第18話 健介の思案
翌日、朝には二人揃って健介を迎えに行った真紀達だったが、昼過ぎに涼が断りを入れて事務所を出て行った。それから少しして健介が部屋から出て来て、ドアの横で立哨していた真紀に声をかける。
「菅沼さん。今日は仕事が終わったら、少し付き合って貰いたい所があるのですが、構いませんか?」
その問いに、真紀は僅かに片眉を上げてから、平然と尋ね返した。
「それは、何時頃までかかる予定ですか?」
「十時までには、マンションに戻るようにします」
「それではその場所と、同席する方のお名前をお伺いしたいのですが」
「同席する人間は居ません。それで場所は《ラ・フィネス》です。住所と電話番号はこちらで、七時半に予約を入れてあります」
そう言いながら差し出されたメモを見て、真紀は僅かに眉根を寄せたものの、特に反論はせずにそれを受け取った。
「……了解しました。それでは車で、六時五十分にはこちらを出ます。都内に向かいますから、帰宅ラッシュには巻き込まれないとは思いますが、遅れそうな時にはそちらで店に連絡をお願いします」
「分かりました」
そして早速場所を確認する為か、スマホを取り出して起動させ始めた真紀を見て、健介は安堵した表情になりながら、再び部屋に入った。
「おい……、ちょっとこっちに来い」
「何だ、一体」
するとドアの付近で聞き耳を立てていたらしい宗則が、健介の腕を引っ張って、ドアから一番離れた窓際まで健介を引きずって行ってから詰問する。
「健介。お前今更、何をする気だ? あの女の事、きちんと諦めたんじゃなかったのか?」
廊下に聞こえない様に、声を潜めてのその叱責に、健介は若干後ろめたそうに弁解した。
「ちょっと落ち着いた場所で彼女と食事をしながら、真面目な話をするだけだ」
「だが彼女、仕事中には自分で用意した物以外は飲み食いしないだろう? この前の中華料理屋で、とうとう最後まで箸に手をつけなかっただろうが」
「だが今度はフレンチレストランだし、食べると思うが。以前に彼とイタリアとフランスの旅行をして、食べ尽くしてきたと言っていたし、店の名前を口にしても、食べられない云々は言わなかったから」
そう健介が説明すると、宗則は如何にも馬鹿にしたような口調で吐き捨てた。
「はっ! 地元の中華料理店は論外だが、有名高級フレンチ店なら話は別ってか? 融通が利かない女かと思いきや、単に食い意地が張ってるだけの、厚かましい女だったってわけだ」
「宗則」
「本当の事だろうが。悪い事は言わん。もういい加減、あんな女とは係わるな!」
「…………」
盛大に顔を顰めて言い聞かせた宗則から視線を逸らし、健介は自分の机に戻って仕事を再開した。それを見た宗則は、忌々し気にドアを一睨みしてから、同様に中断していた仕事に取りかかったのだった。
その翌日、既に夕刻も過ぎて健介が仕事に一区切りつけていると、真紀が打ち合わせていた時間通りにドアをノックしてから現れ、健介に声をかけた。
「それでは、そろそろ出発しましょうか」
「はい、お願いします。じゃあ宗則、またな」
「……ああ」
物言いたげな宗則に声をかけ、健介は真紀と共に車への移動を開始した。そして歩きながら斜め後ろを歩く真紀に、神妙に声をかけてみる。
「その……、真紀」
「誰が、名前を呼び捨てにして構わないと言いました? 一度言われたらきちんと学習して欲しいと思うのは、それほど贅沢な事でしょうか?」
名前呼びされた途端、台詞をぶった切ってきた真紀に健介は一瞬怯んだものの、すぐに自分自身に言い聞かせる様に呟く。
「分かった。今は仕事中だしな」
「それで? 何かご用ですか?」
「いや……、後からで良い」
「そうですか」
それ以降は黙って歩き、車に乗り込んでからも口を閉ざしている彼に、真紀は運転しながら本気で苛ついていた。
(全く、厚かましいったら。個人的に全然付き合いの無い人間を、馴れ馴れしく名前で呼ぶなんて、本当に何を考えてるのよ。それがフレンドリーで好感度が上がるとか、こいつ本気で考えてるわけ? 本当に有権者を舐めてるわよね。こんなのが将来国会議員になるかもしれないなんて、世も末だわ)
そんな事を考えながら真紀は運転を続け、予め調べておいた付近のコインパーキングに停車させてから、健介と共に予約してある店へと向かった。
「こちらの店で、間違いありませんね?」
「はい、ここです。入ります」
入り口で一応確認を入れると、健介が若干機嫌よく応じた。そして足を踏み入れると、すぐさま案内役の従業員が歩み寄って来る。
「いらっしゃいませ」
「予約した北郷ですが」
「お待ちしておりました。テーブルにご案内致します」
白と黒を基調とした制服に身を包んだ男性に、健介と共に誘導されながら、真紀は素早く周囲の状況に目を走らせた。
(出入口は一カ所。奥の従業員用の出入口は別でしょうけど、取り敢えず、一昨日の様な人間が乱入してくる可能性は低いだろうし、入り口のカウンターに人は常駐しているから、すぐに分かるわね)
そして椅子に落ち着いてから、ウエイターが手にしているメニューを二人に差し出す。
「それではまず、こちらをご覧下さい」
「ああ、ワインリストか。真紀、ワインには詳しいだろう? 好きな物を頼んで良いから」
それを受け取った健介は、開いて中を確認しながら上機嫌に真紀に声をかけたが、真紀は一応受け取ったそれを閉じてテーブルに置きながら、健介に冷え切った声をかけた。
「誰が呼び捨てにして構わないと許可しました? ほんの一時間前の話を覚えていられないとは、随分残念な頭ですね」
しらけ切った表情でのその台詞に、健介は若干狼狽しながら言い返そうとする。
