第4話 就業規定

「何なんだ、あの女は? ちょっと顔と名前が似ている、別人なんじゃないか?」

 部屋に入るなり喚いた宗則に、健介が自信なさげに応じる。

「そうは言っても、興信所の調査結果では……」

「だけど、おかしいだろ? 佐藤真紀って女は、今でも神林総合システムズに事務職として在籍している事になっているんだろう? それなのに、どうして菅原真紀って名前になって、桜査警公社に居るんだよ? しかも防犯警備部門所属で、住所も連絡先も未だに分からないし。しかもそこの詳細に関しては、興信所の報告書ではごっそり抜けてるし。あれで良く金を取ったな。お前も素直に払うなよ!」

 腹立たし気にまくし立てた宗則に、健介が呻く様に告げる。


「確かにそうだが……、この五年で、あれが一番詳しかったんだ。駄目もとで女性を派遣させる様に仕向けてみたら、運良く岸田さんに当たったし……」

「あの捨て身の、野郎押し倒し事件な。目の前でそんな修羅場が展開されていた時の、俺の心境を少しは考慮して欲しかったぞ」

「それに関しては、本当に悪かったと思ってる」

 思わず遠い目をした宗則に、健介は頭を下げた。それを見た宗則が、深い溜め息を吐く。


「全く……。それであの岸田って女の言動が、余計に分からないんだよな……。お前、岸田に騙されているんじゃないのか? 例の彼女にちょっと似た女を手配して、お前をいたぶろうっていう魂胆だとか」

「だが、やはり彼女は、真紀本人だと思うし……」

「お前に“無反応”な“真紀さん”だな。さっきもさり気なく『佐藤さん』と呼びかけて見ても、無反応だったし。普通、少しは反応するんじゃないか?」

「それは……、どういう事なのかは分からないが」

 未だ煮え切らない様子の健介に、宗則は至極真っ当なアドバイスをする事にした。


「やっぱり直接、本人に聞いた方が良いんじゃないか? そうすればはっきりするだろう」

「……そうだな」

 しかし真紀が部屋に戻って来てからも室内は殆ど無言で、しびれを切らした宗則が動く事になった。


「菅沼さん、今日は六時から近くの中華料理屋に行きたいのですが、構いませんか?」

 事務所の内外をくまなく点検してきた後は、マネキン宜しくドアの横で直立不動状態になっていた真紀に、夕方になってから宗則が声をかけた。それを聞いた彼女が、その姿勢のまま怪訝な顔をする。


「予定にはありませんが、北郷さんと城島さんとご一緒に、と言う事でしょうか?」

「ええ、この際食事をしながら、親睦を深めようかと」

「他に同席する方は、いらっしゃいますか?」

「いえ、三人だけです」

 不審そうな顔をそのまま問いを重ねた真紀だったが、宗則には意外だった事に、あっさりと了承の返事をした。


「分かりました。それでは予め場所だけ教えて下さい。それから警備上、個室を押さえて頂ければありがたいです」

「分かりました」

 その反応に宗則は安堵しながら、自分の読みが当たったと密かに満足した。


(彼女も仕事中だし、変に馴れ馴れしい顔をできないかもな。美味い物でも食べれば少しは打ち解けるだろうし、落ち着いた所で、健介が話を持ち出せば良いだろう)

 そんな風に楽観した宗則は、何か言いたげな健介と真紀を連れて、六時前に事務所を出て移動を始めた。

 当然、真紀は周囲への注意を怠らず、更に一応事務所を抜けて、場所を確認して来たらしく、チェックしていた襲撃される可能性があるポイントに、鋭い視線を向けながらの移動である。


(うん、まあ、真面目な人間である事は、確かみたいだな。仕事中だから、この無表情だと思うし)

 最後尾を歩きながら、そんな彼女の姿を眺めていた宗則は、予約しておいた店に到着するまでには、真紀の木で鼻をくくった様な態度も、容認できる程度には心境が変化していた。


「どうぞ、お入り下さい」

「さあ、菅沼さん。どうぞお好きな席に」

「それでは失礼します」

 店の従業員に案内されて、奥の個室に通された三人は、互いに席を譲り合いながらも、円卓の入り口に一番近い所に真紀が落ち着き、間隔を空けて男二人が座った。そしてメニューを開きながら、機嫌よく話し出す。


「さて、何にするか。コースで頼むかな」

「菅沼さん。遠慮しないで、単品でも食べたい物をどんどん選んで下さい」

「お客様、まずお飲み物のご注文は、いかが致しましょうか?」

 笑顔の男二人に、案内して来た女性従業員も愛想良く尋ねてきたが、真紀は静かに断りを入れた。


「いえ、私の分は結構ですので、お気遣い無く」

「え?」

「菅沼さん?」

「遠慮しなくて良いですよ? お近づきの印に、健介が支払いますし」

 他の三人が怪訝な顔をする中、真紀は落ち着き払って言葉を重ねた。


「別に遠慮はしていません。勤務中に自分で調達していない物を口にするのは、就業規則違反になりますので」

「え?」

「それってどういう……」

 他の者が当惑した顔を向ける中、真紀は淡々と事情を説明した。


「考えられる危険を、最大限回避する為です。仕出しの食べ物や給水タンクに薬品が混入されて、それを気が付かずに口にして、いざという時に動けなかったら個人の責任問題だけでは済みません」

