第31話 元和二年 一月
拝領屋敷に引っ越してから、約三か月。
暦のうえでは、冬から春へと季節は移ろい、寒気の中にも春のいぶきを感じる今日このごろ。
「
室外からの宣告に、破られる
「わかった」
そう答え、あたたかい寝床からしぶしぶ這いだすと、気配を察知した家人が、廊下側の襖をしずかに引き開ける。
「お先に洗面を」
家人――藤吉は、座敷との境に洗顔セットを置き、外廊下の板戸を繰りにいく。
庭に面した繰り戸が一枚ずつ開けられるたびに、ひりつく冷気がドッと流れこんでくる。
ひとりで洗面・歯磨きを終え、用意された稽古着に着替えてから、朝一番の大仕事に取りかかる。
「おい、起きろ、左門、又十郎」
いまだに眠りこけるガキどもを乱暴にゆさぶるが、『春眠 暁をおぼえず』の言葉どおり、ふたりはぐっすり眠ったまま。
「おやおや、ようお休みで」
寝具を畳む藤吉が、その姿を見てクスクス笑う。
「左門! 又十郎! 稽古に遅れるぞ!」
布団を引っぺがして、思いっきり怒鳴ると、
「……むぅ……」
ようやく左門が目をしょぼしょぼ
「よし、左門は起きたな。こら、又十郎!」
「いやじゃ~」
もうひとりのガキは、はがされた布団に未練たらしくもぐりこむ。
「いいかげんにしろ!」
「いきとうない~」
往生際の悪いガキを布団からなんとか引きずりだし、廊下に連れていく。
「ほぉ、又十郎さまは、今朝は粗相をしておりませんな」
布団を片づけていた男が、笑いながら報告する。
左門と又十郎は、どちらも数え年四つ――満年齢では三歳未満――なので、おねしょはしかたないのだが、なぜか左門はまったくせず、その分を又十郎が補っている。
「そうか、えらいぞ、又十郎」
そう言ってボサボサのおかっぱ頭をなでてやると、父親そっくりに育ちそうないかつい顔がニパッとほころぶ。
「またじゅーろ、えらい?」
「うん、えらいえらい」
年齢に比してできないことが多い又十郎は、言葉のほうもちょっと遅れぎみ。
でも、妙に人なつっこくて愛嬌のあるガキなのだ。
ゴキゲンなあいだにゴシゴシ顔を拭いていると、後ろから遠慮がちに袖を引かれた。
「さもん……は?」
「左門もえらい。毎晩、ちゃんと用をすませてから布団に入る左門はとてもえらい!」
ナデナデしながらほめると、人形のように整った顔に笑みがうかぶ。
左門は又十郎とは真逆で、年齢以上にデキる子なのだが、シャイな性格で、距離をちぢめるのに時間がかかったけれど、最近やっとなついてくれた。
「さあ、急がねば、稽古に遅れるぞ」
「「はい、あにうえ!」」
こうして、今日もわが家の朝はあわただしくはじまったのであった。
おれを『兄』呼びするチビたち――左門と又十郎は、この屋敷の居候。
こいつらのおかげで、おれは日々保育スキルが上がっている。
なぜこんなことになったかというと……あの日――ジッチャンの追及からなんとか逃れ、オヤジに柳生宗矩と引き合わされたあの日――
「上さまより、『遠慮のうビシビシ鍛えよ』との御意をたまわっております。お覚悟めされい」
初対面のガチムチおやじ、将軍家兵法指南役・柳生又右衛門宗矩につげられた恐怖の宣告。
(ちょっとまて。この時代、稽古用の防具なんてあるのか?)
おれは急に不安になった。
(たぶん……ない)
そのうえ、戦国の荒々しい気風が残るこの時代、稽古は相当はげしいだろう。
ということは…………防具なしの面やら胴やらをダイレクトにビシビシぶっ叩かれる可能性大っ!
うわ~、勘弁してくれ~。
それに、ジッチャンだって、
「エライ人はまわりに家臣がいるから、襲撃されたときのために最初の一撃から身を守るていどの腕は必要だが、相手を斬り倒すほどの剣技は不要」と言っている。
また、ジッチャンが作った『
「わが徳川の子孫には、剣術より乗馬と水泳を身につけさせろ。なぜなら、戦に敗れ
だから、痛い思いをしてまで剣術の稽古はしたくないし、する必要もない!
