アラナミ

桜輪英和

アラナミ(完結)

「荒波を越えて行け。越えた先に・・・」

 目覚ましのアラート音が寝ている頭と身体を覚醒させる。暗い部屋を出て、居間へと向かう。居間には明かりが点り、いい匂いが立ち込めている。

「ばあちゃん。おはよう」台所に立っているばあちゃんに声をかける。

ばあちゃんは振り向き「勇ちゃん。おはよう。まだ、寝間着のままなの?早く着替えて顔を洗ってらっしゃい」

「はいよ。今やるところ」

ふと、横に目線をやると母もせわしなく動いている。

「あっ、母さんいたの?おはよう」

「おはよう。あっ、いたの?じゃないわよ。早く着替えて・・・」

「分かってるって。今、着替えるよ」

いつも見慣れた服を取りに寝室に戻る。静かに着替え、洗面所へ行き顔を洗う。

そして、おやじを探す。居間にいる母におやじの場所を聞く。

「おやじは?」

「仏間でしょ。お父さんは、いつも安全無事に帰って来れるようおじいちゃんに言っているでしょ」

「時間ないんだけど。今日は午後から風が強くなるからその前に帰って来たいし」

「勇紀、待たせたな。行くぞ」

母はおやじに「報告はちゃんとした?ちゃんと帰ってくるって」

「あぁ、報告した」と頷く。

母特製の朝食弁当を僕2人分渡し、軽トラに乗り込み仕事場へと向かう。

 家から車で15分。小さな漁港。“江名漁港”その一角に仕事場である船がある。

19tの小底船。船の近くに車を止め軽トラから降りる。季節は冬から春に変わるちょうど中間。厳しい寒さの中にも春の暖かさが頬を流れていく。

船に乗り込み、エンジンを掛け、レーダー、魚群探知機、無線機に電源を入れ、エンジンを温める。エンジンが温まった頃におやじが合図し、係留ロープを外す。船はゆっくりと係留しているところを離れ魚場へと向かう。

あたりは暗闇。無線やレーダーから数隻の船が先に自分の魚場へと向かっている。自分の魚場までは、レーダー、無線、魚探を駆使して向かう。

 操船はおやじ。魚場までは1時間。その間に漁の準備をする。漁法は底曳網漁。船の後部(トモ)に網を広げて待機。魚場に着くと網を投げ入れ、1時間曳き網を上げる。これを2~3回を繰り返す。その間に朝食を食べる。

「朝日や潮の香りを嗅ぎながら食べる朝飯は格別だ」ってじいちゃんが言ってたっけ。

おやじの横顔をふと見ると、段々じいちゃんに似て来ているのにおかしくなり笑い出してしまった。

おやじは驚き「どうしたんだ。急に」

「いや、横顔がじいちゃんに似て来ているからつい」

おやじは不思議な顔をしている。漁が終わり帰港すると母と嫁の綾子が待っている。漁獲物を陸に揚げ、今日の仕事は終了となる。その後は、一家団欒の時。

たわいもない話や今度産まれてくる子供の話などで盛り上がり、明日に備える。それをほぼ毎日繰り返し、今年で8年目になる。

「勇紀。漁師になって、何年になる?」

「今年で8年目だね」

「俺は本格的の漁師なって4年目だ。合算すればお前より長い」と豪快に笑う。

「正剛君は本当にお父さんに似て来たわね」とばあちゃんはしみじみ言った。

「お義母さん。やめてくださいよ」

「でも、本当に似て来たわよ」と母も同意する。

「お前まで、やめろって」おやじは照れ笑いをする。

照れ笑いするおやじの横でウトウトする小さな子供。今年で4歳になる僕の息子。性格はおとなしく、母はよく子供の頃の僕に似ていると言っている。

「たっくん、たっくん」と母は息子を起こし、綾子の所へ連れて行く。綾子はもうすぐ臨月であり、今日は少し疲れていたか寝室で休んでいた。母とばあちゃんは気を使って、息子の面倒を見てくれている。綾子は身体が重いのか疲れやすく、寝ていることが多くなっていた。それでも夕食の支度、洗濯などはやる。母やばあちゃんは無理してやる必要はないと言っているが、綾子は身体を動かすためと、笑顔で家事をやっている。

