第13話 精神攻撃
「おはようございます」
健介がいつも通り迎えに来た真紀と共に事務所に入り、主だったスタッフが集まっている大部屋に顔を見せて挨拶したが、そこに見覚えのある男の姿を認めて、無意識に顔を強張らせた。しかしスタッフ達とその男は健介の困惑など気が付かず、または気が付いても完全に無視して挨拶を返す。
「あ、おはようございます、健介さん」
「おはようございます。北郷さん」
「あなたは、昨日の?」
訝しげに何故ここにいるのかと言外に尋ねた健介に、涼は笑顔で告げた。
「はい。政策秘書の田辺さんからこちらに話は伝わっていると思いますが、本日からこちらの菅沼と一緒に、北郷氏の警護を担当する菅沼です。宜しくお願いします」
真紀を軽く手で差し示しながら自己紹介して頭を下げた涼と、無言で佇んでいる彼女を交互に見ながら、その場の殆どの者は困惑した。
「え?」
「菅沼?」
「何かご不審な点でも?」
素知らぬふりで尋ね返した涼に、重原が気を取り直して弁解する。
「ああ、いえ、確かに警備担当者を増員するとの連絡は受けていましたが、お名前までは伺っていませんでしたので」
「そうでしたか。てっきり男性である私がどうして派遣されたのかを、皆さんがご不審になっておられるのかと思いました」
「……いえ、決してその様な事では」
にこやかに笑いながら告げられた内容に、ここ最近健介の周囲でまことしやかに囁かれているある噂の事を思い出した重原は、冷や汗をながしながら弁解した。しかし続けて真紀が、容赦なく説明を加える。
「因みにそちらの菅沼は、以前担当した飯島の様な筋骨隆々なタイプではなく、一見優男風なので飯島氏の側に付けても支障はないと、上層部が判断したようです」
「…………」
そして室内が沈黙に包まれ、微妙な視線が健介に集まる中、涼が苦笑まじりに文句を口にした。
「おいおい、真紀。一見優男って何だよ?」
「中身がヘタレと言った訳では無いから良いでしょう?」
「それなら、中身は硬派だと主張してくれている訳か。確かに、逆よりは遥かにマシだな」
そう言って小さく笑った涼が、思わせぶりな視線を向けてきたのに苛つきながら、健介は真紀に詰め寄った。
「菅沼さん。先程部屋に迎えに来た時には、何も仰っていませんでしたが?」
しかしその非難めいた台詞を、真紀は一刀両断する。
「どのみち事務所で紹介するのに、同じ説明を繰り返すのは時間と労力の無駄です」
「すみませんね、愛想の無い奴で。ですがこれは仕事中だけですから。プライベートだと真紀は、五月蝿い位賑やかで」
「菅沼さん? もう任務に入っている筈ですが?」
「了解しました、菅沼さん」
「…………」
真紀に対して、妙に馴れ馴れしい態度を取る涼に苛つきながらも、反論を防がれた健介は大人しく口を閉ざした。
それから固まって移動した健介達は、まず簡単に真紀達が不審物の有無をチェックしてから仕事部屋に入り、スケジュール確認を済ませた。そして阿吽の呼吸で、真紀と涼が宣言する。
「それではこれより、建物内を巡回して保安状況を確認してきます」
「それでは私は、部屋の前での立哨に入ります」
「……宜しく」
そして機敏な動きで部屋から二人が出て行き、部屋に二人で取り残されてから、宗則は健介に苛立たしげに問いかけた。
「おい、健介。何なんだよ、あの男。菅沼って!」
「それは俺も知らない……」
憮然として何やら考え込み始めた健介に、宗則は舌打ちを堪えながら仕事を始めた。そして作っていた後援会報の原稿を、重原にチェックして貰おうと腰を上げた彼は、ドアを開けた横に立っていた涼を見て、ドアを閉めながら思わず尋ねる。
「菅沼さん?」
「はい、何でしょうか?」
「菅沼さんは彼女の関係者ですか?」
「はぁ? 『彼女』とは?」
「女性の方の菅沼さんの事です」
少々わざとらしく尋ね返した涼に、宗則は苛つきながら言い直した。すると涼が、意味ありげに応じる。
「ああ、真紀の事ですか……。まあ確かに関係者ですよ?」
「どんなご関係ですか?」
「取り敢えず、職場では同僚です」
(何だよ、取り敢えず職場ではって!)
