第8話 双方の困惑
「はい、北郷です」
「北郷さん、青木だが、あんたからの依頼は金輪際お断りだ。手付け金も全額返す」
「え? それはどういう事ですか」
何やら怒りを内包した声でいきなり切り出された内容に、健介が戸惑った声を出したが、その反応に苛立ったらしい相手が、叱りつける様に言い出した。
「どうもこうも! やっぱりあの桜査警公社に関わるのは、御法度だったんだ! 公社自体の調査じゃなくて、社員個人を調べるなら大丈夫かと思ったが、あの女、確かに派遣先から車で社屋に戻って、朝には社屋から車で派遣先に出向いているのは確認できたのに、出勤と退社するのが全然確認できないんだ!」
「それは……、社屋ビルに複数の出入り口があって、あなたの部下が見張っていない所から、彼女が出入りしているだけでは?」
思わず眉根を寄せて訝しげに反論した健介に、相手は激高した。
「ふざけんな! こちとらプロだぞ! ちゃんと全部に張り付かせていたさ! それでも出入りが掴めない上、昨日張り込んでいたうちの人間が、ストーカーの疑いがあるとして所轄署にしょっぴかれたんだぞ!」
「それは……」
「しかもその直後、うちが今仕事を受けている依頼人の所には『あなたが仕事を頼んだ先は、犯罪者の巣窟だ』と社員が連行された旨を知らせる電話が入り、調査先には『お宅の周りを嗅ぎ回っている人間がいるが、心当たりは』とうちの社名をバラされ、全部の仕事がパァだ! どう考えても桜査警公社が、裏で糸を引いたのに決まってる。どうしてくれるんだ!?」
「そう言われても……」
一方的にまくし立てる相手に健介が呆然としていると、青木が忌々しげに吐き捨てた。
「とにかく、もうあそこに係わるのはゴメンだ! あんたともな! 金は今日中に現金書留で送る。そっちに出向くのも、振り込みで金の動きがあったのをバレるのも、真っ平だからな!!」
「おい、ちょっと待ってくれ!!」
慌てて健介が呼びかけたものの、既に電話は切られており、健介は憮然としながらスマホをしまい込んだ。その様子を見ていた宗則が、同様の渋面になって尋ねる。
「例の興信所か?」
「ああ。張り込んでいた社員が、言いがかりを付けられて警察に捕まった上、依頼先に悪評を流されて仕事にならなくなったらしい。今後一切、手を引くと言われた」
「おいおい、何社目だよ? 桜査警公社って、お偉いさん御用達の、興信所と警備会社の複合会社なんだろう? どうしてそんなに、そこの社員の調査を嫌がるんだ」
呆れ気味に感想を述べた宗則と、父親から簡単に説明を聞いただけの健介は、わざわざ懇切丁寧に公社についての説明をする興信所に巡り会っていなかった為、未だに公社の厄介さと真の恐ろしさを、知らないままだった。
一方、真紀は(やれやれ、担当外の仕事を、させられる羽目にならないでしょうね?)と心底うんざりしながら、事務所内で主だったスタッフが集まっている大部屋へと向かった。そして昼時に合わせて、次々と届けられた品物を見て本気で呆れ、右往左往しているスタッフを冷静に観察していたが、それが一段落してから人気の無い廊下で電話をかけ始めた。
仕事中の相手がすぐに出てくれるのは期待薄だったが、予想に反して彼女の上司は、さほど待たされる事無く応答してくれた。
「主任、菅沼です。今、宜しいですか?」
「構わない。そちらの事務所で、騒ぎがあったらしいな」
今現在は北郷議員の警護の任に就いている、彼女の直属の上司である阿南が若干笑いを含んだ声で返してきた為、真紀も皮肉っぽく話を続けた。
「議員や政策秘書の方に、大量発注に関しての連絡はされている様ですね。因みに五分前までの時点で、ピザLサイズ十枚、特上寿司二十人前、天ざる十五人前、ラーメン十杯、特上折り詰め二十人前、特上鰻重二十人前が届きました」
「ほう? それはそれは……。お前の見解は?」
生徒を指導する教師の口調で阿南が話の続きを促した為、真紀は冷静に推論を述べた。
「さり気なく事務所スタッフの方に話を聞いてみましたが、どこの店にも過去に事務所で発注した事があります」
「だろうな」
「加えて発注数が、過去に頼んだ時の数量と同程度で、店側も不審に思わなかったとか。以前に頼んだ時は、講習会や後援会の会議、選挙期間中など、ちゃんと人が集まる理由がありましたが」
「それで?」
「それらを考慮しますと、今回のこれは、事務所の事情に詳しい人間が引き起こしたか、事務所内に共犯者が存在していると思われます」
それを聞いた阿南は、満足げに指示を出した。
「そこまで分かっているなら、やる事は分かっているな? できる範囲で情報収集をしておけ」
「信用調査部門から、応援は無いのですか?」
思わず問いかけた真紀だったが、阿南は明らかに笑っていると分かる声で、説明してきた。
「議員が予想外に剛胆だった。報告を聞いても『動揺して一々支払っていたらキリが無い。こちらに非は無いのだから、きちんと店に説明して引き取って貰え。そんな小者を調べるのに、金も手間暇も使わなくて良い』と明言してな」