 母が息子を綾子に預け居間に戻って来ると、ふいにこんなことを僕に尋ねた。

「勇紀が最初に船に乗ったのは、いつなの?」

「どうしたの?急に」

「最初に船に乗ったのを私知らないから」

「そうだっけ?いつだったかなぁ」

「7歳か8歳の頃じゃないかしら」とばあちゃんが言った。

「そんな頃だと思うけど」

 僕は時計をみて、20時を回っていることに気が付く。

「その話はまた今度。20時回っているから寝るわ。おやすみ」

「あら、もうそんな時間。おやすみ。あなたも寝ないと」

「おぉ、もうこんな時間か。おやすみ」

僕は寝室に向う。寝室に入ると、綾子が息子を寝かしつけた所だった。

「綾子、身体は大丈夫か?」

「うん、大丈夫。身体が重くなくなるまでもう少し。重くなくなるのは、ちょっとさびしいけど」とかわいらしく笑う。

「拓也は、俺が見るから、ばあちゃんやかあさんと話してくれば」

「うん。そうする。すごく楽しそうだったから。仲間外れにされないようにお義母さんやおばあちゃんといっぱいおしゃべりしなきゃ」と笑う。

綾子は寝室を出て、居間へと向かった。綾子が居間に着くのはすぐに判る。なぜなら、ばあちゃんと母の声が大きくなるからだ。嫁姑関係が良好なのは何よりだと思う。

僕は、拓也の横に寝そべり初めて船に乗った時のことを思い出していた。


1章

 僕が初めて船に乗ったのは、確か8歳の頃だった。小学校で些細な出来事から学校に行きたくなくなり、1年生の2学期後半から学校に行かなくなった。最初の頃は母も学校に行かせようとしていたが、あまりにも泣くために自宅学習に切り替えて自宅で勉強していた。

だが、弊害もあった。朝は遅く起き、夜は遅くまで起きている。そして、わがままになっていった。それを見かねた母が「おじいちゃんの家に行って、おじいちゃんたちと暮らして来なさい」と半ば強引に、4月の中旬からじいちゃんの家に行くことになった。

この頃の僕はおじいちゃんが大の苦手。太陽で黒く焼けた肌と大きな身体が相まって恐怖すら感じていた。そんな、大の苦手のじいちゃんの所へ行くのは憂鬱以外のなにもでもなかった。

 出発当日、母が上野駅まで僕を送り、そこから僕1人でじいちゃんの家に行くことになっていた。

「いい。泉駅という所で降りるのよ。あと、おじいちゃんとおばあちゃんの言うことは必ず聞くこと。8月には迎えに行くから」

「えっ、8月までおじいちゃんの家にいなきゃいけないの?」

「そうよ。お父さんと決めたから。あなたが嫌でも行ってもらうからね」

泣きそうになる息子を母は抱きしめ、「大丈夫」と言った。

出発の時が来た。小さな体に大きなリュックを背負い、特急スーパーひたちに乗り込み、

指定された席に座り、母に手を振った。母は手を振りながら軽く目頭を押さえていた。

スーパーひたちに揺られること3時間。

母のメモ紙に漢字で「泉」と書いてあり、母は「この文字と同じ文字の駅に降りるのよ」と言っていた。その似た字の泉駅に着いた。大きなリュックを背負い駅のホームにおり、改札を探した。行きかう人の方向について行った。改札で駅員に切符を渡すと、改札を出た。当たりを見渡すと「勇ちゃん」と声を掛け、手を振っている初老の女性がいた。

「おばあちゃん」僕は、おばあちゃんの所へ小走りに向かう。

「勇ちゃん。よく来たね、1人で電車に乗って来て偉いね」と満面の笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。

「疲れてない?」おばあちゃんは尋ねた。

「うん。疲れてない」

「おう、勇紀。よく来たな」と大声で近づいて来る、真っ黒に日焼けした初老の男が向かって来た。おじいちゃんだ。おじいちゃんは素早く僕を抱き上げた。あまりの素早さに身体が硬直、顔も真顔になっていたに違いない。

 おじいちゃんは「こいつ、固まってるぞ」と言い笑いながら、小さな体を空中で揺らした。

「あんた、やめなさい。勇ちゃんが驚いてるでしょ」とおじいちゃんを静止した。

おじいちゃんは僕を降ろす。そして、おばあちゃんの後へ隠れた。

「勇紀、驚くことはねーだろ」

おじいちゃんは満面の笑みで僕を覗き込んだ。おじいちゃんの真っ黒に日焼けした顔を間近で見て泣き出した。

「あんたの顔は怖いんだから、勇ちゃん泣いたじゃないの」と言い、おばあちゃんは抱き寄せる。

「泣くこともねーだろ」とおじいちゃんは困惑し、頭を掻いた。

「勇ちゃん。大丈夫だからね。あんた、勇ちゃんに謝りな」

「分かった。ごめんな、勇紀。でも、俺の顔そんなに怖いか?」

「小さな子供には怖いでしょ」

「そうか?まぁ、いいや。家に行くか」

「そうね。勇ちゃん。おじいちゃんの家に行こう」とおばあちゃんは僕の手を引く。

「勇紀。リュックが歩いてるみたいだぞ」と豪快に笑う。そして「どれ、持ってやる」と僕にリュックを降ろさせ、おじいちゃんが持ってくれた。

駅の駐車場に止めてある車に乗り込み、一路おじいちゃんの家がある江名向かった。

道すがら、海を見た。僕にとっては初めての海だった。

おじいちゃんの家に到着すると、おばあちゃんが2階の部屋へと案内した。

「今日から、ここが勇ちゃんの部屋になるからね」

部屋には、先に母が送っていた荷物も到着していた。

「ゆっくりするより、先に片付けをしましょう」とおばあちゃんは言った。

僕はリュックから荷物を出し、おばあちゃんと一緒に片付けた。30分ちょっとで荷物が片付け終わり、部屋でくつろいでいた。すると、おばあちゃんが部屋に来て「勇ちゃん、海を見に行かない?」と尋ねた。