「いや、だって……。今は仕事じゃなくてプライベートで」
「プライベートなら、どうして呼び捨てにして良いんですか? 全く意味が分かりません。第一、今はれっきとした業務中です」
「だが、一緒にここに来ただろう?」
「護衛対象者の予定に、同行しただけです」
淡々とそう言われた健介は、硬い表情で尋ねた。
「しかし本来業務中なら、自分が用意した物以外、口にしない筈じゃなかったのか?」
「はい。ですからこちらの店では一切飲食物を提供して頂くつもりはございません。ワインもお料理も、そちらがお好みの物をお一人分だけ注文して下さい」
健介としては、この店に来るのを了承した事で、真紀が一緒に食べてくれると思い込んでいた為に、それを聞いて呆気に取られた表情になった。
「え?」
「あの……、お客様?」
「すまない、ちょっと待っていてくれ」
さすがにウエイターが困惑顔でお伺いを立ててきたが、健介はそれを制止してから、真紀に顔を向けて詰問した。
「君はこの店に行くと言った時に、何も言わなかったじゃないか」
「ええ、何も言ってはいませんね。私は『この店で食べる』なんて、一言も申し上げてはいません。単にこちらへの同行を了承しただけです」
その主張に、健介の顔が強張る。
「……それなら、俺だけここで食事をしろと?」
「先程から、そう申し上げています」
一歩も引く気配がない真紀が、冷静に自分の主張を繰り返すと、ここで双方の顔を眺めながら、ウエイターが恐る恐る声をかけてくる。
「あの……、お客様。ご注文をお伺いしたいのですが……」
「ワインは任せる。こちらのコースを二人分」
「私は提供して頂いても食べません。手付かずの皿がテーブルに並んだら、周囲の客から何事だと怪訝な顔をされて、お店に変な噂が立ちかねませんが」
「お客様……」
その問いかけに健介は即座に応じたが、その台詞に被せる様に真紀も主張した。それを聞いたウエイターが顔色を変える中、彼女が決断を迫る。
「さあ、どうされますか? 二人分の料理を提供して二人分の料金を徴収して、客が食べられない物を出したという不名誉な噂が立つのを良しとするか、一人分の料理を提供して一人分の料理のみを徴収するか、或いは一人分の料理を提供して、そちらの注文通りに二人分の料金を徴収するか。どれでもお好きな様になさって下さい」
「……少々お待ち下さい」
これは自分の手に余ると判断したのか、ウエイターは硬い表情で一礼し、テーブルから離れて行った。そして二人でテーブルを挟みながら、健介が呻く様に言い出す。
「今日のこれはあくまで、仕事上の事なのか?」
「それ以外に、何があると仰るんです?」
「…………」
明らかにかみ合っていない双方のテンションと主張に、その場に重苦しい空気が漂う。周囲のテーブルからも、何やら揉めているらしいのが察せられたのか、興味深げな視線が投げかけられる中、先程のウエイターが、明らかに上役と分かる年配の男性を連れて戻って来た。
「お客様。こちらの者から報告がありましたが、お客様は宗教上の理由から料理をお召し上がりになられないのでしょうか? でしたらご要望を言って頂ければ、食材などは幾らでも変更して対応を致しますが」
「宗教上の理由ではなく、職務上の理由だと、先程も申し上げました。この店はそちらの方と一緒になって、私に精神的苦痛を負わせるつもりですか?」
恭しく申し出た彼に対しても真紀は素っ気なく言い返し、その主張を聞いたその男性は健介に向き直り、穏やかな口調で申し出た。
「お客様。誠に申し訳ありませんが、こちらのお客様にはお料理を提供致しかねます。本日はお客様のみにお出ししますので、料金はお一人分だけ頂きます。お二人分の提供をご希望されるなら、事前に当事者同士でのお話し合いをお願いします」
「……分かった。そうしてくれ」
幾分面白く無さそうに健介は応じ、それを受けてウエオター達は安堵の表情で一礼してテーブルから離れて行った。それを見送ってから、真紀は改めて正面の健介に、呆れ果てたといった視線を投げる。
(こいつ本当に、学習能力が無いらしいわね。それに私の事を中華料理屋なら断るけど、高級フレンチなら喜んで食べる、食い意地の張った女だとでも思っていたのかしら? 失礼極まりないわ)
そんな邪推をした真紀は、ある可能性に思い至って、ゆっくりと店内にいる客や従業員達に、鋭い視線を向け始めた。
(そう考えると、ここに敢えて二人で来たのも怪しいわね。油断させて私が素直に食べたら、その様子を写真や動画をこっそり撮って公社に密告すれば、担当が私からまた男に交代になるとか目論んだとか? そんな見え透いた手に、誰が引っかかるかってのよ! そうなるとこいつの仲間が、店内のどこかにいる可能性もあるのよね。油断できないわ)
そんな見当違いの考えを巡らせながら、真紀が周囲に鋭い視線を向けていると、ワインボトルと共にミネラルウォーターを入れたピッチャーを持参したウエイターが、恐る恐る彼女に声をかけた。
「お客様……。店内に何か、お気に召さない所がございますか?」
「店が気に入らないわけではなく、単に目の前の客が気に入らないだけです。ご心配なく。ああ、私はお水も結構ですから」
「……そうでございますか」
淡々と真紀に断られたウエイターは、僅かに顔を引き攣らせて頷いた。そして健介のグラスにワインを注ぎながら、内心で腹を立てる。
(何なんだ、この客は。新手の嫌がらせか?)
そして落ち着いた雰囲気の店内で、二人がいるテーブル周辺だけが、不穏な空気を漂わせる事になった。
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