第41話 千姫事件
風邪をひいた。
いうまでもなく、あのスパルタ水練のせいだ。
とはいえ、元来健康優良児だったこともあり、風邪そのものは七日ほどで完治したが、城務めをサボりたくて、「まだ体が重だるい」だの、「なんとなく熱っぽい」だの、「頭が割れるように痛い」だの言って、ウダウダ引きこもっていたら、あっという間に半月も経ってしまった。
職場のほうは、もともと仕事らしいことはなにもしていなかったこともあり、とくに咎められはしなかったが、長期欠勤を心配したおふくろから大量の朝鮮人参が届いたときは、若干良心が痛んだ。
こうなると、稽古事も休まざるをえず、各指南役にその旨を通達した。
ちなみに、おれの稽古は、
剣術 ―― 毎 朝 (於:自宅内道場)
槍術 ―― 月四回午後( 同 上 )
組討 ―― 月一回 〃( 同 上 )
弓術 ―― 月三回 〃(於:吹上内練習場)
馬術 ―― 月三回 〃(於:吹上内馬場)
これにくわえ、夏場は水練が八回ほどあったが、秋以降はなくなっている。
予定がすべてキャンセルになったおれは、自宅でオフ生活を満喫していたのだが、このころ江戸城下ではある事件が起こって、大騒ぎになっていた。
それは、津和野藩主・坂崎出羽守
坂崎はもとの名を宇喜多
余談だが、秀家は関ヶ原では西軍主力として戦い、現在、八丈島でまったりスローライフ中だ。
千姫事件といえば、『大坂夏の陣の際、家康が「大坂城内から千姫を救出した者に姫を下賜する」と公言し、坂崎が命がけで姫を助け出したにもかかわらず、救助の際、顔に大やけどを負ったオッサン(54)を千姫が嫌って、当代一のイケメン大名・本多
しかし、これは完全にフィクションで、坂崎は炎上する大坂城に飛びこんで救出などはしておらず、本当は追い詰められた秀頼親子が、自分たちの助命嘆願をさせるため
その証拠に、豊臣方の護衛・堀内氏久は、最後まで千姫を守りきった功績により、五百石の旗本として取り立てられている。
となると、坂崎が将軍の娘を奪おうとした動機がイマイチわからない。
のちに新井白石は、「坂崎は秀忠に千姫の再婚先周旋を頼まれ、ある公家との縁組をととのえていたのに、千姫がイケメンを選んだため、面目を潰されたオッサンがヤケになって姫を強奪しようとした」と述べたが、それもちょっと信じがたい。
そもそも坂崎というヤツは、直情的で切れやすく、すごく執念深い性格で、旧主・宇喜多秀家と袂を分かつきっかけとなった『宇喜多騒動』や、義兄とのトラブルが改易にまで発展した『富田家改易騒動』等々、あちこちで問題を起こしている。
そんな性格的に難のある、しかも譜代の家臣でもないやつに、親父が大事な娘の縁談を依頼するだろうか?
おそらく親父が坂崎と雑談をしているときに、「千にもいずれいい再婚先を見つけてやらねば」とこぼしたのを、「将軍さまから頼まれた!」と勝手に思いこんで暴走したんじゃないのか?
ここに至るまでの過程は不明だが、坂崎が輿入れ行列を襲うために人を集め、その計画がバレると湯島にあった屋敷に立てこもり、幕府方がそれを一万の兵で包囲する事態になったのは、まぎれもない事実。
今回の件では、坂崎と親交のあった柳生宗矩が交渉役を務め、「おまえがおとなしく切腹すれば、息子への家督相続が認められる」と説得する一方、坂崎の家臣には、「謀反人である主君を家内で処せば、津和野四万石は安堵される」とささやいた。
この調略が功を奏し、九月十一日、坂崎は家臣たちに寝こみを襲われて殺害された。
家臣らは、主殺しを自害に偽装して御家存続を図ったが、幕府はそれをゆるさず、津和野藩は改易となった。
すったもんだあったが、九月二十九日、千姫は無事に桑名藩主・本多忠刻と結婚した。
義兄になった忠刻さんは、徳川四天王のひとり・本多忠勝の孫で、大坂夏の陣ではちゃんと武功も立てており、どこかの
去年、傷心の姉にひどいことを言ってしまったおれは、「千姉ちゃん、お幸せに!」と陰ながらエールを送り、さらにちょっとした罪滅ぼしをしておいた。
罪滅ぼしというのは、あっちの世界で定説化した『千姫事件』のように、千姉ちゃんが命の恩人である坂崎をフッたことが事件の発端と言われないため、
「家康・秀忠は、坂崎になにも依頼していないし、ましてや千姫を嫁にやるなんて言っていない」
「坂崎は勘違いから独断で縁談をととのえ、それを拒否されて逆ギレし、反乱を企てた」
「徳川ファミリーは、根拠のない言いがかりをつけられた完全な被害者」
という話を、うちのチビッ子軍団を使って、江戸中にバラまいたのだ。
ガキんちょどもは、もとは市井にたむろしていた路上生活者。
この話は、街の口コミネットワークを通じて一気に知れ渡った。
こうしておけば、後世、千姉ちゃんが不当に非難されたり、加害者である坂崎に同情が集まることもないだろう。
おれ、グッジョブ!
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