僕は「うん」と元気よく答え、おばあちゃんと手を繋いでゆっくり歩いて海岸へ向かった。途中ジュースを買ってもらい、おばあちゃんにいろいろ案内してもらいながら海岸に着いた。空は青く、間近でどこまでも続く海に大興奮。

おばあちゃんはニコニコしながら、海岸入口のベンチに腰を下ろし、僕もつられて腰をおろした。

「勇ちゃんは、海は初めて?」

「うん。大きな水溜りみたい」

おばあちゃんはクスと笑い「大きな水溜りね。勇ちゃんは面白いことを言うわね」続けて

「勇ちゃん。おじいちゃんのことを許してあげてね。勇ちゃんのことが大好きで、嬉しくって、どうしようもなかったみたい。ちょっと怖いけど、おじいちゃんと仲良くしてあげて、ねっ」ジュースを飲んでいる僕の顔をおばあちゃんが覗き込んだ。僕は頷く。

海岸の入り口付近を走り回っていると、おばあちゃんが「帰るよ」と声を掛けた。僕はおばちゃんの所へ駆け寄り、手を繋いで家へ帰った。家に帰ると、おじいちゃんがすでにお酒を飲んでいた。おじいちゃんが「どこ行ってた?言われたもの買っておいたぞ」

「勇ちゃんと海までお散歩。勇ちゃん、夕食が出来るまでおじいちゃんの相手してあげて」

僕は緊張しながらおじいちゃんの所に行った。おじいちゃんは嬉しそうに

「勇紀。海はどうだった。初めてか?」

「うん。大きな水溜りみたいだった」と声を小さくして答える。

「大きな水溜りか。その発想はなかったな」と豪快に笑う。

続けて「勇紀、その大きな水溜りには味がついているんだぞ」

海初心者の僕はどんな味か気になった。

「大きな水溜りはどんな味がするの?」

「まずは、塩味、甘い味で言えば、オレンジ、イチゴ、アイスクリームと他にも色んな味がするぞ」

「そうなんだ。味見してみたいな」

台所でおばあちゃんは声を押し殺して笑う。おじいちゃんは豪快に笑う。

「そうか、味見してみたいか。でもな、大きな水溜りは危ないから絶対1人では行ってはいけないからな。約束だぞ」

「分かった」と僕は頷く。

「よし、いい子だ」と大きな手で力強く頭を撫でられ、僕の緊張が少し解けた。

夕食は子供が大好きなメニュー。ハンバーグ、エビフライ、ミートボールなどに大興奮。

お腹一杯食べた。少しだけ打ち解けた、おじいちゃんと一緒に風呂に入った。

おじいちゃんの腕の筋肉はすごいことになっていた。

「おじいちゃん、おとうさんの身体よりすごいね」

「おっ、すごいか?」と腕を曲げて力こぶを見せる。

「すごい、おじいちゃん」

「これも、すごいぞ」と僕にお尻を向けて、おならをした。顔がちょうどお尻にあたりもろにおならのガスが嗅覚を刺激された。その匂いは卵が腐ったような匂いで頭がくらくらした。

おじいちゃんは「がはは、臭いか?臭いだろ」と豪快に笑う。くらくらしている僕を抱きかかえ風呂桶に一緒に入った。臭いにおいを取ろうと鼻を擦っていると、

「なぁ、勇紀。今日1人で寝れるか」

「大丈夫だよ。僕いつも1人で寝てるから」

「そうか。なら、大丈夫だな」おじいちゃんはちょっと寂しい顔をした。「よし、50数えたら上がるぞ」

「うん、いーち、にーい、さーん・・・」50数え終えると

「よく数えられたな」とじいちゃんはにこやかに笑い、頭を撫でた。

「先に上がって、身体を拭け」じいちゃんは僕を風呂から出した。

脱衣所で身体を拭いていると「ばあさん、勇紀が上がったぞ」と大声で叫んだ。

「はいはい」おばあちゃんは脱衣所に入ってくる。

「勇ちゃん、気持ちよかった?」

「うん。気持ちよかった」

「そう。拭き残しは無いかおばあちゃんが確認してあげる」

おばあちゃんはタオルで僕を包み、身体中を拭いた。

「はい。これで良し。あと頭を乾かさないと。こっちに来なさい」

おばあちゃんは洗面台のドライヤーをつけ、濡れた髪を乾かしながら「1人で寝れる?」

「うん。いつも1人で寝てるから大丈夫」

「そう」おばあちゃんは嬉しそうに僕の髪を乾かしている。

「髪も乾いたし、パジャマを着なさい」

「分かった」僕はそそくさとパジャマに着替えた。

おばあちゃんと一緒に居間に戻り、しばらくしておじいちゃんも居間に戻ってきた。

おばあちゃんがお風呂に入っている間、おじいちゃんが「本当に1人で寝れるのか?」

「大丈夫だよ、僕はいつも1人で寝てるから」

「本当に大丈夫か?」

「大丈夫だもん」と言い切った。

「そうか。お前は偉いな」と豪快に笑った。

おじいちゃんとそんなやり取りをしてる間に、ウトウトし始めていた。

お風呂から上がって来たおばあちゃんが、「勇ちゃん、お布団で寝ようね」と言って、2階の僕の部屋へ連れて行き、寝かしつけた。居間に戻ってきたおばあちゃんに「よっぽど、疲れていたのかな」と言い、おばあちゃんはコクリと頷いた。