含みの有りすぎる彼の台詞と笑みに、宗則は益々苛立ったが、何とかそれを押さえて問いを重ねた。
「それなら、彼女と血縁関係がおありなんですか?」
その問いに、涼は目を丸くした。
「血縁関係?」
「兄弟とか従兄弟とか」
「へえ? 俺達はそんなに見た目や雰囲気が似てますか? そんな事を言われたのは初めてだな」
そう言って、外見上は真紀と似たところが皆無の涼は、小馬鹿にした感じでくすくすと笑い出した。その態度にさすがに腹を立てた宗則が、語気強く迫る。
「それならお二人は、偶々名前が同じだけで無関係なんですか!?」
「どうして無関係だと思うんですか?」
不思議そうに逆に問い返した彼に、宗則がムキになりながら言い募った。
「それなら、どんな関係だって言うんですか!?」
「それはプライベートですし、この仕事には一切関係の無い事ですので、答える必要性を全く認めません。お好きな様に推察して下さって結構です」
「……っ!」
真紀と同様、涼に冷たくあしらわれて、宗則が歯ぎしりした。しかしそんな彼の神経を逆なでする様に、涼が淡々と声をかける。
「それよりも、無駄話をしていて宜しいんですか? その書類はどなたかに見せるか、渡すつもりでお持ちになったのではないですか?」
そう尋ねると、宗則は怒りを抑えながら歩き出し、その背中を眺めながら、涼が嘲笑う様に呟いた。
「はっきり結婚しているのかと尋ねても、答えるつもりは無いがな。この際とことん、からかってやるか」
そう言って不敵な笑みを零した涼は、暫くして戻って来た真紀と立哨を交代し、事務所に送りつけられる物の安全確認の為に大部屋に向かった。
それで健介が書類を持って大部屋に入った時、視界の隅に郵便物のチェックをしている彼の姿を捉えたが、気にしないで重原の所に足を進めた。
「重原さん、こちらが列席できない区民運動会での議員からのメッセージ案と、講演会時のスケジュール管理と手配案です。確認の上、田辺さんに送信して下さい」
「了解しました。あの……、それで健介さん」
「どうかしましたか?」
「最近後援会内部で、変な噂が広まっていると、先生からお叱りを受けまして……」
急に周囲をはばかりながら小声で訴えてきた重原に、その言わんとする事を正確に察知した健介は、顔を引き攣らせながら、こちらも声を潜めて言い聞かせた。
「それは根も葉もないデタラメです。真に受けないで下さい」
「それが……、情報源は璃真さんだそうで……。あの後ここに、健介さんの護衛に付いているのは男性なのか女性なのか、またそれはどうしてかとの問い合わせの電話が、複数の方からかかっておりまして……」
「それには、どう答えたんですか?」
「お電話頂きました全員に対して、正直にありのままをご説明して、納得して頂きました」
真顔でそんな事を口にした、愚直なまでに真面目に地元事務所を守ってきた男に対して、健介は軽く殺意を覚えた。
(あの時真紀が言った話を、本当にそのまま垂れ流したな……。確かに俺の自業自得だが、少しは誤魔化そうとか思わないのか!)
