第73話:まるでヤマアラシのジレンマね

 

 淡雪と対峙する図書室の一角。

 彼女は撫子の閉鎖的な考えに否定的だ。

 もっと楽に自由に生きてもらいたい。

 それは自由のない淡雪だからこそ、言いたかった言葉だった。


「――まるでヤマアラシのジレンマね。知っているかしら」

「聞いたことはありますよ。ハリネズミのジレンマとも呼ぶやつでしょう」


 “ヤマアラシのジレンマ”。

 哲学用語のひとつで、人間関係の例え話。

 ヤマアラシは背中にトゲがついてる動物だけど、彼らは互いに近づこうとしても自分のトゲで相手を突き刺してしまって、近づきたくても近づけない。

 お互いの身体を近づけても、適度にトゲの刺さらない距離感が大切。

 人間関係も同じなのだ。

 他人とちょうどいい距離感を保つことが大事だという、例え話である。


「撫子さんは自分の中に価値観がはっきりとある子なのね」

「……それが悪いことですか?」

「ううん。お兄ちゃんが全てなのも悪いとは言わない。けれど、そのせいで、他人と距離すら詰めようとしないのはどうかしら」

それが私の性格ですから」

「でも、せっかく貴方は“大和撫子”と言う可愛らしい名前をしてるじゃない」


 それは、淡雪にとっては他愛のない意味での言葉だったのかもしれない。


「その名前に似合う女の子になれたらもっと素敵じゃない?」

「――っ!」


 誰にだって、それだけは言われたくないプライドを傷つける台詞ってある。

 撫子にとっては自分の名前だった。


「大和撫子の持つ名前のイメージがあるじゃない。今の貴方はそのイメージに似合わないと私は勝手ながらも思ってしまう」


――やめて。


「もったいないというのかしら。それが残念にさえ思うのよ」


――やめて。勝手なことを言わないで。


「貴方はもっと、大和撫子らしく――」

「――そんなの貴方達の勝手じゃないですかッ!」


 図書室に大きく響く撫子の叫び声。

 それまでこちらに興味もなかった周囲の人間が何事かと一斉に振り向いた。

 そして、撫子自身も感情をそこまであらわにすることは非常に珍しかった。


「名前が大和撫子だから? 清楚っぽく、柔順で、大人しく、お淑やかなままでいろっていうんですか!? そうしなきゃいけないんですか?」


 ため込んでいたものを吐き出すように。

 怒り、悲しみ、嘆き。

 ネガティブな感情があふれだす。


「そんなの貴方達の勝手でしょ。人は名前通りに生きられませんよっ!」

 

 つい感情的になって淡雪に反論する。

 抑えつけてきたもの、すべて。


「勝手にイメージだけで人を決めつけるから嫌いなんですッ! ……あっ」


 声を荒げてしまったことに、自分で気づいて、口を手でふさいだ。


――何をやってるの、私?


こんな風に感情的に怒るのは自分でも珍しく、驚きさえある。

 

――私は大和撫子と言う名前通りの人間ではない。


 そんなことは当の昔から知っている。

 日本人は大和撫子という言葉に、妙なイメージを抱きすぎている。

 清楚で、和風美人で、大人しくて。

 まさに絵にかいたような大和撫子をイメージされて。

 そのせいで、幼い頃から陰口でいろんな相手から言われてきた。


『大和撫子って名前のわりには暗くて地味な子だよね。可憐さの欠片もない』

『あの子って性格、すごく悪い。ブラコンも行き過ぎて気持ち悪いし』

『あははっ、腹黒くて、気が強いくせに。大和撫子って名前負けしてない?』

『ホント、名前のイメージ通り、もっと他人に優しくすればいいのに』

『無理無理。あれじゃ、根暗姫か、ただのスト子でしょ』


 他人に名前でどうこう言われるのだけは不愉快だ。

 本来の性格は優しく他人を思いやれることもなければ、気性も激しく、敵を作る。


――私は本物の大和撫子じゃない。勝手なイメージをされても困るだけ。

 

 どこまでも自分勝手で、自己中心的。

 他人に嫌われても構わない。

 猛にだけ好かれていればそれでいい。

 

――それが私、大和撫子。メッキだらけの偽物だもの。


 イメージ通りと違って、失望されて。

 繰り返されてきた誹謗中傷は撫子の心を知らず知らずに傷つけてきた。

 それが淡雪の何気ない言葉につい、動かされてしまった。


――なんで? この程度の事で私の心を揺らがせるの?