夜も更けた夜中。急に目が覚めた僕は、いつもと違う部屋に怖くなり大声で泣いた。

「お父さん、お母さん」と泣いた。あまりの大きな泣き声に、おじいちゃんとおばあちゃんは驚き、僕の部屋に来た。

「勇ちゃん、どうしたの?」

「お父さんとお母さんいない。僕、家に帰る」

「勇紀、今からは帰れない」おじいちゃんの帰れないに反応し、さらに大泣き。

「勇ちゃん、大丈夫だからね」と背中をトントンとたたく。

「勇紀、大丈夫だぞ」

「勇ちゃん、お布団に入って目を瞑ってごらん。おばあちゃんが傍にいるから」

僕はまた、瞼が重くなりおばあちゃんの手を握りながら夢の中へと再び旅立った。

おじいちゃんとおばあちゃんはホッとし、自分たちの寝室に戻り眠りについた。

 翌朝、10時を過ぎた頃に目を覚ましおじいちゃんとおばあちゃんがいない事に気が付いた。僕は家の中を探し回り、居間に来たときテーブルに朝食が置いてあることに気が付いた。そこにメモも置いてあった。僕は朝食を取りながら、メモを読んだ。

メモにはこう書かれていた。


勇ちゃんへ

今日の朝寝坊は許します。でも明日からの寝坊は許しません。

勇ちゃんには、ここで暮らす為の約束事を決めます。必ず守ってください。

1.朝5時には起きること。

2.食事した後は、必ず食器を片付けること。

3.昼食、夕食のお手伝いをすること。

4.おじいちゃんとお話しすること。

5.お勉強も必ずやること。

この5つの約束を必ず守って下さい。

もし、一つでも守れなかったら、勇ちゃんが生きてきた中で一番辛いことしてもらいます。


僕は、お母さんのいつものセリフと思って軽く流した。お母さんはいつも僕を怒るとき同じことを言っている。でも、たいして辛いことはなかった。だから軽く流した。

ご飯も食べて、眠たくなった。食器も片付けずその場で寝てしまった。食器を片付ける音で目を覚ました。おばあちゃんは食器を洗っている。

「勇ちゃん、お勉強はした?」

「まだ、やってない」

「おばあちゃんが、見ててあげるからお勉強しましょう」

「分かった」僕はやる気のない顔をした。

それを察したおばあちゃんは「お勉強をがんばったら、海に行きましょう」

僕は嬉しくなって「うん、がんばる」と言った。そこからだらだらと2時間おばあちゃんについてもらって勉強した。

「おばあちゃん、勉強したから海に連れて行って」

「お勉強頑張ったし、海に行こうか」おばあちゃんは僕の頭をなでた。

おばあちゃんは海に行く準備をしている。そのときに隣の家の人が来た。

「こんにちは、文江さんいる?」

「は~い。勇ちゃん、ちょっと出てくれない」

僕は訳の分からないまま、玄関まで行った。

「あら、こんにちは。お名前は?」

「・・・」僕はうつむいた。

バタバタと奥からおばあちゃんが玄関にやってきた。僕はおばあちゃんの後ろに隠れた。

「明子さん。こんにちは」

「はい、回覧板」と回覧板を渡し、「この子は?」

「うちの孫。ご挨拶しなさい」おばあちゃんは僕を前に出した。

「こんにちは。おばあちゃんのお友達です。ぼくのお名前は?」と顔を見ながらやさしく問いかけて来た。

「勇紀」と小さな声で言った。

「勇紀くんって言うの。何歳かな」

僕は再び黙ってしまった。

「7歳なのよ。小学2年生。綾ちゃんも確か小学2年生じゃなかった?」

「そうなの。勇紀くんと同級生ね。勇紀くん、綾子と仲良くしてあげてね。じゃ、また」

「じゃ、また」おばあちゃんは手を振った。明子の姿が見えなくなるまで。

「それじゃ、海に行こうか」

僕は元気よく頷く。おばあちゃんは僕の手を繋ぎ、海へと向かった。

おばあちゃんと砂浜を歩いていると、小さな女の子が僕たちの方に向かって来た。

