第36話 訃報


 ―― 元和二年四月十七日巳の刻 徳川家康 駿府城にて死亡 ――



 その一報に接した瞬間、おれの体中を熱い歓喜が駆けめぐった。


「御前さま……心中お察し申しあげます」


 吉報を運んできた藤吉は、うなだれるおれに慰めの言葉をかけた。


 笑顔を見られぬよう、とっさに両手で顔を覆ったのを、泣きだしたと勘違いしたらしい。


「しばらく……ひとりに……してくれないか?」


 ともすれば凱歌をあげそうになる自分を叱咤し、震える小声で要請する。


「わかりました。しばらくこちらには誰も近づかぬよう、みなに申し伝えます」


 どうやら藤吉は、おれが「悲嘆にくれる弱々しい姿を他人に見せたくないから人払いした」と思ったようだ。


 襖の開閉音につづき、部屋から遠ざかっていく足音。

 藤吉の気配が完全になくなるまで、おれは懸命に耐えた。必死に笑いをかみ殺しながら。


(やったーーー!!!)


 あまりの解放感に、小躍りしたくなるが、それは我慢我慢。


 家康のカリスマ性は絶対的だ。

 この屋敷の家人が、誰とどこでどうつながっているかわからない。

 妙な行動をとったら、それを邪推されて、おれがジジイに一服盛ったと言われかねない。


 それに、藤吉が誤解したように、ふつうなら偉大な祖父の死は悼んで当然。

 なのに、悲しむどころか狂喜するなんて、おれの人間性そのものが疑われる。


 血のつながった祖父の死を喜ぶなど、けっして褒められた行為ではないが……あいつはおれを心底嫌っていた。

 おれは、あっちの国松とは違って、自分の意思で後継者レースから降りた。

 にもかかわらず、あの日、ジジイから向けられた悪意は、尋常なものではなかった。

 もし、あいつが最高権力者として君臨しつづけていたら……たぶんおれは、あっちの世界より早く消されていただろう。

 そう確信させるくらいの害意が、あいつの全身からあふれ出ていた。


 それが……。


 そうしておれは、床につっぷしたまま、いつまでも笑いつづけた。



 家康は、一月二十一日、駿府郊外で鷹狩をしていたときに倒れた。 


 親父はその翌日に駆けつけたが、残った政務を処理するため一度江戸に帰り、再度二月一日に江戸を発って、二日に駿府到着してからはずっとジジイの枕頭に侍っていたわけだが、そんなあわただしい中でイモ栽培に関するアレコレを手配してくれたのかと思うと、すごく申しわけない気持ちになる。


 しかし、これにはある背景があった。


 それは、一月初旬くらいからささやかれはじめた伊達政宗謀反のウワサ。


 病中の家康は見舞いに行った親父に、


「政宗がヤバそうなので、おまえは江戸で征討の準備をしろ」


 と命じ、外様の細川や毛利も、国元に出陣の用意をしておくよう急使を立てたほど切迫した事態だったのだ。


 つまり親父は、伊達の領地を接収したときに備えて、いまも大飢饉まっただ中の奥羽の民を将来的に救う施策としてイモは有効だと考え、援助してくれたのだろう。


 ちなみに、伊達謀反のウワサは、政宗の娘婿である松平忠輝の讒言がネタ元だったらしい。


 二度の大坂の陣でいろいろしでかした忠輝は、家康から勘当を食らってテンパったのか、


「舅の政宗は豊臣方に内通していた! だから大坂の陣では、オレが進軍するのを妨害して、まともに戦えないように謀ったんだ! あいつはあっちが劣勢になったんで、徳川に臣従するフリをしたが、今回父上家康が病に倒れたのを機に、天下を奪おうとしている!」


 と、自分のミスを義父の伊達に押しつけて、失地回復をたくらんだらしい。


 そんなドタバタがあったものの、ジジイの遺体は亡くなった日の夜に久能山に運ばれ、神式で葬儀がおこなわれたあと、十九日に埋葬。


 その後、江戸にもどった将軍秀忠によって、芝増上寺で盛大な法要が営まれ、位牌は三河大樹寺に無事安置された。


 あとは、一周忌が過ぎたころ、日光に小堂を建てて勧請すれば、すべて完了。

 親父は、ジジイの遺言を文句のつけようもないくらい完璧に遂行しきった。


 余談だが、ジジイの死因は、俗に言われる「天ぷらによる食中毒」ではなく、胃癌だったらしい。


 これについては、親父秀忠もその疑いがあるので、今後は注意して見ていこうと思う――自分自身のためにも。


 そういえば、ジジイの申し送りのひとつに、忠輝の改易・押し込めもあったはず。

 実の弟の処分を任された親父……さっそく胃をやられそうだ。


 

 葬儀関連のもろもろが一段落したころには、季節はすっかり夏本番。 

 二十一世紀のガキんちょなら、夏休み真っ最中のグレゴリオ暦八月初旬――旧暦六月中旬。


 その日もおれは、アウェイな職場での勤務を終え、足取りも重く職員通用口に向かっていた。


 と、そのとき、


「国千代さま」


 横手から呼びかけられ、振り返ると、


「森川?」


 見覚えのある顔を見つけて、思わずニッコリ。


 森川重俊は、長年親父の近習をしている男。


 三年ほど前、妻の養父・大久保忠隣の改易に巻きこまれて改易になったものの、大坂夏の陣で手柄をあげ、ふたたび親父の近習に復帰したらしい。


 森川とは、おれが独立するまでは、よく顔を合わせていたのだ。


「なにか用か?」 


「上さまがお呼びにございます」


「わたしを?」


「ささ、こちらへ」


 森川は、首をひねるおれを急きたてて、奥へと導く。


 

 しばらくぶりに立ち入った奥は、見違えるように変わっていた。


 ……いや、建物や調度品は以前と同じなのだが、雰囲気が前回――ジジイに糾弾された半年前とは全然ちがっている。



「松平国千代、まかり越しましてございます」

  

 森川が閉ざされた襖に向かって告げると、


「これに」


 奥から響く父の声。


 許可を得た森川は、雄渾な水墨画が描かれた襖を静かに開く。


「近う」


 ずっと廊下に頭をつけていたおれは、中腰で中に入る。

 

「もそっと近くに」


 入ってすぐのところで平伏すると、再度うながされる。


「ここだ」


 次之間から、親父の座る一之間に進んだおれに示されたのは……、


「なぜ膝の上に?」


 笑いながら手を広げる親父に、思考がついていけない。


「いいから、来い、


 それを聞いた刹那、おれの涙腺が決壊した。


「上さ…………」


「さぁ、国松さま、お早く」


 次之間との境を封じた森川が優しくうながす。


「父上ーっ!」


 勢いよく飛びこむおれを、厚い胸板が難なく受け止める。


「国松」


「ち、父上……」


(ぐぇぇ、苦しい、中身が出ちゃいます!)という訴えは、突如湧きあがった嗚咽に霧散した。


 背骨が折れるほど強く抱きしめる腕は、小刻みに震え、


「国松……国松……国松」

 

 うわごとのように繰り返されるおれの名前。



 いったい……どうしたんだ、親父は?



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