第32話 柳生道場


 身支度を終えたおれたちは、対面といめんにある柳生の屋敷にむかった。


 時刻は、ようやく東の空の端がオレンジに染まりはじめるころ。

 おれはチビたちと手をつなぎ、前後を護衛の侍たちに囲まれて、薄暗い小路を横切り、向かいの薬医門をくぐった。


 屋敷にいる時から聞こえていた喧噪が徐々に大きくなってくる。


 柳生屋敷の稽古場は、母屋と渡り廊下でつながる広さ四十畳ほどの板敷きの離れで、ここは家人や内弟子たちの練習場。

 通いの弟子たちは、もっと大きな道場がある麻布の屋敷で稽古をつけてもらうらしい。

 


 稽古場ではすでに多くの門人たちが朝稽古をはじめていた。


 はげしく打ち合う音、力強い踏み込みの音、それらを凌駕する気合の入った野太い咆哮等々、早朝からクレームが殺到しかねない騒音をまき散らしている。


 柳生の剣術流儀『新陰流』は、兵法三大源流のひとつ『陰流』から派生した流派で、元和二年から五十年ほど前、剣聖上泉信綱かみいずみのぶつなが編みだし、それを左門たちのジイチャン柳生石舟斎(宗厳)が伝授されて以来、一族をあげてこの流儀を極め、俗に『柳生新陰流』と呼ばれる一大流派となる。


 そして、石舟斎の五男・宗矩が将軍の兵法指南役に就任したことで、新陰流は徳川家御流儀となるが、これは『江戸柳生』と称され、他方、宗矩の甥・兵庫助利厳(長兄厳勝の長男)が尾張藩兵法師範となって伝えたものは『尾張柳生』と呼ばれる。

 以後、どちらが正統かはげしく争うことになるのだが、兵庫助が尾張藩に出仕するのは、たしか元和元年。今はまだ、二家が本家争いをするにはいたっていない。



 氷片をふくんだような早朝の冷気は、男たちの体から立ち上る蒸気で温められて、道場内はそこそこ暖かい。 

 

 おれとチビふたりは、大人たちのジャマにならないよう隅っこで、袋竹刀を振って、『形』稽古をはじめる。


 袋竹刀は、一本の竹を中ほどで四つ割りにし、その先を八つに、先端部は十六に割り、グリップ以外の部分を牛馬の皮革で包んだもので、新陰流の創始者・上泉信綱が考案したといわれる。


 上泉が袋竹刀を考案するまで、剣術の稽古では木刀を使っていた。

 この時代はまだ稽古用防具がないので、木刀を使った稽古では接触するギリギリのところで止める寸止めで行っていたらしい。


 ところが、袋竹刀ができたことによって、実際に体に打ちこんだり、激しく打ち合ったり、戦と同じ打ち間――一足一刀の間合い――の稽古が可能になった。

 ちなみに、『一足一刀の間合い』とは、こちらが一歩踏み込めば相手を打ち込め、逆に一歩下がれば打突をかわすことが出来る距離のこと。

 

 おかっぱの美幼児と、柳生宗矩おやじそっくりないかつい金太郎くんのとなりで、ダラダラ竹刀を振る。

 大人たちはだいたい三尺二~三寸(約1m)の竹刀を使っているが、おれたち子どもは二尺弱(約60cm)の小太刀だ。


 ―― シュン シュン ――

 ―― シュ シュ ――


 同じようにやっているはずなのに、あいつらとおれの発する音が全然ちがうのはなぜだ?