女の子はおばあちゃんの前で止まると「こんにちは、これおばあちゃんから」と1枚のメモを差し出した。

「こんにちは、綾ちゃん。おばあちゃんから?何かな?」

おばあちゃんはメモ読み、綾子の奥を見た。明子が手を振っている。

「明子さん。綾ちゃんに持ってこさせて」と笑う

「勇紀くんに綾を会わせたかったからね」

「綾、勇紀くんとあっちで遊んで来なさい」

「はーい。勇紀くん。こんにちは、あっちで遊ぼう」

おばあちゃんの後ろに隠れる僕を前に出した。「ほら、あいさつは」と僕をつつく。

「こんにちは。勇紀です」とあいさつした。

綾子は僕の手を取り、波打ち際まで連れて行く。

文江と明子は近くのベンチに座る。

「文江さん、勇紀くんは学校でしょ?どうしたの?」

「実はね、些細なことから学校に行かなくなったのよ。それで、由紀子がうちに孫をよこして、きちんとした生活を取り戻してあげてほしいって。あとわがままになったから、そこも鍛えなおしてほしいそうよ。まったく、やんなっちゃう」と笑う。

「そうね。うちの夫婦も一緒よ」と明子も笑う。

「ところで、いい子そうだけど、勉強は大丈夫なの?」

「そこなの。私は、漁港で昼間は働いているから。あとで明子さんにお願いしようかなと思ってたんだけど、勇紀の勉強を見てくれない?」

「私は構わないけど、小学2年生だから、文江さんでも見れるでしょ?」

「そうなんだけど、孫だと甘くなるから」

「そういうことね」と明子は笑う。

「そういうことなの」

「勉強方法はどうするの?私が毎日見てもいいけど」

「そのことだけど、勉強は宿題をやる方法にして、土曜日か日曜日のどちらかで見てほしいの。明子さんだって暇ではないでしょ」

「分かった。引き受けたわ。昔の塾講師の腕がなるわ」と笑う。

「おばあちゃん。濡れちゃった」と波打ち際で遊んでいた勇紀が大声で叫んだ。

「私も濡れちゃった」と綾子も叫んだ。

文江と明子は二人で顔を見合わせ、笑った。ベンチから立ち、子供たちのもとへ向かった。

「あらら、二人とも濡れちゃって。仲良しさんね」

「うん。僕たち仲良し」というと「私たち、仲良し」とオウム返しのように言った。

それを見た、文江と明子は微笑んだ。

家に帰るとおじいちゃんが、1人酒を飲んでいた。玄関を入り、おばあちゃんが台所に向かう。

「ばあさん。遅かったな。勇紀はどこだ?」

「あら、早かったのね。勇ちゃんなら玄関にいるわよ」

僕は玄関で靴下とズボンを脱いでいた。おじいちゃんは玄関まで来て

「寝坊助勇紀。よく寝れたか?」

「うん。おじいちゃん、今日の海はしょっぱい味がしたよ」

「勇ちゃん。おじいちゃんとお風呂に入りなさい」

「勇紀。風呂に入るぞ。来い」と言い、僕を抱き上げ風呂場へと連れて行った。

お風呂に入っている時に、「おじいちゃん、海はいつ甘い味になるの?」と疑問を投げかけた。おじいちゃんは「そうだな、いつだろうな。おじいちゃんにも分からん」と豪快に笑う。お風呂から上がり夕食を済ませ寝るときにおばあちゃんが「勇ちゃん、寝る前に明日着る服を枕の上に置いて寝ようか」

「なんで?」

「勇ちゃん、起きたらすぐに着替えるのが普通よ。だから」とおばあちゃんは笑顔で答えた。僕は明日着る服を枕の上に置き、布団に入って寝た。翌朝、起きたところはとんでもないところだった。

 部屋の床が揺れている。何か変な音もする。そして時折、変な匂いもしている。

布団のはずが、生き物の背中に寝ているような感じ。そして何より段々気持ち悪くなってきている。その気分の悪さからゆっくりと目を覚ました。僕はいつもとは違う雰囲気に自分の居場所がどこか判らなかった。辺りをキョロキョロしていると、おじいちゃんが船室に入って来た。

