第40話 水練



 八月某日。 

 おれは、数人の野郎どもといっしょに川船に乗っていた。



 ―― ギィッ ギィッ ――


 水手かこのひと漕ぎごとに船は岸から離れ、舳先へさきの水切音にのどやかな江声が混じりあい、みな押し黙ったまま、その水音に耳を傾けた。


 船は、大川(隅田川)のほぼ中央で泊まった。


 不規則な川浪にゆらりゆらりと揺動する船底に座ったまま、周囲を眺める。


 このころの隅田川は千住大橋以南には橋がひとつもなく、視界のほとんどを占めるのは、大川の水光と快晴の天空のみ。


 自分たちだけ現実世界から切り離されたような不思議な感覚に浸っていると、


「名前のとおり、ずいぶんと大きな川なのですね」


 となりに座る少年がポツリとつぶやいた。


「最後にこのようなすばらしい景色を見ることができて、私は果報者です。今日のことは生涯忘れません」


 澄んだ瞳に感謝の色をにじませて深々と頭を下げる少年。


 だがおれは、ガキらしくないその物言いにイラっとした。

 

「なにをバカな! おまえが参府した折には、また連れてきてやる。だから『最後』などと言うな!」


「……国千代さま……」


 キツイ口調でとがめると、少年――幸松は目を見開いて固まった。


 そんなおれらを、供たちは沈黙したまま見守っている。


 じつは、このたび異母弟の幸松が、武田の旧臣・保科正光に預けられることになり、近々その所領・信濃国高遠に行くことが決まったのだ。


 今日は、「江戸を離れる前に一度『伊勢物語』にも出てくる『すみだ川』が見てみたい」という弟のリクエストにより、お別れ遊覧船ツアーをしているのだ。

 

 孤児救済計画に武田信玄の娘・見性院を巻きこんだおれは、折々に見性院と幸松が住む比丘尼屋敷を訪れて接近を図った。

 

 通説では、幸松とその生母・お静が隠れ住んだのは、おれの母親が嫉妬に駆られて、ふたりの命を狙ったからだと言われている。

 その真偽のほどは定かではないが、実際こうして出家した老女の下でひっそり暮らしているところを見ると、なんらかの危険があるのはたしかなようだ。


 そんなワケあり親子に、今まで疎遠だった異母兄が不用意に近づいては、いっそう警戒されるのがオチ。


 そこでおれは、毎回孤児十人ほどに小石川村で採れた野菜を持たせて、「無害なただのガキんちょですよ~。刺客なんかじゃありませんよ~。差し入れを持ってきただけですよ~」をアピールしつつ、徐々に距離を詰めていった。


 最初こそバリバリ警戒していた見性院バアチャンも、同行メンバーに特にアホっぽいやつらをセレクトしたおかげか、はたまた持参する新鮮な野菜の魅力に取りつかれたのか、少しずつ気をゆるしはじめ、最近はコマ回しや『子をとろ子とろ』等をしていっしょに遊ぶのを黙認してくれるようになった。


 そんな地道な努力をすべてブチ壊す突然の養子縁組話。

 

 たしか、幸松が高遠に行くのは、もう少し後だったはずなのだが…………もしかすると、おれがあっちの忠長とはちがう生き方ルートを選択したせいで、幸松にも影響が出はじめたか?


 だとしたら、別れる前にできるだけイメージアップしておかなければ!


「幸松、高遠は領地の約八割が山で、コメ作りには適さないやせた土地だそうだ。今おれが手がけている二種類のイモはそうしたやせ地でも育つ、いわば『お救いイモ』だ。うまく種芋が増えたら、栽培法を添えて送ってやるから、百姓どもに育てさせろ。そうすれば、飢饉の際に、多くの民が命をつなぐことができる」


「ありがとうございます。かならずやお言いつけどおりにいたします」


 五歳下の弟は涙ぐんで、再度頭を垂れた。


「では、餞別としてこれをやろう」


 そう言って懐から小刀を取り出す。

 それを包む金襴の刀袋には、三つ葉葵紋がくっきりと浮かびあがっている。


「これは、おれがご宗家を出たとき、父上からいただいたものだ。お守り代わりに持っていけ」


「そ、そんな貴重なものはいただけません!」


 蒼白になって突き返す小さい手を、仏のごとき笑みで押しやる。


「いいんだ。慣れぬ土地では、つらいことも多いだろう。そんなとき、心を慰めるよすがとして手元においておけ」


「く……国千代……さま」


 幸松はいまだに親父から認知されていないので、当然、将軍家に連なる証などは持っていない。

 だから、徳川の家紋が入ったグッズは、幸松にとってなににも代えがたい品になるだろう。


 案の定、幼い弟は小刀を胸にかき抱いたまま、泣きじゃくっている。 


(よっしゃー! これでおれに対する好感度は、上限に達カンストしたはず!)


