第22話 初仕事は、主君の尻ぬぐい


「すべては、兄上もわたしも、あのまんじゅうが母上からのものと信じこんでいたために起きたのです」


 泥人形から不気味な進化を遂げたオヤジはこの際ガン無視し、片づけやすそうな問題から解決することにした。


「どういうことだ?」


 平穏な口調ながら、それを発した男の周囲にはいまだに黒いオーラが浮遊している。


「兄上はじつの母親に毒を盛られたと思い、悲しみのあまり錯乱されたのです」


 ね?、と横を見やれば、兄貴は赤べこのように何度もうなずく。


「実母に毒を……いかばかりの衝撃だったか。

 かようにはげしい悲嘆にさらされたら、つねならば決してせぬような行動をしても不思議ではございませぬ。ゆえに、わたしに八つ当たりを。なれど……」


 そこで言葉を切ると、兄貴が不安そうに瞳をゆらした。


「さような絶望の中にあっても、兄上は最後まで理性を失ってはおられませんでした。あのとき、兄上はわたしがまんじゅうを口にしようとするのを、懸命に止めようとなさいました。本当に食べさせるつもりなど、みじんもなかったのです」


「ほう。では、なにゆえまんじゅうを食うた?」


 揶揄するような口ぶりに背筋が凍る。


「それは……わたしが兄上の言を信じていなかったからでございます」


「つづけよ」


「わたしは……ねたんだのです。あの日、わたしのところには母上からなにも届いておりません。なのに、兄上にだけ……。

 兄上がわたしを呼びつけたのは、菓子を見せびらかすためだと思うたのです。

 そして、『そのまんじゅうは危険だ』と警告なさるは、母上からいただいた大事なまんじゅうをわたしに食べさせたくないためだと邪推し、意地になって食うてみせたのです」


 うん、とっさに考えたわりにはそこそこ筋が通っている。


 その証拠に、となりのクソガキはポカンと口を開けて、納得顔になっている。


 じゃあ、最後の仕上げを。


「兄上は、日ごろ母上がわたしばかりかわいがっておられると思い悩まれ、意趣返しの具としてわたしを居室に呼ばれたのでしょう。

 それに対しわたしは、母上がつねに兄上に距離を置くは、嫡男として甘やかしてはならぬと自制なさっておられるものの、陰ではいつくしんでおいでだったのだと悔しく思い……われらはともに嫉妬しあい、互いに誤解した結果があの騒動となったのです」


「……誤解などではない」


 ガキらしくない低く暗い声がおれの説を否定した。


「母上は本当におまえのことがかわいいのだ。私のことは……心底疎ましいと……それくらいわかる」


 ああ、やっぱり。

 親に愛されていないなんて、子どもなら敏感に感じ取れる。

 おれもそうだった。


 もしかすると……オヤジもそうなのか?


 ジッチャンも家臣もことあるごとに悲劇の秀才――長兄・信康とくらべたあげく、なにかといえば「ああ、信康さまが生きておわせば」と嘆息する。


 そんな慟哭を聞かされながら、一方で徳川の世継ぎとしてふるまうことを求められ、必死に努力しても、結局は死後ますます美化される兄の麗姿を超えることはできず……。


 そのうえ、長じてみれば今度は一才ちがいの同母弟――美形でデキのいい忠吉の称賛を聞かされる日々。


 人望のあった忠吉は、家中ばかりか諸侯にまで愛され、だれからも『この方のためなら命も惜しゅうない』と、慕われていたという。


 同腹の弟として他の兄弟よりは親しみもあったろうが、内心はいろいろ複雑だったにちがいない。



 考えてみると、おれたちは似たような痛みをかかえているのかもしれない。


 三人とも、優秀な兄弟に対する鬱屈した想いという痛みを。



「いえ、兄上、それはわたしが兄上より年少だからです! 人は本能的に小さきものを庇護したくなるものなのです!」


「いや、そうではあるまい」


 ガキらしくないほろ苦い笑みが口の端に上る。


「ちがいます! その証拠に、大御所さまはあまたおられる御子の中でも、最年少の三人の叔父上たちをことのほかかわいがっておいでではありませぬか!」


「ああ、そういえば」


「なるほど一理ある」


 意外。

 オヤジまで、こんな見えすいたちゃちな言い訳を真に受けるとは。



 それとも……信じたのではなく、そう信じたいだけなのか?



 自分にむけられる愛情が薄いのは、優劣美醜によるものだけではなく、年齢という己の努力だけではどうしようもないファクターが原因なのだと。



 美少年&利発な国松のおためごかしのキレイごとではなく、誕生以来つねに劣等感にさいなまれつづけていた、みじめで哀れな【おれ】の――心に同じ渇きをもつ者の――想いがこもった言葉だったから、ふたりの胸の中にすんなり入ったのか?

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