「勇紀、起きたか?」おじいちゃんが僕の様子を見に来た。

「おじいちゃん。ここどこ?なんかフラフラするし、気分悪い。頭もぼーっとする」

「ここか?海の上。勇紀、お前は船に乗っている。気分が悪いのは揺られているからだ」

「おじいちゃん、気持ち悪い。吐きそう」

「吐くか?表に出て吐くか。ちょっと待ってろ」と言い、僕を抱き上げ船の縁へ連れて行った。そして、僕は下を向いた瞬間に盛大に吐いた。

「おー。盛大に撒き餌をしてくれて助かるわ。釣りをしているからな」と豪快に笑った。

「おじちゃん、気持ち悪い。お家帰りたい。気持ち悪い。吐きそう」

「いっぱい吐け。吐いたら、ばあさん特製のおにぎりを食べろ」

「いらない。食べたくない。早く帰ろうよ。おじいちゃん」と泣き出した。

「勇紀、泣いても、これか2時間は海の上だ。我慢しろ」

「おじいちゃん嫌い。バカ」と大泣きした。

おじいちゃんは、僕の顔を真剣に見つめ「勇紀。お前、なんで寝間着じゃなくて服着てるんだ?」と言った。

おじいちゃんの真剣な顔と変な質問に僕は泣き止んだ。そして僕は身体を見た。確かに服を着ている。「おじいちゃん、何で服を着ているの?」と泣き声で聞いた。

「ばあさんが、寝ているお前を起こさないように服を着させて船に乗せたんだ。勇紀、約束破ったろ。だから、海の上にいるんだ」

「約束?昨日の?あっ・・・」僕は思い出した。確か2番目に書いてあった。“食事後の食器は片付けること”思い出している最中もますます気持ちが悪くなってくる。また吐く。

多少お腹の中にあった内容物はすべて空っぽになった。それでも気持ち悪い。

おじいちゃんはおもむろに「勇紀、お前が経験した中で一番辛いだろ?」と僕を見る。

頷くのが精一杯の僕に続けて「勇紀、お前がある出来事で学校に行かなくなったことは、由紀子から聞いている。お前にとってはすごく辛く大きな事だろう。でもその辛いことから逃げてはダメだ。今、経験している辛さを忘れるな」続けて「お前が辛いことから逃げているとそれはついてくる。逃げずに立ち向かえ」

それから2時間。海の上にいた。そして、陸に上がっても今度は陸が揺れて気持ち悪い。

「おばあちゃん。ごめんさない」

「じゃ、帰ったらお勉強ね」と笑顔になる。

子供心に“おばあちゃんには逆らってはいけない”と思った。

 僕はそんなことを思い出していると、綾子が部屋に入っていた。「まだ、寝てなかったの?」と綾子は僕を見て言った。「初めて、船に乗ったことを思い出してた」

「その話聞きたいな。ねぇ、教えて」と甘い声で言われたが、「明日、話すから。今日は寝よう」と綾子を見る「そうだね。お休み」

2章

 また、いつもの時間に目覚ましが鳴り、同じことを繰り返しながら日常を進んでいる。

漁に出ると必ず思うことがある。じいちゃんが言ってたあの言葉。“海は生き物だ。気を絶対に抜くな。食われるぞ”漁をしていると必ず言う言葉。

初めて船に乗ってから、僕はじいちゃんが大好きになった。そして、船も好きになった。だから、最初の辛い体験から2日後には、船にもう一度乗りたいと思うようになった。そして、わざと約束を破るようになる。

 漁から帰ってきて、一家団欒の時。今日は珍しく綾子もいる。笑いが絶えない中、ばあちゃんが「勇ちゃんが、小さい時に家で暮らす為の約束を書いたメモが見つかったのよ」と色あせた紙を一枚取り出した。僕はその紙を見て「なつかしいな」と笑った。拓也はその紙を覗いた。拓也は首を傾げ、綾子に見せた。そして「そういえば、勇くん。結構約束破ってなかった?」

「そうなのよ。船に乗りたいが為に、約束破って乗ってたの。おじいさんは知っていたみたいだけど。おじいさんに聞かされてビックリしたわ」と笑う。

するとおやじが「夏休みに迎えに行ったときは、かなりの傑作だったな」と豪快に笑った。

夏休み。迎えに来た両親を前に盛大に泣いていたことを思い出した。

 おじいちゃんの家に来てから3ヶ月。3日1回程度、必ず約束を破っていた。船に乗りたいが為に。不思議に思ったおじいちゃんがお風呂に入っている時に聞いてきた。

「勇紀、なんで約束を破るんだ?もしかして、船に乗りたいのか?」僕は申し訳なさそうに頷いた。「そうか。約束破ってまで、船に乗りたいか」とおじいちゃんが嬉しそうに笑った。「勇紀、約束は破らずに、船に乗れるようじいちゃんが言ってやる。だから、約束は守るんだぞ」と言った。僕は大きな声で「はい」と返事した。おじいちゃんはニコニコしている。僕が寝た後におじいちゃんが「なぁ、何で勇紀が約束破るか知っているか?」

「勇ちゃんは、忘れっぽいのかしらね」おばあちゃんは頭を抱える。

「違うんだ。勇紀は船に乗りたいが為に、約束を破ってる。勇紀は面白い奴だ」

「そうなの。ちゃんと言えばいいのに」

「お前の事も好きだから、言えないんじゃないのか。明日、勇紀からちゃんとお願いさせる。許してやってくれないか?」おばあちゃんは頷き、壁に貼ってあった約束事にこう付け加えた。“約束を破ったら、船には乗せません”と。おじいちゃんはそれを見て、微笑んだ。翌朝、時化のため船は出なかった。おばあちゃんとの約束で毎朝5時に起きていたので習慣となっていた。5時に起きたときは、すでにおじいちゃんは起きていた。おじいちゃんは僕を手招きし「ちゃんとばあさんに言うんだぞ」と言った。おばあちゃんがいる台所に行き「おばあちゃん。お願いがあります。約束を破らないので船に乗せてください」僕は震えながら言った。おばあちゃんは作った料理を僕に手渡し「勇ちゃん、今度約束破ったら船には乗せないからね。ちゃんと約束は守ること。分かった?」とおばあちゃんは微笑んだ。それから、両親が迎えに来るまでの1ヶ月。約束を守った。お盆になり、両親が迎えに来た。お盆の期間は漁が休み。おじいちゃんは船で仕事をしていた。僕はおじいちゃんに付いて、船にいた。「おじいちゃん。僕、もう少しで東京のお家に帰らなきゃいけないみたいなんだ。おじいちゃん、どうしよう、学校に行きたくないな」