 計画どおりの展開に、内心ホクホクしていると…………、


 ―― ドン ――


 横合いからものすごい力でド突かれた。


 ―― バッシャーン ――


 気づくと、おれは水中に。

 またたく間に水を吸って重さを増した着物が、おれを水底へと引きずりこむ。


「な、なにをするー! 人殺しー!」


 必死の思いで浮上し、ゲホゲホと水を吐き出しながら叫ぶと、


「ほれ、そのようにジタバタするばかりでは溺れますぞ?」


 おれを川にたたきこんだ男――又一は、船上から偉そうに言い放つ。


「ッ、バカやろ……(ブクブク)……今、何月だと思って……(ゲホゲホ)……水練の季節ではな……(ガハッ)……それに今季は……着衣泳の練習は一度もして……(ウプッ)……」


「なにを申される!? 戦は夏ばかりとは限りませぬぞ! いかなる季節でも、またいかなる条件下でも泳げぬようでは、真の鍛錬とは言えませぬ!」


「ふざけるな!」


 親父に稽古の件で直訴して以降、槍の稽古は月に四回――渡辺が一回、あとの三回は又一――と決まった。

(小栗の稽古日は、又にちなんで、毎月一日・十一日・二十一日)


 そう決定した直後、おれの屋敷が工事に入ったため、おもに稽古は吹上で行うことになった。


 それからは、親父の命令で、勤務後、奥のおふくろのところで軽食を取り(ムリヤリ面会の機会を設定された)、そのまま本丸北西の西桔橋から吹上に出向き、槍や弓道、馬術などを習っている。

 吹上にはそうした練習施設が整っており、そこに武芸ごとの指南役が待ち構えていて、暮れ六つちかくまで指導を受ける。


 ところが!

 槍術指南役であるはずの又一が、なぜかどの稽古にもしゃしゃり出てきて、横からチャチャを入れてくるのだ!


 とくに夏限定の水練では、本来指南役は又一の次男・小栗仁右衛門なのに、いつのまにか又一が主導権を取ってしまい、いっしょに練習をはじめた柳生十兵衛はジジイの口うるさい指導を嫌がり、二回目からは稽古にこなくなったほどだ。


 これじゃ、前と変わらない!

 また親父にチクってやるー!



 弟子の反感などまったく頓着しないジジイは、なおも船からウダウダ言いつづけている。 


「叔父の五郎太徳川義直さまは、立ち泳ぎをしながら弁当を召し上がれるのですぞ! 国千代さまも精進すれば、その域に達することができまする!」


「おれは弁当は座って食う! 泳ぎながら食う必要などない!」


「さような屁理屈ばかり言われるから、なにごとも上達しないのです。無心になって掴み取られよ! 体から力を抜き、プカ~っと浮いて、ササーっと水を掻き、そのままスルスルとお進みなされ!」

 

「……言っている意味がわからない……」 


 思えば、コイツの槍術指導も、


「シュっと振り下ろして、ガッと受け止め、スルリとかわして、ザッと薙ぎ払う」みたいな説明で、なにがなんだかサッパリ理解できなかったが、まんまアレと同じだ。


 まさに、プロ野球元G軍主砲だったミスターN氏の打撃指導の「スーッと来た球をガーンと打つ」と同じ、指導者に向かない天才アスリートの典型なのだろう。


 ――などと、述懐していたら、あれよあれよという間に川底に。


 そんなおれを、ようやく我に返った供が飛びこんで助けてくれた。


「……ゲホッゲホッ……」


「兄上ー!」


 激しく咳きこむおれに、弟が号泣しながら取りすがる。


「まったく、みなで甘やかしおって。亡き大御所さまは、幼き長福丸徳川頼宣さまが落馬して小川に落ちた折にも、近習らには助けることをけっして許さなかったというに……これでは、いつまで経ってもひとかどの武将にはなれぬのう」


 おい、又一! 

 頼宣の場合は、不慮の事故だろう!?

 しかも、

 家康ジジイだって、子どもでも足がつく深さだから放置してたんじゃないか!


 は幅約200m、水深はおそらく4~5mはある!

 そのうえ、これはじゃなくて故意だ! 

 あのまま溺死していたら、立派な殺人だぞ!


「ヘックション!」


 さわやかな秋風が濡れた体から熱を奪っていく。


 ちなみに旧暦八月は、グレゴリオ暦の九月中旬から十月初旬あたりだ。


「覚えてろ……今に……絶対……目にもの……ベックショイ!!!」


 ガタガタ震えながら吐き出す呪詛を、老師クソジジイは不敵な笑みを浮かべて受け流した。


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