 もともとそんなにやる気がないせいか、はたまたもって生まれた素質の差なのか、最近はチビどものほうが上達しているような気がする。


 

 刹那、

 

 ―― ヒュンッ ――


 目の前を黒い影が横切り、


 ―― ビシッ バシュ ――


「「ギャー!」」


「やめろ、十兵衛っ!」


 ギャン泣きしはじめる子どもたちに駆け寄り、ニタニタ笑う悪童を怒鳴りつける。


「おれたちはまだ打ち込み稽古はしないことになってるんだ!」


  袋竹刀は木刀より当りが柔らかいといっても、勢いをつけて叩かれたら、竹刀でもかなり痛いし、ましてや防具なしの無防備な体をひっぱたいたらケガもする。

 だから、おれたちのような初心者は、いきなり打ち込み稽古はせず、まずは攻防の動作『形』の練習をするのだ。


「なんでいつも弟たちをいじめるんだ!」

 

 おれよりはるかに高いところにある陰気な目を見上げてなじると、


「ふん。兄として、ふがいないこいつらに喝を入れただけさ」


 クソガキは、そううそぶいて、竹刀をもてあそびながらせせら笑った。


「よその屋敷でぬるい暮らしをしているから、いつまでたっても形ひとつ満足に覚えられないんだ」


「そんなことはない! 左近も又十郎も一生懸命やっている。ましてや、小さい子の頭蓋骨はまだ柔らかいんだ。頭を強く叩くな!」


 おれの大事な人質になにしてくれるんだ!?

 万が一のことがあったら、おれの命に直結するんだ。ふざけんな!


「そうやって国千代さまが甘やかすから、なかなか上達しないんだ。それに、こいつらがいなくなったせいで、わしばかり割を食うハメになったんだ!」


 顔を真っ赤にして不満をぶちまけるガキ。

 その態度には、さっきまでのふてぶてしさはなく、どこか切羽つまったようにも見える。


「割り?」


「ああ、そうだ。こいつらがそっちへ行ってしまったから、まわりのやつらが前以上に口うるさくなったんだ! いつでも誰かに見張られているようで、息苦しゅうてならん! それなのに、こいつらは国千代さまの屋敷でのびのび暮らしやがって……不公平ではないか!」


 最後は涙目になりながら吠える十兵衛に、胸がチクリと痛んだ。


(……なるほど、そういうことか)


 十兵衛は、柳生宗矩の嫡男だ。

 ただでさえ跡取り息子として厳しくしつけられていたのに、弟ふたりがおれの家に引き取られたとばっちりで、大人たちの注意が十兵衛ひとりに向いてしまって、なにかにつけいろいろ言われるのだろう。


 だとすると、それはチビどもを引き取ったおれのせいかも?  


「ならば、家も近いのだし、遊びにくればよいではないか」


「遊びだと!? わしは柳生の惣領だ! 絶えず修練を積まなくてはならないんだ! おまえたちのような惰弱な生き方はできぬ!」


 おっと、これは相当こじらせてるな。

 どうしたら、いいんだ?


 よく考えたら、十兵衛は図体こそデカいが、歳はおれ国松のひとつ下。まだまだ遊びたい盛りのお子ちゃまだ。

 それが、武芸者の家に生まれたばかりに、小さいころから来る日も来る日も修行修行。

 この感じじゃ、同い年の友だちと、鬼ごっこやかくれんぼ等の遊びは一度もやったことがないだろうし、両親に甘えてじゃれるなんてありえないだろう。

 そんな生育環境……あまりに寂しすぎないか?


 ――じゃあ、おれにできることは?


「遊びというのは言葉の綾だ。実際はいっしょに学問をしたり、暖かくなったら、大川(現墨田川)で水練をするんだ。まぁ、たまには釣りをしたり、双六すごろくをしたりもするがな」

 

「水練?」


「ああ、水練は大御所さまも推奨する武士のたしなみ。けっして水遊びなどではないぞ?」 


「そ、そういうことなら、行ってやってもよいが……」


 さっきより和らいだ表情で、モゴモゴ言う十兵衛。


「ただし、弟たちをいじめるなら出入り禁止だ。約束しろ」


「……わかった。もう稽古以外では打たない」


 往生際が悪いいじめっ子は、泣き笑いのような顔でうなずいた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る