第38話 金肥
時は少しさかのぼり、朝倉邸に居候中のある日のこと。
出勤のため登城すると、
「本日の講書役は、林道春にございます」
上座の兄貴に、松平三十郎がおごそかに告げた。
「うむ」
(……今日は林羅山か)
ゲッソリしながら、風呂敷包みから五経を取り出し、小卓に載せる。
林道春ことのちの羅山は、朱子学系儒者。
その聡明さから、二十三歳の若さで家康のブレーンに加えられ、彼の功績の最たるものは、大坂攻めのきっかけとなったあの『方広寺鐘銘事件』。
このとき林は、豊臣が奉納した梵鐘に刻まれた『国家安康』『君臣豊楽』の文言を「徳川を呪うものだ!」とこじつけた。
頭の良さが真っ黒い方向に活かされた好例だろう。
そして、昨日は以心崇伝(金地院崇伝)に、法律学・外交政策をレクチャーされ、おとといは天海から
そうはいっても、こうなったのは、おれが親父に「朝は新陰流、午後は又一に槍術の稽古をさせられて、学問をする暇がない!」とチクったせい。
おれとしては学問ウンヌンはただの口実で、「このアスリート仕様をなんとかしてくれ!」と訴えたつもりだったのに、親父はなにをどう勘違いしたのか、
しかも、おれは「
おれは、
とはいえ、受講するのはおれと兄貴だけではなく、そのとき近侍している小姓たち全員だ。
おそらく、おれだけに受講させるとあまりにもあからさますぎるので、「側近らにもいい教育を受けさせて、将来竹千代を支える人材の育成」とか、もっともらしくうそぶいているにちがいない。
しかし、そんな小細工は案外見ぬかれているようで、この勉強会がはじまってからというもの、おれに対する近習たちの態度がさらに冷ややかになった。
そりゃそうだろう。
この超カリスマ講師による講義が行われるのは、四つから八つ――おれの勤務時間とピタリと重なる。
つまり、おれは傍仕えとは名ばかりで、実際は小姓としての仕事はせずに、通塾しているようなものなのだ。
(もうホント勘弁してほしい)
休憩時間になったとたん厠に駆けこみ、暗い個室でひそかにたそがれる。
(毎度毎度、親父の愛が重すぎる)
この時代のトイレはいうまでもなくポットン便所。
目をこらせば、下の方にブツが視認できる構造なのでとんでもない臭気が上がってくるが、同僚からハブられているおれには、この劣悪な空間しか城中に居場所がない。
(そういえば、大学で便所メシしてるやつがいたが、今ならその気持ちがなんとなくわかるような気も……)
と、そこへ複数の野郎どもがドヤドヤと入ってきた。
「うわっ、くせぇ!」
「今日は一段と臭いな」
薄い戸板越しに聞こえてくる騒々しい会話。
(……なんでだよ? せっかく逃げて来たのに)
ついさっきまでいっしょにいた小姓仲間のようだ。
そいつらは用を足しながら盛んにくっちゃべっている。
「このにおい、あれと同じだな」
「ああ、あれな? 国千代のにおいな?」
「ご名答~!」
(え? おれの?)
「おいおい、それは言っちゃマズイだろ?」
(この声は……三浦重次?)
「だって、本当のことじゃないか」
(こっちは坂部か?)
坂部は兄貴のお気に入りで、その自信からか、やたらとおれに突っかかってくる。
「アレでもいちおう、竹千代さまの弟君であらせられる。失礼があってはならぬぞ」
三浦らしき男がわざとらしく諫める。
「「「ぎゃっはっは! やめろよ、手元が狂うじゃないか」」」
「あー、こいつ、袴を濡らしやがった! きったねーな!」
「おまえが変なことを言うからだろうが!」
「「「くせぇ、くせぇ、国千代のにおいだ~」」」
「にしても、公方さまの御子が糞集めとはな。どこまでも意表をつく御人だ」
「たしかに!」
「あのお方は、一生剣を抜きたくないなどと言う臆病者だ。他人の糞を集めている分には、命の危険はないからな」
「「「ちがいない、はっはっは」」」
(……ちきしょう……)
自分に対する嘲笑が響く中、屈辱と羞恥に身をふるわせる。
悔しい。
悔しいが、怒りの持っていき場がない。
なぜなら、それ―― 糞集め ――は、まぎれもない事実だから。
今回の飢饉対策で、おれは肥料についても考えてみた。
単純に考えれば、今農地として利用していない土地を開墾して絶対数を増やしておけば、たとえ凶作になっても、多少は収穫できるはずだ。
しかし、今現在使われていないのは、その土地がやせていていて、労働の対価に見合うほどの収穫が見こめないからだろう。
では、どうしたらいいか?
