第五話【真実】
『忘れてしまうことは怖いことだ』
物心ついた頃からずっと念頭にある考えだった。
私の家は転勤族だったので、会わなくなった友人が多々いたのだが、ついその友人の名前を忘れていたときなどに、恐れを感じた。
他にも、親に言われて思い出せない記憶があったときなどにも、とても落ち込んだ。
私は日々、恐怖を感じて生きてきた。時々、胸の内を掻きむしりたい程に、嫌だという気持ちが溢れかえって叫びたくなることもあった。
「だから、彼の事は忘れなさい」
だから、マスターの言ったその言葉に強い怒りを覚えた。
「忘れろって、忘れられるわけが――ないじゃないですか」
真村雪の嘆くようなその言葉は、最後の方は独り言のように空気だけが震えた。
「何か、何か方法はないのか」
怒りを必死に抑えた私の顔は、苦しみに満ちていたのだろう。マスターは一瞬眼を大きく開くと、すぐにいつもの無の顔に戻って、
「一つだけ、方法はあります」
「本当か」
「ただ、これはは禁忌の方法。世界を滅ぼす恐れもある。貴方方にその覚悟があるのなら、その方法をお教えしましょう」
「覚悟ならある」
この時の私は理性を失っていたに違いない。世界を滅ぼすという非現実的な言葉を馬鹿げていると思ったのもあるが、そんな決断を即答してしまったのだ。
「分かりました」
マスターはそっと言うと、いつもマスターがいるカウンターの奥に行き手招きをした。
未だ涙の止まらない真村雪にハンカチを渡し、肩を叩いて連れて行く。
「私は今から世界の掟に逆らいます。一度しか言わないので、しっかりと聞いていて下さい」
「ああ」
短く答えて、私は唾を飲み込む。
真村雪も必死に涙を堪え、真剣に話を聞く姿勢を取った。
マスターは前のように床を指差すと、話を始めた。
「私たちの居るこの世界が偽物だとしたらあの絵本の世界が本物だと私は貴方に言いましたね。あれは、そこから何かを考えて欲しかった訳ではなく、真実なんです」
「それじゃあ、私がそれを突き止められないとわかっていたと言う事ではないですか!」
おちょくられていた様な気がして私は声を荒げた。
「貴方は、全てを知っていて私たちの行動を楽しんでたんじゃないですか!」
「楽しんでなんかいません。ただ、この事を貴方方に伝えて良いのか悩んでいたのです」
「私は…」真村雪が下に向いていた目線をマスターの方にやった。「私は真実が知りたい」
「ええ、だからお話ししているのです。端的に言うと、彼は存在はしていますが生きてはいません」
「それじゃ、ゾンビではないか」
「ゾンビでしたらまだ良かったでしょうが、今の彼には私たちのような元地球人は触れることが出来ません。厳密に言うと、触れてはいけない存在です。触れた瞬間に彼の歴史が元に戻り、死した状態に戻ってしまいます」
「元地球人って、ここは地球なんじゃないんですか」
「違うのですよ、雪さん。ここは地球によく似ているが、ところどころがオリジナルの地球とは違う。私たちはテラ=ツーと呼んでいます。記憶が書き換えられているため、違和感を感じる事はありませんが」
「記憶って、私たちの記憶が書き換えられているのですか」
「そうです。とある事情で地球に我々は住めなくなったので、私の開発した長距離物体転送装置で人類をこの星に移住させたのです。その際に、テラ=ツーの記憶を地球の記憶に上書きしたのです」
建物がそのままなのはおかしいじゃないかと思ったが、記憶が弄ってあると言う事はどうにでもなってしまうのだなと理解した。もちろん、理解しきった訳ではないが。
その後もマスターの説明は続き、大体の事をまとめると次のようになった。
一、このテラ=ツーの星の年齢は、地球の初期人類が登場した程度の時代という事。
一、物体転移装置管理者のミスで、時々死んだ人が蘇る事。(ただし、存在が不安定なため、一〜五年程度待たないと、元地球人は触れることが出来ない。)
一、テラ=ツーにいる人間の脳内には、データチップが必ず仕込んであるという事。
「彼はテラ=ツーに存在を表してからまだ一ヶ月も経っていない。今会うのは危険だ」
マスターは触れるなという事を繰り返している。という事は、
「触れなければ良いのなら、話す事くらいは出来ますよね」
「確かにそうだが…」マスターは顎髭を撫でながら悩む。「完全に安全な状態で雪さんを会わせたいと思っているんだ。このケースは珍しく、雪さんにも被害が及ぶかもしれないのです。分かってくれますか」
「だが!」
「――良いんです、涙さん。私、我慢します。彼の為にも、私の為にも」
彼女はまた出てきた涙を拭きながら言った。
「でも、それでは」
「彼に会うためならたった5年なんて早いものですよ。死んでた人はずのに会えるんですよ?」
そう言う彼女の顔は、涙でメイクが落ちたりと散々だったが、微笑んだ顔がとても魅力的だった。
「そうか」
「そうです」
変えられる未来があると分かっているのなら、彼女にとっては苦ではないのかも知れない。
「じゃあ、彼の電話番号だけ渡そう。最初はファッション誌の編集部とでも言っておけば良い」
「ありがとうございます。探偵さん」
喫茶店に入り込んだ陽光は、彼女の涙を照らした。その光が、彼女の未来を表しているのではないだろうか。
とけるまでの1週間。 幻典 尋貴 @Fool_Crab_Club
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