おじいちゃんは仕事の手を止め、僕の隣に座った。しばらく沈黙が漂う。

おじいちゃんは「そうか。行きたくないか」その沈黙を破り、こう続けた。

「勇紀。おじいちゃんもお前と離れるのは辛いな。でもな、学校は行かないとな。せっかく、お父さんとお母さんが行かせてくれてるんだからな。勇紀、昔話をしてもいいか」

「昔話?」

「おじいちゃんの小さい頃の話だ。実はな、小さい頃はおじいちゃんも学校に行かなかったことがあるんだぞ」

「おじいちゃんが?」僕はおじいちゃんの顔を見上げた。こんなにいかついおじいちゃんが?と思った。

「そうだ。上履き隠されたり、教科書を隠されたり、殴られたりもしたっけ。なぁ、那珂」

那珂さんは、おじいちゃんの船に乗っている船員さんで親友。すぐに喧嘩するけど、すぐに仲直りもする。

「おい、俺に振るな。大体、お前が弱っちいからだ。勇紀。今はこんな偉そうにしてるけどな、子供の頃はお前よりもなよなよしてたぞ」と豪快に笑う。

「お前、勇紀の前で言うことねえだろ。勇紀、いじめてた張本人が今じゃ親友だ」

僕は混乱した。おじいちゃんをいじめてたのは、那珂おじちゃん?で、いじめられていたのはおじいちゃん?僕はなんでそうなったのかおじいちゃんに聞こうとした。するとおじいちゃんから話し始めた。「那珂は腕っぷしが強くてな、わがままで学年のガキ大将だった。俺は病気がちで学校も休みがちだった。那珂は休みがちですましている俺が気に食わなかった。だから、俺をかまい始めた。じいちゃんはそれが嫌で仮病を使って休んだこともある。勇紀、分かるか?学校に行かないきっかけなんて本当に些細なことなんだ。お前も考えてみろ。お前が不登校の原因が何か」

僕は考えた。普通に生活していたつもりだった。一つ思い当たるのは、クラスで一番やんちゃな奴が僕のランドセルに付いているビーズの飾りが気に食わなかった。なぜなら女の子に人気だったから。そんな光景がうらやましいのかランドセルのビーズを取り上げる。僕には大切なものだ。だって、お母さんの手作りのビーズ。僕は泣いて取り返す。それが面白かったのか、それから毎日、ビーズの飾りいじられた。そんな生活が嫌で不登校になった。僕はおじいちゃんにこう答えた「おじいちゃん。原因はたぶん僕のランドセルに付いている飾りを構った奴が取り上げて、それから毎日毎日構われて嫌になって・・・」

「勇紀、原因分かってたのか」と言い、話を続けた。「まぁ、昔のいじめは、後ろから押したり、上履き隠したり、女の子がいる目の前でパンツをおろしたりと陰湿ないじめではなかったから、那珂に決闘を申し込んで殴り合いをした。殴って殴って殴って。散々殴った後、那珂がポツンと言った。“体大丈夫なのか”って。それから、いじめはすっかりなくなった。おじいちゃんと那珂は親友になった」と照れ臭そうに言った

「じゃあ、僕はどうしたらいいの?」

「いや、お前の場合は簡単だ。それが無くなれば学校もすぐに行きたくなるな」じいちゃんは笑った。

「どうすればいいの?」

「さっき考えたように、自分で考えてみろ。勇紀が帰る日に答えを聞かせてくれ」そういうとおじいちゃんは僕の頭を大きな手で撫でた。すると、漁港に若いラフな格好をした人がやって来た。「お義父さん、お久しぶりです」そう、お父さんがやって来た。