「さすが国会議員と言えば宜しいですかね?」
「そういう訳だから、わざわざ任務外の仕事はしなくても良い。ただし、手札は幾ら持っていても、損にはならない」
「了解しました。それでは失礼します」
「ああ」
そこで通話を終わらせてから、真紀は思わず悪態を吐いた。
「北郷議員ってケチくさっ! ちゃんと信用調査部門に依頼してくれれば公社の収入は増えるし、こっちに本来の任務以外の仕事は来ないのに。全部私が、対処する事にならないでしょうね?」
しかしブツブツ言っていた所で、背後から声がかけられる。
「菅沼さん、すみません。配達された物がありますので、確認をお願いします」
「分かりました、今行きます」
そこで素早く笑顔を取り繕った真紀は、再び大部屋に戻って配達物の検品を始めた。
そんな騒動があったものの、他には取り立てて問題は起こらず、真紀は仕事が終わった健介を、無事に彼の部屋まで送って行った。
「それでは失礼します。明日も八時半に、迎えに参ります」
「その……、菅沼さん。お茶でも」
「失礼します」
健介が口にした台詞を聞かなかった事にして、真紀は素早く玄関のドアを閉めて撤収した。
「さて、今日も無事任務終了。後はブローチを返すだけよね。だけど……、公社からここまで随分離れているのに、本当に探知できていたのかしら?」
不思議そうに襟元のブローチを触りながら、しかし真紀は機嫌良く、近くのコインパーキングに停めてある社用車に向かって歩き始めた。
そんな偽の大量発注騒動が勃発した翌日。
健介は仕事の合間を縫って、注文を受けた店舗を回って頭を下げていた。
「この度はお騒がせして、申し訳ありませんでした」
事前に電話を入れ、仕込み時間に顔を出して頭を下げた健介に、商店街でも老舗の寿司屋の主は顔のしわを更に増やしながら、鷹揚に笑った。
「いやいや、健介さん。確かにうちは損をさせられたが、事務所だって被害者じゃないか」
「そうですよ。健介さんの非では無いのに、わざわざうちに謝りに来なくとも良かったのに」
女将も憤慨気味に相槌を打ったが、健介は生真面目に話を続けた。
「いえ、一応私の名前を騙られたわけですし、父からも『こちらが損害の補償をするわけにはいかないが、今回名前が出た全店舗に出向いて、改めて事情を説明しておくように』との指示を受けておりますので。営業時間外に店を開けて頂いて、却って恐縮です」
そういって神妙に頭を下げた彼を見て、夫婦は揃って感心したように口にした。
「やはり先生は、どんな事に対しても真摯に対応をして下さるな」
「本当にね。商店街の人達には暫く気を付ける様に、こちらからも声をかけておきますから」
「宜しくお願いします」
再度頭を下げてから健介は笑顔で送り出され、この間店の外で待っていた真紀に声をかけた。
「お待たせしました」
「はい。それでは次は、百メートル程先の《真咲》ですね。行きましょう」
そして次の店舗に向かってアーケード内を歩き始めた二人だったが、すぐに健介が足を止めた。
「あの……」
「何でしょうか?」
「できれば、並んで歩いて頂けないでしょうか?」
先ほどから真紀が自分の斜め後方を歩いている為、話しかけ難いと思った故だったが、そんな健介の要請を彼女は冷静にはねつけた。
「警護人員が一名の場合、背後から襲撃された時に前方、もしくは横にいた場合、遅れを取ります」
「ですが、前後に並んでいますと、落ち着いて話もできませんし」
「前からの襲撃の場合には、素人でも咄嗟に声を上げるとか、回避行動はできますよね? 反撃はしなくて結構です」
「いえ、そうでは無くてですね」
「今後のスケジュール変更に関わる事でしたら、すぐにお伺いしますので、どうぞお話し下さい」
「ですから」
「因みに、予定より十分以上押しています。さっさと店舗へのお詫び行脚を済ませないと、スタッフ会議に間に合わないと思いますが。今度開催される北郷議員の講演会準備に関しての、大事な会議ではないのですか?」
「……分かりました」
理路整然と言い聞かされて、健介は再び黙って歩き始めた。その斜め後方から油断無く周囲に気を配りつつ、真紀は密かに呆れる。
(相変わらず、考えなしな事をグダグダと。女を引き連れて地元を歩いていると、事情を知らない人間から見たら、傍若無人な男尊女卑男に見えるから、イメージを悪化させない様に並んで歩かせたいってところでしょうけど)
そこで斜め前を進む背中を、真紀は軽く睨み付ける。
(体面にこだわってる場合? こいつ、未だに事の重大性を理解していないみたいね。どれだけ残念な奴なのよ)
呆れて叱りつけたいのは山々だったが、真紀はそれからも無言を保った。
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