第17話 不穏な気配

 一方の真紀は、警察に襲撃者を引き渡してから、健介達の警護に合流する涼と別れ、所轄署に出向いた後で桜査警公社に戻って来た。そして廊下を歩いていると、直属の上司である阿南と遭遇する。


「お疲れ様です、主任」

「おう、お疲れ。何だ、今日は随分戻るのが早いんじゃないか?」

「今日、護衛対象者への襲撃がありまして。撃退した後、犯人を警察に引き渡したり、事情聴取を受けていたものですから」

「必然的に上に報告するのもお前だし、こっちに戻って報告したら、そのまま上がる様に言われたか」

「はい。組織だった襲撃ではなく、単独犯だと見受けられますし。どうも、まともな感じもしませんでした」

 そこまで聞いた阿南は、渋面になりながら口を挟んできた。


「まともな犯罪者っておかしいだろう、と突っ込みを入れたい所だが……。薬か?」

「観察できたのは、警察に引き渡すまでの間だけでしたが、言ってる事が支離滅裂でした」

「薬をやるから、議員を襲えとか言われたクチか?」

 そこで今度は真紀が、盛大に顔を顰める。


「……そうだったら人一人の命の値段って、相当軽くなりましたね」

「全くだ。嫌な世の中だな」

 廊下で立ち話をしながら、重いため息を吐いた二人だったが、ここで甲高い声が会話に割り込んだ。


「あれ? ええと……、時々武道場で見かけるけど、特務一課の菅沼さん、だったかしら?」

 その声に慌てて振り向くと、武道場で訓練を受けている時、ごく偶に顔を合わせる少女の姿をそこに認めて、真紀は無意識に顔を引き攣らせた。それは彼女が桜査警公社の社長令嬢であり、真紀とは違った意味で社内で噂が絶えない人物であるからだった。

 そんな彼女が、これから訓練に行く途中であったのか、道着を入れた大きなトートバッグを肩から提げながら怪訝な顔で尋ねてきた為、真紀は頷きながら言葉を返した。


「はい、確かに私は菅沼です。美樹様と直接お話しした記憶は無いのですが、良く私の名前と所属をご存じでしたね。誰かから、私の話をお聞きになったのでしょうか?」

 十歳に満たない真紀にひたすら低姿勢で応じる様子は、他であれば失笑ものの光景であったが、目の前の彼女に対する対応に関しては、これが正解であった。


(美樹様にまで面白おかしく、私の黒歴史を吹き込んだ奴がいたら許さないわよ!)

 本気で誰とも知らない相手に対する報復措置を考え始めた真紀だったが、美樹はその推測をあっさり否定してくる。


「ううん、単に公社社員全員の顔写真と名前と所属を、頭に入れているだけよ」

 そんな風に、とんでもない事をさらっと言われて、真紀の目が点になった。


「え、ええと……、社員全員となると……、少なくとも五百人以上はいるのでは……」

「そうね。なんだかんだで七百人位かしら。それがどうかした?」

「……いえ、何でもございません」

(化け物……。さすがあの副社長が、ここの後継者候補として、一押ししているだけはあるわ)

 平然としている美樹に真紀が本気で戦慄していると、これまで黙って経過を見守っていた阿南が、美樹に話しかけた。


「美樹様。菅沼がどうかされましたか?」

 美樹はそんな阿南にチラリと視線を向けただけで、すぐに真紀に視線を戻した。


「菅沼さん。緊急通報システムの端末をちゃんと持っている?」

「はい。これですが。何か?」

 すぐさま真紀が上着のポケットから出して見せた、容易に握り込める大きさのそれを眺め、美樹は質問を続けた。


「起動試験はちゃんとしている?」

「はい。規定通りに、月に一度はしております」

「ふぅん? 月に一度かぁ……」

「あの……、それが何か……」

 途端に難しい顔になった美樹が、端末と自分を交互に凝視している為、真紀はお伺いを立てた。すると美樹が真顔で告げる。


「もう少し頻繁に、週に一度位は起動試験をしておいた方が良いんじゃないかなぁ?」

「え?」

「それだけ。阿南さん、邪魔してごめんなさい」

「いえ、お構いなく。ご指摘、ありがとうございます」

 唖然としている真紀の横で、阿南が深々と頭を下げている間に、美樹は何事も無かった様に歩き去って行った。そして阿南は頭を上げるなり、真剣そのものの表情で真紀に厳命する。


「菅沼。今すぐ、それの起動試験をしろ」

「え?」

「あの美樹様が、規定より頻繁にしておけと仰ったんだぞ? 悪いことは言わん。週一と言わず、毎日必ずしておけ。分かったな!?」

「……分かりました」

 阿南の迫力に押される形で頷いた真紀は、自分の机に向かいながら、気が重くなるのを止められなかった。


(確かにこれまで美樹様に危険性を指摘されて、危うく難を逃れたって人の噂が、社内でチラホラ聞こえていたけど)

