第44話 元和三年 二月


 かなり壮大な目標を立てたものの、おれが最初に取り組んだのはすごくジミな行動――まじめに勉強することだった。


 なぜなら、松平国千代はまだ十一歳。

 いくら中身は二十三歳だとはいえ、見た目はただの世間知らずなボンボン。

 このままでは、おれがどんなにいい提案をしても、「ガキがおかしなことを言っている」と一蹴されるのがオチだ。


 だから、当分の間は親父がおれのためにセッティングしてくれた勉強会で真摯に学び、ここぞというときに進言すれば、「天海など一流の識者たちから学んだ成果が出た」と解釈されるはずだ。


 

 又一の訃報を聞いた翌日、おれは三十郎に休んでいる間の講義ノートを貸してくれるよう頼んだ。

 三十郎は、ほかの小姓たちとは違って、おれにあからさまな敵意を向けてこないので(腹の中ではどう思っているかはわからないが)、こいつしか頼める相手がいないのだ。


 すると三十郎は、風呂敷包みの中から一冊の帳面を無造作に取り出し、


「これには国千代さまが欠勤された間の講義内容がすべて書き留めてあります。この帳面は返していただかなくて結構です」


「返さなくてもいい? でも、それではおまえが困るだろう?」


 三十郎だって復習するときに必要になると思うが。


「いえ、それがしは一度聞いたことは絶対に忘れませぬゆえ。それは初めから差しあげるつもりで作ったもの。どうぞ気がねなくお受け取りください」


(……一度聞いたことは絶対忘れない……?)


 なにかオソロシイことをサラッとカミングアウトされた気もするが……三十郎は将軍の息子であるおれに変に媚びたりしないが、困ったときにはさりげなくフォローしてくれる。

 こいつがいるから、おれはなんとか城務めをつづけていられるのだ。


「まぁ、そちらからの申し出がなかったら、お渡しするつもりはなかったのですが」


 三十郎はそう言ってニヤッと笑った。


 たしかに今までのおれだったら、欠席した講義なんて気にも留めなかっただろう。

 三十郎は、やる気のないやつを叱咤激励してやるほど、お節介焼きではないらしい。


「そういうことなら遠慮なくもらっておく。かたじけない」


 和綴じの帳面を胸に抱いて、深く頭を下げる。

 

 自席にもどり、講義の前にいちおう前回分を復習さらっておこうと思い、ノートを開く。

 三十郎の几帳面な字を見た瞬間…………固まった。

 

 な、なんなんだ、このノートは!?

 要点がよく整理されていて、講義内容がすんなり理解できる!!

 さすが、たった八歳で竹千代付小姓に抜擢された俊才! 

  

 そういえば、あっちの世界で『東大生のノート』が話題になったことがあったが、やはり頭のいいやつは、情報を整理する能力が高いのだろう。

 三十郎の聡明さを再認識させられたおれは、今後はこれを参考にしてノートを取ろうとひそかに決意した。


 というわけで、『三十郎のノート』という最強アイテムを手に入れたおれは、その日からガリ勉キャラに変身したのであった。

 

 

