第5部:クローバーの花言葉

プロローグ:あの子、猛クンって言うんだ

 

 須藤淡雪|(すどう あわゆき)は名家に生まれた、いわゆるお嬢様だ。

 古くから続く旧家の跡取り、次期当主と言う立場。

 生まれ持って決められた運命。

 その運命が“彼”の運命まで変えていたなんて思いもしていなかった。

 あの夏の暑い日の事を淡雪は今でも鮮明に思い出せる。

 セミの鳴く公園、淡雪はひとり、ベンチに座っていた。


「どうしよう、迷子になっちゃった」


 土地勘のない小学生の低学年の子供。

 見知らぬ場所、紙に書かれた住所だけを頼りに来るのは無謀だった。

 家の場所も分からなければ、帰る道さえ分からない。

 あいにくと助けを呼ぶための大人の姿もなかった。

 

「うぅ、ひっく……」

 

 堪え切れなくなった、寂しさと孤独。

 淡雪は不安に押しつぶされて泣きそうになりかけていた。

 その時だった。


「大丈夫? キミ、迷子なの?」


 いつの間に淡雪の顔をのぞき込んでいた男の子がいた。


「え? あ、うん」

「迷子かぁ。おうちはどこか分かる?」


 淡雪は彼の問いに首を振る。

 身体の大きさから、淡雪と同年代ということは理解していた。


「この住所、分かる?」


 淡雪はメモを片手に彼に尋ねた。

 それは淡雪にとって大事な人が暮らしている家がある。

 幼い頃、淡雪の実母の優子が離婚した。

 優子とは離れて暮らしていたが、月に一度、会う機会を与えられていた。

 子供心に大人の事情を理解するにはまだ早すぎた。

 けれども、何となくその事情と言うものを理解し始めた頃。

 淡雪は母に会いたい気持ちで家を探すことにしたのだ。

 当然、須藤家からは教えてもらえず。

 仕方なく、淡雪は年賀状を探し出して、その住所を突き止めた。

 メモ帳にそれを記入して、淡雪は母の現在、住んでいる家を訪れようとしていた。


「ここなんだけど、分かる?」

「これ? えーと、もしかして、僕の家かも」

「そうなの?」

「うん。とりあえず、僕の家に来なよ。ここにいたら暑いでしょ」


 彼はそっと優しく淡雪に手を差し出してくれる。

 

「……っ……」


 淡雪は思わず照れながらも、その手を掴んだ。


「どうしたの、大丈夫?」

「大丈夫、だよ」


 実の所、異性と手を繋ぐ経験は皆無で、恥ずかしくてしかたなかった。

 いつしか迷子で泣きそうになっていた不安は消えていた。

 公園から少し離れ場所に立派な家が建っていた。

 その門には『大和』と書かれた表札がかかげられていた。


「あれぇ? たっくん、その子は誰なの?」


 家の庭には何人かの女の子が遊んでいた。

 その中のひとり、明るそうな雰囲気を持つ女の子が親しげに話しかけてくる。


「迷子なんだって。恋乙女ちゃん。僕、お母さんを呼んでくるから」

「分かった。キミ、迷子なの? すぐに家に帰れるよ」


 恋乙女と呼ばれた少女。

 淡雪の不安を取り除くように、優しく声をかけてくる。

 元々、人懐っこい子なんだろう。


「あっ……」


 彼が手を離して家の中へと入っていく。

 淡雪はそれが何だか名残惜しいような気さえした。

 初めて異性に触れたその感触。


「……ぅっ」


 彼女は自分の手を見つめながら気恥ずかしさでいっぱいだった。

 恋乙女は淡雪にジュースを手渡してくれて、


「喉かわいたでしょ。どうぞ」

「ありがと」

「この辺りって道がややこしいんだ。だからね、迷子になる子もよくいるの」

「そうなんだ」

「この前もたっくんが女の子を連れてきたから。迷子を見つけるのが得意なのよ」

「……それ、得意って言うのかな」


 微妙すぎる得意分野だと思いながら、もらった缶ジュースを飲む。

 ただ、困った子を放っておけない優しい子なんだという事は分かった。

 初対面でも、助けられるのなら助けてあげる。

 そういう当たり前の優しさを持っている男の子なんだって。


「たっくん、か。彼の名前は何て言うの?」


 淡雪が彼女に尋ねると、明るい笑顔と一緒にその名を告げられた。


「大和猛|(やまと たける)くん。猛クンだから、たっくんだよ」

「大和、猛――?」


 その名前を聞いた時、不思議な感じを受けた。


「あの子、猛クンって言うんだ」


 ずっと忘れられない名前になるなんて思いもしていなかった。

 しばらくして、猛が淡雪達の所へとやってくる。

 

「ただいま。お母さんに話してきた。家まで連絡してあげるらしいよ?」

「ホント?」

「うん。庭のあっちにいるから。恋乙女ちゃん、僕らは池の方で遊んでなさいだって」

「はーい。鯉さんにエサをあげたい。いい?」

「いいけど、落ちないでね?」

「もう落ちないよぉ」


 彼らはそのまま池のある方へと向かってしまう。

 残された淡雪はひとり庭先の縁側の方へと足早に歩く。

 すると、彼女の顔を見て驚きを隠せない母の姿があった。

 

「あ、淡雪!? 本当に淡雪じゃない」

「お母さんっ」


 淡雪はすぐさま彼女に抱き付いて喜びを示す。

 優子に会いたくて、子供ながら冒険をしてしまった。


「どうして、ここに?」

「お母さんに会いたかったの。だって、今月も会えないって言われて」


 母にも都合と言うものがある。

 いくら定期的に会う約束をしていても、会えない事があるのもしばしばだった。

 ただ、それが2ヵ月も続けば見放されてしまったかのように寂しくて。

 もう会えないんじゃないか。

 淡雪に会いたいと思ってくれないんじゃないか。

 それが不安で不安でしょうがなくて、怖くて。

 だから、淡雪はこうして、内緒でわざわざ会いに来てしまったのだ。

 その結果、淡雪は母の機嫌を損ねたようだ。


「……淡雪。よく聞きなさい。ここにはもう来ちゃダメ」

「え?」

「ここは貴方が来ていい場所じゃないから。分かった? 返事は?」


 厳しく突き放すような物言い。

 優子は不機嫌ではないけども、声色が厳しくて。

 いつもの優しい母の声ではなくて、淡雪は不安になった。

 

「ご、ごめんなさい……」


 シュンっとうなだれてしまう。


「……あ、いえ、その」


 淡雪がうなだれた様子にバツが悪そうな顔をする。

 実の娘が母に会いたいとわざわざ来てくれたのだ。

 幼い子供を責めるのは筋違いだろう。

 優子は淡雪をぎゅっと抱きしめて、


「ごめんね。淡雪が私に会いに来てくれたのは嬉しいのよ。私も約束を破ってごめん。来月はちゃんと約束を守るから。今日は大人しく帰りましょう」

「うん……」

「少し待っていて。須藤家の方に連絡をするから。猛ー」


 彼女は先ほどの子の名前を呼ぶ。

 それが淡雪にとって衝撃を受けることになる。


「――なぁに、“お母さん”?」


 猛は淡雪の母を“お母さん”と呼んだのだ。

 当然だ、彼の母なのだから。


――なんで?


 だけど、淡雪にとっては別の意味で衝撃だった。

 ここには来てはいけない、その理由がよく分かった。

 幼いながらも、理解くらいはできる。


――ここにはもうお母さんの別の家族がいる。


 その事実が淡雪の心を深く傷つけていた。

 

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