 そして机に突っ伏し、面倒事に巻き込まれそうな予感に頭を抱える。


「だけどまさか、これを本当に使う羽目にならないでしょうね? 誰を引き当てるか分からないから、使った後が怖いんだけど……」

 不吉な予言を受けてしまった真紀は、事態が悪化しない様に密かに願ったが、それが叶えられる事は無かった。


 ※※※


「おはようございます」

「おはようございます、健介さん。菅沼さん、昨日はお疲れ様でした」

 真紀と涼を従えて健介が事務所の大部屋に顔を出すと、重原が健介に愛想良く挨拶してから、昨日大立ち回りを演じた真紀に軽く頭を下げた。それを受けて、真紀が神妙に言葉を返す。

「いえ、議員ご本人にも、後援会やスタッフの方にも、誰一人怪我人が出なくて幸いでした」

 それを耳にした周囲から、思わずといった感じで声が上がった。


「本当にそうですね」

「あの時は本当に、肝が冷えました」

「まさか、刃物を持って突っ込んで来るなんて」

「だけど、さすがですよね! あの男を取り押さえた時の菅沼さんの動き、殆ど見えませんでしたよ? 何かまばたきしてる間に終わっちゃった、って感じで」

「確かに、そうだったよな」

「ああ、さすがプロの方は違う」

 興奮気味に言い出した中田の台詞に、周りのスタッフ達も真顔で頷く中、真紀は苦笑いの表情になった。


「ありがとうございます。ですが本来であれば、私どもが実力を発揮しなければいけないのは、あまり誉められた事ではありませんから」

「え? どうしてですか?」

 活躍したのだから誉められて然るべきでは?と中田は首を傾げたが、周りの者も同様に思ったらしく、揃って怪訝な顔になる。そんな彼らに向かって、真紀は落ち着き払って説明を加えた。


「荒事になる前に不審者を発見し、周囲に気付かれないうちに排除する、もしくは対処を済ませる。これがベストです。あの規模のホールであれば、最大限の警戒をするなら二十人は配置して、出入口や要所を押さえておくものですから。昨日の場合は、そこまでの危険性を想定していなかったもので」

 その説明を聞いた重原は、如何にも感心した様に頷いた。


「なるほど。実力をさらけ出すのは、あまり誉められた事ではないと……。本当に仕事に対して、厳しい職場なのですね」

「そうですが、そういう社風が性に合っておりますので」

「そういう所であれば、これまで以上に安心して警備をお任せできます。これからも宜しくお願いします」

「こちらこそ、全力で務めさせて頂きます」

 そんな風に笑顔で対応している二人の間に、満面の笑みの中田が割り込む。


「やっぱり菅沼さん、そこら辺の男の人より、断然格好良いです!」

「ありがとうございます。嬉しいですが周囲の男性に恨まれそうなので、あまり公言しないで下さいね?」

 思わず真紀と重原が苦笑し、周囲にも笑いが広がる中、先程からのやり取りを無言で聞いていた健介は、無表情で真紀を凝視していた。それを見た涼は、そ知らぬふりで声をかける。


「どうかされましたか?」

「……いえ、何でもありません」

「そうですか。ああ、それから、私は明日の午後から休みを頂きますので、その間こちらの警護は菅沼一人になります。ご了解下さい」

 すると健介は涼に顔を向け、僅かに表情を動かしながら尋ねた。


「お休みですか?」

「はい。実は昨夜遅くに職場から連絡がありまして、早く健康診断を受けろと催促されてしまいました。既に明日の午後に、提携医療機関での予約が入れてあるそうです。申し訳ありません」

「いえ、そういう事情でしたらお気遣いなく」

 軽く頭を下げた涼に、健介が鷹揚に頷く。そして最初から立ち位置を計算し、近くに居たスタッフの一人が、さり気なく自分達の会話に聞き耳を立てているのを確認しながら、涼は密かに笑いを漏らした。

 それから通常通り健介は奥の部屋に移動して仕事を始め、真紀は事務所内外の見回りに、涼は廊下での立哨を始めたが、すぐにスマホを取り出し、副社長秘書の寺島にLINEでメッセージを送り始めた。


『二課菅原。指示通り、餌を撒きました』

『ご苦労様です。明日は本当に、午後から有休を入れて構いません』

『それはともかく、こちらの思惑通り、うまく双方が引っかかるでしょうか?』

『賭けますか?』

『寺島さん相手に、賭けるつもりはありません。俺はまだまだ命が惜しいです』

『それは残念』

『それから昨日の件ですが、例の暴漢の狙いは北郷議員ではなく、やはり北郷氏ではないかと。二人がすぐ近くに居た上、斜め上から奴の視線を確認しただけですので、断言はできませんが』

『予想通りと言えば予想通りですね。それでは他の諸々の調査も、引き続きお願いします』

『了解しました』


 そしてメッセージのやり取りを終わらせた涼は、思わず愚痴を零した。

「『俺は防犯警備部門所属で、信用調査部門所属じゃねえっつーの!』とか面と向かって文句を言いたいが、あの人相手じゃなぁ……」

 そう言って深々と溜め息を吐き、スマホをしまい込んだ涼は、誰にも聞こえない程度の声量で呟く。


「さて、一体どうなる事やら。これであっさり尻尾を出すような連中なら、まだ可愛げがあるってものだが」

 それから涼は任務を続行し、その日は何事も無く健介を部屋まで送り届けて、真紀と共に引き上げた。



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