密かにそんな八つ当たりをしていた健介だったが、そんな彼の耳に少し離れた所から歓声が伝わってきた。
「えぇっ!? 菅沼さん達って、一緒に1ヶ月も休暇を取って、フランスとイタリアを廻って来た事があるんですか!?」
「ええ、そうです」
その内容に思わず健介が顔を向けると、涼が手袋を嵌めた手を動かしながら、興味津々の中田の質問に答えている光景が目に入った。
「でも、どうしてそんな長期の休暇が取れるんですか? 普通なら有休を取ろうとしても、そんなに連続だと無理ですよね?」
「確かに、普通でしたら難しいでしょうね。だから私達も、帰国後にルネサンス芸術とワインに関するレポートを、職場に提出しました」
「はぁ? どうしてですか?」
この時点で、室内の全員の視線が涼達に集まっていたが、彼はそんな事に気付いた素振りも見せずに話を続けた。
「私達が所属する、防犯警備部門特務課は警護対象が特殊ですので、各種国際会議、レセプション、海外視察等に同行する事も多いのです。または内密に一般人を装って護衛する事もありますので、公の場でも違和感なく溶け込める、立ち居振る舞いと教養を身に付ける事を求められています」
それでピンときたらしい中田は、勢い込んで尋ねた。
「あ、それでワインとか絵画に関する勉強をして来るから、休ませて下さいと職場に申請したんですね?」
「そんな所です。私達だけでは無く、特務課所属の者は大抵長期休暇を取りながら、何らかの情報や教養・技術を仕入れてきます」
「それでも1ヶ月休めるなんて、羨ましいですね」
それを聞いた中田は羨望の眼差しを涼に向けながら溜め息を吐いたが、すぐに問いを重ねた。
「でもそういう旅行だとツアーとかを利用できないでしょうし、会話とかを考えると現地の移動も大変じゃないですか?」
その中田の懸念を、涼は笑って打ち消した。
「それは大丈夫です。特務課配属になる為には、会話可能な言語が英語を含めた最低限三つが必須ですから」
そんな予想外の事を聞かされた中田の目が、瞬時に大きく見開かれた。
「え? それって本当ですか?」
「勿論。私は英語の他にポルトガル語とフランス語が読み書きに加えて、日常会話が可能です。関東外語大の仏文科卒ですので」
「凄い! あそこの仏文科って、有名人も出ていませんか?」
「ああ、誰か評論家が出ていたかもしれませんね。バラエティー番組とかはあまり見ませんので、詳しくは知りませんが」
さらりと受け答えする涼とは反対に、中田の興奮度は更に上昇した。
「そうなると、菅沼さんも三ヶ国語以上話せるんですか?」
「ええ、彼女は英語に加えて中国語とイタリア語ができます」
「嘘! お二人ともエリートじゃないですか!? どうして通訳とかにならなかったんですか?」
「それはやはり、入社できるだけの武道の腕を持っていたのと、職場の福利厚生がしっかりしているのと、給与が良いからですね」
「そんなに条件が良いんですか?」
もう興味津々な態度を隠そうともしない彼女と、密かに聞き耳を立てている周囲に苦笑しながら、涼は穏やかに笑いながら告げた。
「さっき言った様に、正当な理由を付ければ、あっさり1ヶ月の休暇取得を認めて貰える所ですし、各種手当てが上積みされて、私の様な若手でも毎月の手取り額は六十万を越えていますし。勿論、ボーナスは別です」
「手取り六十万、プラスボーナス……。じゃあ税込みの年間総所得額はお幾らなんですか!?」
「ご想像にお任せします」
「うあぁぁっ! 羨ましいっ!」
「勿論、これは危険と隣り合わせの仕事である私達への、保障の意味合いもありますので」
苦笑気味に言われた内容で、目の前の人物の職種を思い出した中田は、不謹慎だったと慌てて頭を下げた。
「あ、そ、そうですよね? 不躾な事を口にして、申し訳ありません!」