 それを聞いて呆気に取られた宗則が、苦笑いしながら宥めようとした。


「いや、幾ら何でも、そんな大げさな」

「我が社では、健康管理は仕事をする上での最重要課題と位置付けられていますので、入社後の初期研修では男女問わず徹底的に、栄養管理の講義と調理指導を受けさせられます。毎日三食、バランスの取れた食事を準備できる様になるまで、その過程は終了にならず、新入社員の三割が半年以内にそれで脱落します。先輩方は毎日きちんと、栄養バランスばっちりのお弁当とステンレスボトルを持参していた筈ですが。ご覧になっていませんでしたか?」

「…………」

(確かに、しっかりした弁当持参だったが、奥さんとか母親に作って貰っているものとばかり……。しかし、たかがボディーガードなのに、そこまで必要なのか?)

 飯島の弁当の中身をチラッと見た記憶があった宗則は、唖然としてそれを思い返した。


「勤務中は、自分自身で安全が確保できた物のみ口にする。これが鉄則です。警備上、こちらにお付き合いしておりますが、この店の物は水一杯でも口にする事はできませんので、お気遣い無く」

「……はぁ」

 ここで呆れて言葉も出ない宗則に代わって、健介が穏やかに勧めてきた。


「あの……、菅沼さん。ここは昔からうちの事務所が贔屓にしている店で、信用はありますので。そんな心配は無用で」

「私には初めての店ですので、安全は確保できておりません」

「…………」

 言外にはっきり「ここの食い物なんか口にできるか」と断言した真紀に、健介は口を噤み、従業員は無意識に顔を強張らせた。そして微妙に悪くなってきた空気を何とかしようと、宗則がわざと明るい声で話に割り込む。


「別に、そんな杓子定規に考えなくても。誰か知り合いが見ている訳じゃないし、ここで食べても職場で黙っていれば」

「何をしても周囲には黙って、バレなければ良いと? それはそれは、大した倫理規定の持ち主でいらっしゃいますね。そんなスタッフを抱えていらっしゃる北郷議員の、政治家としての資質を疑います」

 自分の台詞を遮った上、そう言って鼻で笑った真紀に対して、宗則は思わず怒気を露わにしながら立ち上がった。


「おい、あんた!?」

「止めろ、宗則! さっさと注文を済ませよう。すみません。こちらのコースを、二人分でお願いします」

「……はい、二人分ですね。畏まりました」

「あと、ビールと紹興酒を持って来てくれるかな」

「はい、少々お待ち下さい」

 辛うじて礼儀を崩さずに従業員は個室を出て行き、その後には不気味な沈黙が漂っていた。



「それでは、お疲れ様でした。明朝、お迎えに参ります。失礼します」

「……どうも」

 ろくに会話など交わさず、険悪な雰囲気のまま食事を済ませた健介達は、真紀に先導されて事務所が入っているマンションまで戻った。そして玄関先で真紀に一礼されて別れてから、宗則が腹立たしげに冷蔵庫を漁り始める。


「何なんだ、あの女! 嫌みったらしく、本当に最初から最後まで、無表情で水にも手をつけないで。食べた気がしなかったぞ!」

「ムキになって『美味い』と連呼しながら食べていたお前の方が、よほど嫌みだったと思うが」

「思わず箸に手を伸ばすかと思ったんだよ! それなのにピクリとも表情を動かさないばかりか、終始如何にも残念なものを見るような目で、俺を見やがって! ムカついてしょうがない。少し飲ませろ!」

「ああ……」

 勝手知ったる友人の家であり、宗則が缶ビールと適当につまみになりそうな物を物色してリビングに入ると、健介がリビングボードの引き出しから、何かを取り出している所だった。


「何をやってるんだ?」

「明日は、これを見せて聞こうかと思う。今日は世間話にも、まともに応じて貰えなかったし」

 彼が取り出した物に見覚えがあった宗則は、心底嫌そうな表情になった。


「お前な……、確かにそれなら、本人だったら何らかの反応はあるかもしれんが、あんな性格が悪い女、悪い事は言わないから止めておけ」

「だが、ああいう性格になったのは、俺があんな事をしたせいかもしれないし、きちんと確認して詫びたいから」

「全く、それならさっさとそうしろよ、このヘタレ野郎。ほら、お前も飲め」

 そうして男二人で苦笑しつつ飲み始めていた頃、都内某所ではちょっとした話題が上がっていた。

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