難などから、百五十年も大嘗祭をおこなうことができず、上皇の曽祖父・後奈良帝は大嘗祭を実施できない嘆きを伊勢神宮に詫びる形で吐露している。
つまり、大嘗祭をエサにして、人質をブン取ってくるわけだ。
親父はこの提言を、おれの発案だといって上皇に披露したそうな。
上皇は大嘗祭復活を歓迎し、またそれを考えたのが将軍の息子だという事実に深く感じ入り、
「右府にはそのように尊王の志篤い子がおるのか。ならば、安心して親王を預けられる」と、ついに親王たちを下向させる決断をしたという。
そして、その際「江戸に知己のおらぬ親王らの話し相手に、その子を」と所望されたらしい。
江戸に下る四人の親王 ―― 至尊の血を引くガキんちょども ―― の話し相手を務めるには、それなりの官位が必要だ。
そこで、急遽おれを元服させ、親王ズに御目通りできる身分を調えることになったようだ。
「そなたには、上皇さまから御宸筆を預かっておる」
親父に目配せされた土井が、紫色の紐がむすばれた細長い箱を捧げ持つ。
おごそかな手つきで取り出されたうつくしい和紙に記されていたのは、墨痕もあざやかに大書された『忠長』の名と、流れるようなみごとな手跡でしたためられた和歌らしきものが一首。
「『右府の子ならば、朕の孫も同然』とおおせになられてな」
ひぇ~~~!
上皇直筆のお祝いメール!?
しかも、そんなエライ人が名付け親!?
「さらに、『そのものの危急の折には、よろこんで仲介の労を取ろう。また、この儀、七宮にもしかと伝えおく』との破格の優諚もいただいた」
「ありがたき幸せ!」
七宮とは、新しく帝位についた第七皇子
あれ? ということは、つまり……もし、おれがヤバい目に遭ったら、関ヶ原のときの細川幽斎的レスキューを期待できるってことかっ!?
じゃあ…………飛躍的に生存確率が上がるかも!?
(細川幽斎的レスキュー : 慶長五年、関ヶ原の戦い当時、秘伝として伝承されつづけていた『古今和歌集』の解釈法=
思いがけない幸運に茫然自失していると、
「そのようなわけで、こたび、そなたを正五位下武蔵守に任じる」
「え……武蔵守?」
思わず首をかしげるおれに、親父は不機嫌そうに眉をしかめ、
「なんだ、不満か?」
「い、いえ、滅相もございませぬ。しかし……武蔵は徳川本城のある地。その守を名乗ってもよいのでしょうか?」
たしか、江戸時代には、徳川本城のある武蔵国、徳川家発祥の地・三河国の守名は恐れ多いということで禁じられていたはずでは?
(ただし、結城秀康の家系は例外的に『三河守』を許された)
とまどうおれを、親父は鼻で笑い飛ばし、
「つまらぬことを気にするな。将軍のわしがいいと言っているのだ。そなたの家は子々孫々将軍家に対し忠誠を誓うのであろう? ならば、将軍の藩屏たる家にふさわしい名乗りではないか」
「はっ」
そこまで言われたら、ありがたくちょうだいするしかない。
「なれど、上さま、竹千代君はどうなさいます? 弟君が先に元服しては体裁が悪うございましょう?」
突如、土井が割りこんできた。
言われてみれば、二歳上の兄貴はまだ元服を済ませていない。
なのに、臣下の、しかも年少のおれが先に元服して、将軍の偏諱『忠』までもらうのはかなりまずくないか?
こんなことで、また兄貴の恨みを買うのはごめんだ!
「ふむ、たしかにな」
おれの心の叫びが聞こえたのか、親父は顎をなでながらしばし沈思し、
「では、ついでに竹千代も元服させるか?」
(ついで!?)
唖然とするおれに親父は、さらなる爆弾を投げつけた。
「いくら暗愚だとはいえ、『竹千代』の名をもつ者を、弟より後に元服させるわけにはいかぬからな」
「御意」
フリーズするおれの前で、オッサンふたりはツーカー状態でうなずきあっている。
(あ、暗愚……!?)
「とりあえず、近日中に竹千代の元服を済ませ、後日そなたの加冠をおこなう。また、元服を機に竹千代への近侍を解き、以後はこの大炊のもとで実地に政を学ぶがよい」
つぎつぎに繰り出される台命に、おれの頭はパンク寸前。
「大炊殿のもとで政を?」
衝撃的な言葉に完全に置いてきぼりになっていたおれは、かろうじて聞き返した。
「うむ、そなたが兄に近侍する姿を見せるという当初の目的は達成した。くわえて、竹千代の近習どもはいずれ大名となり、幕閣として竹千代を輔弼することになるが、そなたは三十郎らとはちがい、大名になるつもりはないのであろう? ならば、そなたはいずれ老中らの下で政の実務を担うことになるゆえ、いまからその経験を積んでおくがよい」
かくして、おれはなにを考えているかわからない不気味なオッサンのパシリに転職するハメになったのである。
元和三年九月七日、秀忠嫡男・竹千代は元服し、『家光』となった。
その三日後、秀忠の三男国千代は『忠長』という諱を与えられ、武蔵守の名乗りを許された。
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