「いえ、確かに金額だけ口にすると、凄く恵まれている様に思われますから。それに就業条件が厳しい分、入職した貴重な人材を少しでも手放す事にならない様に、女性の産休育休制度も充実しているんです。加えて男性の育児休業も、二十年程前から制度化していますし」
それを聞いた中田が、感嘆の声を上げた。
「凄い! 時代の最先端どころか、先取りじゃないですか!? 本当に利用されている方はいるんですか?」
「ええ、私達の上の主任クラスは、その制度運用開始直後に取得されていますね。若手でも男性の取得率は八十パーセントを越えてますよ? 特に防犯警備部門配属の女性は、殆どが職場結婚ですので」
その台詞に、健介はピクリと反応したが、中田はそんな事には当然気付かないまま問いかけた。
「どうして職場結婚が多いんですか? やっぱり不規則な勤務とかが多いですから、同僚の方が理解があるからでしょうか」
「それもありますが、社員は基本的に身の回りの事は自分でこなす力量が無いと、いけない事になっていますから。健康管理は基本ですし」
そこで中田が、思い出した様に声を上げた。
「あ! そう言えば、以前いらしていた飯島さんも、見た目も栄養バランスもばっちりのお弁当を持参していらっしゃいましたね。お茶を出しに行った時、丁重にお茶をお断りされた時に、自分で口にする者は自分で用意しないといけないと聞きました」
「そうなんです。それで料理、洗濯、裁縫、炊事、全てこなせる男が周囲にゴロゴロいるのに、ただ金を持ってくるだけでふんぞり返って料理を作るのを待っている様な男と、好き好んで結婚したいと思いますか?」
にこやかに微笑まれた中田は、思わず半眼になって頷く。
「……それは思いませんねぇ。もの凄く、納得できました」
「まあ、金を持ってくるだけ、マシかもしれませんね。世の中には金も無いのにフラッと女の所に押しかけては、飯をたかっていく様な輩もごまんといますし」
「そんなのは男とは言いません! 単なる下衆野郎です! 世の中の一般男性と一括りは失礼です!」
「はは、手厳しいですね。全く同感ですが」
「…………」
そこで健介が微妙に顔を引き攣らせたが、何とか無言を保った。そして重原に声をかけて歩き出す。
「それでは重原さん、チェックをお願いします」
「分かりました」
「あ、じゃあ菅沼さんも、お弁当はご自分で作っていらっしゃるんですか?」
「ええ、勿論です。後でお見せしましょうか?」
そんな会話を背中で聞きながら、健介は部屋に戻った。そしてドアの手前で立哨中の、真紀の前で立ち止まる。
「……何か? ドアはこちらですが?」
無言で目の前に佇んだ相手に、真紀が怪訝な視線を向けると、健介は何か言いかけては黙る様な動作を何回か繰り返してから、思い切った口調で言い出した。
「その……、真紀?」
「以前にも申し上げましたが、馴れ馴れしく名前で呼んでも良いと、許可した覚えは無いのですが?」
真紀の眉間にくっきりと皺が刻み込まれたが、健介はそんな事にも気づかないまま、質問を続けた。
「君は今、幸せか?」
その唐突な問いかけに、真紀は怒りも忘れて呆気に取られる。
「……頭、沸いてるんですか?」
「料理とか、あの菅沼さんと分担してるのか?」
「は? それはまあ、専属だと拘束時間が長いので、最近良く夕飯を作って貰っていますが。それがなんだって言うんですか?」
茫然としながら、普段だったら言わないような事を口走った真紀だったが、それを聞いた健介は、項垂れながら踵を返した。
「……分かった。もう良い」
そして言うだけ言って健介が部屋の中に入ってから、真紀は軽く首を傾げたものの、すぐに何事も無かったかの様に立哨を再開した。
その後昼食時に、真紀から意味不明なやり取りとしてそれを報告された涼は、勿論健介が勘違いしたであろう内容を理解して、必死に笑いを堪える羽目になった。
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