だが、そんなこと言った日には、またオヤジから「武家の棟梁の子が!」と怒られそうだ。
なんとかこのガチムチの
ん!?
そうだ!
「ときに、又右衛門」
おれは体を九十度ひねり、ガチムチおやじにむきなおった。
「おぬし、息子は何人いる?」
「は? 息子にございますか?」
いかつい顔がポカンと呆ける。
「……三人おります。嫡男の十兵衛は九つ。次男は庶出にて左門と申し、三つになります。三男・又十郎は十兵衛と同母で、これも三歳にございます」
十兵衛・左門・又十郎……よしよし、あっちと同じだな。
「ならば、又右衛門、その次男はわたしが預かる」
「さ、左門を? なにゆえに!?」
想定外の要求にテンパる江戸柳生のボス。
「ふむ、わしもその
オッサンとは対照的に、人の悪い笑みをうかべる征夷大将軍。
「それは――」
さて、これがオヤジに通用するか?
「この者が信用できぬからです!」
「ほほう、わしの眼識が信じられぬと?」
ニヤニヤしながら、なじるオヤジ。
「じつはな、こたび、そなたが一家をかまえるにあたり、屋敷の家人はすべて柳生ゆかりのものとし、又右衛門にそなたの身辺警護を任せようと思うたのだが、それを拒むと申すか?」
なるほど、オヤジは独立したおれを守るため、柳生を使うことにしたのか。
まぁ、今後かかわることが多いから、わざわざ引き合わせたんだろうし、そういうことなら、ますますこじつけやすい。
「いえ、父上の御目がねにかなうほどの者ならば、おそらく信じてもよいのでしょう。
なれど、わたしはこたびのことで、かんたんに人を信じてはいけないと、身をもって知らされました」
「国松さま、御身はこの又右衛門が一命を賭してお守りいたしますゆえ、どうかご信頼あって……」
「いや、すまぬが、信用できるかどうかは、己の目で見て判断いたす。ゆえに、見極めがつくまで、おぬしの息子を質として預かりたい。実子とはいえ、庶子ならばかまうまい?」
ジッチャンが任命した
だが、柳生的にはイヤだろう。
なぜならば……。
「質……でございますか」
案の定、オッサンは苦渋の表情。
「ああ。家人すべてが柳生の配下となれば、おぬしの心ひとつで、わたしの生殺与奪が左右されるわけだ。
ゆえに、日々の食事に一服盛られぬよう、おぬしの次男には毒見役として、わたしと同じ膳のものを食わせる。もし、わたしに毒を盛ったら、その子どもも死ぬのだ」
「まさか、さような……」
オッサンは不愉快そうに顔をしかめた。
一方、オヤジは、
「ははは、国松、そなたもしたたかになったな」
なぜか大爆笑。
「よいではないか、又右衛門。そなたの次男、国松に預けよ」
「な、なれど、左門と又十郎は同い年。そろそろふたりには手ほどきをはじめようと思うていたところにございます。この儀、なにとぞご容赦のほどを」
苦々しげに訴える父親。
「それに……見たところ、左門はたいそう筋がよく、将来大成しそうな子にございますれば、手もとに置いて大事に育ててゆきたいのです」
やはりそうか。
あっちの世界でも、左門は夭折した天才剣士といわれていた。
オッサンにしてみたら、才能ある子を手放したくないのだろう。
だが、その執着こそがこっちの狙いめ。
稽古でおれを痛めつけたら、大事な柳生の坊ちゃまが八つ当たりでイジメられるかもしれないと思えば、門弟たちも多少は手かげんするにちがいない。
それに……あっちの世界と同じなら、左門は将来、兄貴の
だとしたら、ガキのころから手なずけておけば、なにかあったとき、おれの助命嘆願要員として使える!
「それほど惜しい息子なら、質にする価値がある。ぜひとも預かりたい!」
「いや、しかし……あのような幼子を……あまりにも不憫……」
オッサンはグダグダぼやきつづける。
「ならば、いっそ三男もともに託してはどうか? 兄弟いっしょならば淋しくはあるまい。そもそも、国松とそなたの屋敷は
という
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