 そうこうするうちに数ヶ月が経ち、年も改まった元和三年二月。


 その日の講義も終わり、午後の馬術の稽古にそなえて腹ごしらえをするため、本丸御殿奥に向かう。

 兄貴の居室を出、おふくろのいる奥に入る手前で、見知った男に会う。


「森川?」


「おや、これは国千代さま」


 閉ざされた襖の前に控える男たちの中にいたのは、親父の近習・森川重俊。


「なに? 国松とな?」


 声と同時にスッと襖が開き、二代将軍秀忠が部屋から出てきた。


 なぜか親父やおふくろは、『国千代』ではなく、国松と呼ぶ。


「これから奥入りか?」


「はい。今から母上のところに」


「では、わしも奥で茶でも飲むか。みなの者、後は頼む」


「「「はっ」」」


 一礼した近習たちの一部は政庁方向に去り、森川ともう一名はその場に残った。

 おそらく、奥入口まで護衛をするのだろう。


「それにしても、なぜ仏間に?」


 親父が出てきた部屋は親族の位牌が安置してある仏間。

 だが、家康は四月十七日、生母・西郷局はたしか五月中旬、同母弟・松平忠吉は三月上旬に亡くなったので、この時期に祥月命日を迎える近親者はいないはずだ。


「ああ……今日は長丸が生まれた日でな」


 親父はそう言って、ほろ苦い笑みを浮かべた。


「そうでしたか……長丸兄上の……」


 親父の嫡男・長丸は、数え年二歳、満〇歳十ヶ月で亡くなったが、その死因は灸だと言われている。

 十ヶ月の赤ちゃんが灸をすえられて死亡…………やけにキナ臭い話だ。


 巷間では、おふくろによる暗殺ではとささやかれているが、二十三歳の【おれ】の目から見た『お江』という女性は、そういうことができる人間ではない。


 たしかに、お江は感情が高ぶるとヒステリックに騒いだりするが、根は生まれながらのお姫さまで、おっとりしている。邪魔者を消すよう暗部に命じている姿なんて、まったく想像ができないのだ。

 

 長丸は生母の身分こそ低かったものの、親父のはじめての子で、しかも男児だったため、親父の幼名『長丸』をあたえられ、嫡男としてそれなりに大事にされていた。

 その子が不審な死に方をしたら、その死因や当時の状況を徹底的に調べたはずだ。

 感情的になりやすいというのは、裏を返せば腹芸ができないということ。

 あのおふくろが、冷徹な親父の追求をかわしきるほど、うまく立ちまわれるとも思えない。


 とはいえ、長丸が死んでもっとも利を得たのは、お江だ。

 

 おふくろはこれまで三度結婚をしているが、一度目の結婚は一年未満で破綻したため子はなく、二人目の夫・豊臣秀勝(秀吉の甥)とは一女を、再々婚の親父とは四人の女児をもうけたあと、やっと待望の男児(竹千代)が誕生した。

 つまり、長丸が生まれたとき、おふくろは女児しか産んでいなかったのだ。

 そうなると、男児を産めないお江にとって、長丸の存在はかなりの脅威となる。

 ひょっとすると、おふくろが知らないあいだに、主人の意を忖度した誰かがこっそり手を下したのか?

 ―― 二年前に起きたあの毒まんじゅう事件のように。


「わたしも……長丸兄上に線香をあげてもよいでしょうか?」


「ほぅ、そうしてくれるか?」


 親父の目がなにかを探るように細められる。


「はい。現在、当家では叔父上の御子を預かっておりますので、幼くして亡くなられた兄上が痛ましゅう思えてなりませぬ」


「そうであったな。辰千代(忠輝)の子は……名をなんといったか?」


「徳松にございます」


「おお、そういえば……」


 前方から放たれる峻烈な気が霧散し、おれを見下ろす目に愉悦の色がにじむ。


「先日、茶阿がそなたのことで、わしのところに怒鳴りこんできたぞ」


「茶阿殿が?」


 茶阿局は忠輝の生母で、家康亡き後は、ほかの側室たちとともに北の丸の比丘尼屋敷で暮らしている。


「茶阿が申すには、『大事な孫が、いやしき孤児みなしごらと一緒くたにされておる。国千代は従弟を故意に貶めている』と憤慨しておってな」


「貶めるなど……そのようなつもりは一切ないのですが」


 おれの登城中に、茶阿局がお忍びで孫の顔を見にきたという話は聞いている。

 でも、それ以外のことは、特になにも報告を受けていない。


 たしかに、人手が少ないから年が近い孤児たちといっしょに育てているが、お竹からクレームがきたことはないし、徳松本人もガキんちょ同士、子犬のようにじゃれあって楽しそうなのだが。

 

「わかっておる。茶阿はそなたの屋敷でも怒りにまかせて当り散らし、最後は『このようなところには置いておけぬ! 私が引き取って育てる!』とまで申したそうだ。なれど、それを聞いた徳松の母親が腹を立て、茶阿を屋敷からたたき出したらしい」


「お竹が?」


 茶阿局はお竹の元主人。

 なのに、そんなことを!?


「うむ。そのうえ徳松は、茶阿に抱かれるのをひどく嫌がり、そなたの名を呼びながら、ずっと逃げ回っていたとか。それもあって、茶阿はたいそう機嫌をそこねているのだ」

 

 バアチャン、嫁だけじゃなくて、肝心の孫にまで嫌われたのか。

 ご愁傷さまです。



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