やせ地を手っ取り早く改良するには、土に栄養を入れればいい。
肥料の中でも、戦国時代くらいから使われるようになった
干鰯というのは、獲れすぎたイワシを丸ごと干したもので、このころは主に西海道・南海道(今の九州・四国)で作られている。
江戸時代中期あたりからは房総でも生産されるようになるが、今これを使うとしたら、遠方から大枚をはたいて取り寄せなければならない。
干鰯以外では、油粕――菜種・ゴマ等から油を搾り取った残り粕もいい肥料になるが、どちらも
だが、おれが手がけているのは、貧しい百姓が飢えないための救荒作物。
それなのに、金を使って土壌改良させては本末転倒だろう。
そこで目をつけたのが人糞、いわゆる下肥だ。
人や牛馬の排泄物は以前から肥料として利用されていたが、江戸時代も半ばを過ぎると、経済活動が活発になり、しだいに商品作物の需要が増えはじめ、肥料の必要量が一気に増大する。
やがて自前の下肥だけでは足りなくなった百姓たちは、作物の消費地である都市部に商品を運び、その帰り便で下肥を持ち帰るようになる。
とくに、徳川本城や大名屋敷が集中する江戸は下肥が豊富で、しかも上級武士は下々の者たちにくらべて良いもの――栄養価が高いものを食べているので、当然そのウ●コにはより多くの栄養分が含まれている。
今後、江戸近郊の農民たちは、大名屋敷の汲み取り権をめぐって熾烈な戦いを繰り広げることになるはずだ。
二十一世紀的感覚なら、日々溜まりつづける便所の糞尿は金を払ってでも除去してほしいところだが、江戸時代の百姓は、争って排泄物を買い求めた――ようするに、いずれ人糞も金肥になるのだ。
そして、
だからおれは、例の救荒作物栽培認可のどさくさにまぎれて、江戸城の汲み取り権も得ておいたのだ。
といっても、おれ自身が下肥を集めてまわるわけではない。
それは、試験場周辺の百姓たち――おれの知行地の農民がやっている。
じつは、この試験栽培が決まった後、親父の指示で、おれの領地の一部と小石川村がトレードされた。
いうまでもないが、このあたりでは稲作はおこなわれていないので、石高としてはちょっとマイナスになるのだが、近場に自分の領民がいればいろいろな作業に使役できる。
実際、圃場整備・タネイモ植えつけ等の農作業は小石川村の百姓がおこない、正太たちはそのアシストをしているだけ。
将来的には農業試験場の運営管理を孤児たちに任せようと思ってはいるが、現在十歳前後のガキんちょに荒地を開墾する重労働をさせたり、未経験者に貴重な輸入種苗を扱わせるなんて無謀すぎる。
だから、正太たちには今、小石川のお百姓衆に技術指導をしてもらいながら、子どもでもできる草取り・圃場の石拾いなどをさせている。
そのプロジェクトの一環として、江戸城の下肥汲みも彼らに依頼しているのだ。
汲み取った糞尿は馬で小石川まで運び、圃場内に設けた肥料置き場――肥用に埋めた数十の大壺にそれを入れ、子どもたちが抜いた雑草やワラを適当に加えて熟成させる。
ヒトの糞尿はいきなり植物にぶっかけるのではなく、こうして発酵させてから利用するのだ。
とはいえ、大量に作った肥料はイモ栽培だけでは使いきれない。
その余ったものを小石川村で有効利用してもらえば、野菜がわんさか取れて、領主のおれもウハウハというわけだ。
とはいうものの……武辺者の小姓たちにすれば、おれのやっていることは理解不能だろう。
あいつらは、おれが江戸城の下肥を集める許可を得たことをあげつらって笑いものにし、特別扱いされているおれへの鬱憤を解消しているのだ。
そもそも、おれが兄貴の近習になったのは、やがて家光期の幕閣になるはずの小姓たちと仲良くなっておけば、将来なにかあったとき、仲介の労を取ってもらえると期待してのこと。
だが、どうやら狙いは完全に外れたようだ。
だとしたら、早急に別の策を模索しなければならない――切腹回避のために!
やれやれ、またひとつ面倒ごとが増えたようだ。
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