 感情を爆発させてしまったのも、そんな些細なことが原因だった。

 淡雪もまた、自分の発言がここまで撫子を傷つけるとは想像すらしていなかった。

 すぐさま頭を下げて謝罪する。


「ごめんなさい。貴方を傷つけてしまったみたいね。そんなつもりはなかったの」

「いえ、こちらも感情的になりました」

「何も知らないで、言い過ぎたわ」

「……そんなことは」

「いいえ。誰にでも言われたくないこと、気にしていることはあるもの。私にも譲れないものはある。だから、分かるわ。ごめんなさい」


 謝らないで欲しかった。

 そんな余裕のある素振りを見せつけられてしまっては困る。


――私が負けたのだと心底みじめに思えるから。

 

 敗北感が胸に溢れて、気持ち悪い。

 しかし、淡雪は優しい声色で再び話を戻した。


「でもね、貴方にそういう風になってほしいと思うのは本当よ」


 彼女が撫子を見つめる瞳は猛によく似ていた。

 たしなめる時に見せるあの優しい瞳に。


「他人を思いやり、他人と寄り添う。貴方にはそういう生き方もできると思うの」

「無理ですよ。どこまでも自己中ですから」

「どうかな。お兄さんにだけ向けている感情を少しでも他の人に向けられたら、きっと撫子さんは本当に素敵な女の子になれるはずよ」


説教をするだけして、彼女は図書委員の仕事に戻ってしまった。

 一人残された撫子は本を片手に、怒りと悲しみが入り混じった感情を抱く。


「素敵な女の子になんてなれなくてもいい。兄さんにだけ、認めてもらえれたら……」


 俯き加減の表情、痛い所を突かれたと言うのは認めざるをえない。

 それゆえに、微妙な敗北感を引きずりながら、ため息をつく。


「聞きたいことも聞けずに説教されるなんて、最悪です」


 どんな状況でも、相手を説き伏せる余裕があるのが余計にムカつく。


「……やっぱり、あの人は嫌い」


 夕焼けに染まる図書室でひとりそう静かに呟いた。

 大いなる敗北感を胸に抱いて。

 




「……少し言い過ぎたわ」


 撫子から離れた淡雪は反省を込めてそう呟いた。

 別に彼女を傷つけたかったわけではなかった。

 ひとつだけ勘違いしていたのは、


「あの子。本当はとても繊細な子なのね」


 強いように見えても、年下の女の子なのだ。


「見せかけの強さ。本当は脆くて壊れやすい。悪いことをしてしまったわ」


 どこまでもヤマアラシそのもの。

 自分まで傷つけてしまう、可哀想な様に同情する。


「いけないんだぁ、後輩イジメなんてしちゃって?」

「美織……。そうだ、待ち合わせをしてたんだっけ」

「呼び出しておいて忘れるな。もうすぐ、終わりでしょ。で、私は見ちゃった」


 友人の美織は意地の悪い笑みを浮かべながら、


「淡雪は影であんなにひどい真似をしていたんだねぇ」

「……していません」

「大和君が知ればどう思うかしら? 愛しの妹さんを、締めてましたって」

「やってませんから。言い過ぎたのは自覚してるわ」

「まぁ、覗き見してた程度じゃ、淡雪に非はない。撫子って子は、自分で自分の首を絞めてる。苦しい思いをしてまで、自分を追い込んでばっかりじゃない」


 撫子に呆れ気味の美織は、


「でもねぇ、淡雪もムキになりすぎてない?」

「私が? そんなつもりはないのに」

「普段クールな癖に熱くなりすぎ」

「熱くなってたかしら」

 

 彼女からの指摘に淡雪はどこか気恥ずかしさを感じつつ、


「猛クンが一番大事にしている子だもの。そのことが影響してたのは否定しない」

「なんだ、ただの嫉妬かぁ。女子って腹黒くて怖いなぁ」

「……貴方が言わないで。はっきり言って、悪女っぷりは貴方に負ける」

「私はただ、面白いことが好きなだけです。淡雪みたいに、好きな子に振り向いて欲しくて、その子の妹に意地悪なんてしません」


 頬を美織に突かれながらそう言われて、悔しそうに、


「も、もう、放課後も終わりね。帰りに例のお店に寄っていきましょうか」


 あからさまに誤魔化すしかなかった。

 気心知れた友人を相手にするとさすがの淡雪も分が悪い。


「うふふ。いいねぇ。淡雪のおごりで?」

「……はいはい。好きにして」

「やった。じゃ、行こうか。優雨も呼んで合流しよ。どうせ、あの子も彼氏と遊んでる最中だろうし。いつものメンツで行きましょ」

「貴方たちはずいぶんと仲が良くなったわねぇ?」

「まぁね。似た者同士、吹っ切れたら仲良くなれるものよ」


 美織に「行きましょ」と促される。


「……撫子さんにも、こんな風に親しい友人がいれば変われるかしら」

「無理じゃないの。自分から望んで、孤独が好きな子には友人なんて必要ないし」

「本当のあの子はそれを望んでるわけじゃないはずなのよ」


 ただ、必死なだけに思えた。

 今回の事で、淡雪は撫子の本心の欠片に触れた気がする。

 

「世界を敵に回しても、か」

「なにそれ?」

「撫子さんの口癖よ。彼女はきっと、世界のすべてを敵に回して戦ってるの。自分以外に敵だと思い込まなきゃ、兄への愛情を貫けない」

「その覚悟があるってこと? それはすごい。真似できるはずもない」

「……でもね、そんなものは幻想にすぎない。人は一人じゃ生きていけないもの」


 撫子の生き方を淡雪は否定する。


「人を愛するのが苦しいだけなんて、私と同じじゃない」


 それでは幸せになれると自分もよく知っているから――。

 

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