第12話 松平


「国松っ!?」


 オバチャンの悲痛な叫びが、将軍私邸居室にひびきわたる。


「バカなことを申すな!」


 一方、オヤジは、


「松平姓だと?」


 秀麗な眉をわずかにしかめ、静かにおれを観察しはじめる。


「それがいかなる意味か、わかったうえで申しておるのだろうな?」


「はい、そのつもりです」



 当然、わかったうえだ。 


『松平』姓をたまわって分家する、イコール、将軍の家来になることだと。



 今のおれは『徳川秀忠の三男の国松』。

 

 だから、このまましばらく父の子として徳川宗家に籍を置き、いずれ所領を与えられ一家を立てる際『徳川』姓をもらえば、実家から独立しても、おれは将軍候補でいられる。


 だが、ひとたび『松平』姓で分家してしまったら、将軍職を継げる可能性は少なくなる。


 そうなれば、オヤジの後継者は、正室の生んだ唯一の『徳川姓男子』の竹千代兄貴だけ。


 もし、兄貴になにかあった場合は、オヤジの異母弟でジッチャンのお気に入りのふたり ―― のちに御三家の祖となる義直よしなお頼宣よりのぶ ―― のどちらかが将軍になるだろう。

 


「……千、和、席をはずせ。そのほかのものもだ」


 憂い顔のオヤジが、けわしい口調で命じた。


 泣きすぎてボロボロになった千ネーチャンと、妹の和姫が侍女たちに付き添われて退出すると、オヤジはおれと兄貴を近くに招き寄せた。


 ことは次期将軍位に関わる重大事。

 うかつに人に聞かせられる話ではない。



「さて、国松」


 四人だけになったところで、オヤジが切り出した。


「なにゆえ、突然さようなことを?」


 オヤジの目は、今や父親のそれではなく、まぎれもなく為政者の眼光に変わっている。


 その迫力に内心気圧されつつ、おれはゆっくり口を開いた。


「よからぬ野心を抱くものに、利用されたくないからです」


「ほう? それはどういう意味だ?」


「こたび豊臣が滅びたことで、国内には徳川に正面から抗する勢力はなくなりました。

 まあ、その残党による小規模反乱はあるでしょうが、数万規模の合戦などそうは起こりますまい」

 

 とはいうものの、今から約二十年後、島原の乱が起こるかもしれないがな。

 

「それが?」


「これからは戦場で武功を立て、立身出世することはむずかしくなります。

 今後、家格を上げようとするなら、権力を持つものの引き立てにより、栄達するしかありませぬ。

 となれば、次の将軍位をめぐり、熾烈な政争が起こる……いや、こたびの件を見るに、もうすでにはじまっているのかもしれませぬ」

 

「つまり、そなたと竹千代、いずれかを担ぎ上げ、恩恵にあずかろうとたくらむ者同士が相争うと?」


「はい、そうなれば、先日のようなことがふたたび起こるでしょう。

 また、逆にわたしを退けたいと思うものに一服盛られるおそれもあり、生きた心地がいたしませぬ」


「ゆえに、松平姓になりたいと?」


 オヤジはおだやかな口調で問いかける。


。なのに、周囲が勝手に対抗意識を燃やして策動し、あげく、騒動に巻きこまれて命を落とすなどごめんです」


 将軍継承レースからの離脱宣言だ!


 ところが、


「ならぬ! 国松、さようなこと、母はゆるしませぬぞ!」


 顔を真っ赤にしたオバチャンが、すさまじいバカ力でおれの肩をゆさぶりはじめた。





 

 


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