「おぉ、正剛君。元気だったか?船の仕事はどうだ」

「慣れました。都の職員になって、船に乗って、取締りして、観測していろいろやってますよ」と笑顔とともに大声で笑った。

「おっ、正剛じゃねぇか。元気か?」

「那珂さん、こんにちは。元気ですよ。那珂さんこそ元気でした?って元気ですよね」と笑った。雑談をしているとお母さんもやって来た。

「勇くん。元気だった?」お母さんは僕に向かって言った。

「僕は元気。おじいちゃんにあいさつしなさい」と照れ隠しで生意気言った。

その言葉におじいちゃん、お父さん、那珂さん、お母さんがどっと笑った。

「お父さん。元気だった?那珂さんは?」

「元気だぞ。由紀子ちゃん、お母さんらしくなったな。文江さんに似て来たな」

「そうなの、最近特にそう思うようになったの」と笑う。

「家族全員揃ったし、飯でも食いに行くか。那珂もどうだ。」

「俺は遠慮しておく。東京にいる孫が来るからな」

「そうか、ならあと頼むな」と言って、僕を船から揚げおじいちゃんの家へ向かった。

それからの数日は楽しく、嬉しかった。でも、おじいちゃんが出した問題だけはいつまでたっても解けていない。帰る日の前日まで考えて、おじいちゃんが言った問題を解こうと悩んでいた。何で僕が不登校になったのか。パラパラと本をめくる・

「勇くん、何やってるの」お母さんが部屋に入って来た。

「おじいちゃんの問題を解くためにいろいろ調べてるの」

「問題?なんの?」

「いいから。僕は一人で考えるの」

「お母さんにヒントちょうだい。」

僕は、おじいちゃんが不登校の原因は自分にあることを伝えた。お母さんは黙って聞いている。するとお母さんはヒントをくれた。そのとき僕はピンと来た。「お母さん、僕がランドセルに付けているビーズをクラスのみんなに作りたい」と突然言った。お母さんはにこやかに笑い頷いた。

「これが、おじいちゃんの答えだ」と僕は納得した。お母さんは僕の納得した姿をにこやかに見ていた。

翌朝、僕はいつもより1時間早く起きて、おじいちゃんと船に行った。

おじいちゃんと船に乗り、船首に座った。明るくなる空を眺めながらおじいちゃんは一言「答えが見つかったか?」

「うん。クラスのみんなに僕がランドセルに付けてるビーズと同じビーズを作った渡すことにする」

「そうか、よく答えを見つけたな」と大きな手で頭を撫でてくれた。続けて「勇紀、もう一つだけ覚えておけ。絶対にお前が経験したことを人にするな。必ず自分に帰ってくるからな」

僕は大きく頷いた。そして、おじいちゃんとの別れの時。僕の顔はかなり暗い。午前中に僕の荷物は引越し屋さんに預けられた。僕、おじいちゃんやおばあちゃんと別れるのはもちろん寂しかった。でも、それ以上に寂しかったのは、綾子との別れだった。

綾子は僕を見送りに来た。綾子はうつむいている。

「勇くん、帰っちゃうの?」綾子は尋ねるが、僕はうつむいたままだ。

「ほら、勇紀。綾ちゃんにあいさつしなさい」お母さんは僕を前に出す。

既に泣いている僕は「綾ちゃん。今までありがとう。遊んでくれてありがとう」と言った。

綾子も泣いている。泣いている僕に綾子は「勇くん、帰らないで。一緒に居ようよ」

「僕も帰りたくない。お母さん、帰りたくない」と大泣き。綾子の手を握って。

「そんなことを言っても2週間後には学校が始まるのよ。ほら、おじいちゃんとおばあちゃんに挨拶なさい。綾ちゃんにも」僕は地団駄を踏んだ。お母さんは僕をなだめ車に乗せた。

僕は車の後部座席から後ろを見て、綾子が見えなくなるまでずっと見ていた。

こうしておじいちゃんやおばあちゃんとの暮らしが終わった。そして、綾子と遊べる日々も終わった。

僕は当時のことを思い出し笑った。寝室で横になりながら思い出し笑いをしていると綾子が「どうしたの?笑って」

「いや、おやじが言ってたけど帰るとき、じいちゃんやばあちゃんと別れるより、お前と別れる方が辛かったなと思って」

「そうなの。嬉しい。早く寝よ」と綾子は僕にキスをして布団に入った。

数時間後、綾子がうなっている。

「綾子、大丈夫か。どうかしたか?」

「陣痛が来たっぽい。病院に」話すのも辛いようだ。僕は階段を駆け下り、ばあちゃんと母を叩き起こし、病院へ行き、即日入院した。陣痛はあるものの、緩やかに収まってしまった。

「綾子、大丈夫か?」僕は不安な顔を見せる。

「大丈夫。不安な顔をしない。二人目なんだからしっかりして」と笑う。続けて「明日、漁に出るんでしょ。早く帰って準備しなきゃ」

「分かった。俺たち帰るけど、午前中に母さんが来るって」

「分かったわ。元気いっぱい仕事して来て」綾子は手を振って病室から出ていく僕たちを見送った。

 家に着き、漁に出る準備をした。船に着き、冬から春の風に変わっていることを肌で感じた。「おやじ、俺もうすぐ2人の親になるわ」僕はそう呟く。おやじはただうなずいた。漁が終わり、僕は急いでいわき市総合常磐共立病院、通称、共立病院へ向かった。

病室に着くと、雄也と美夏が見舞いに来ており、綾子と談笑している。

「おう、勇紀。元気か」雄也は僕の方を見た。

「あっ、先輩。元気でした?」と合わせて、美夏も向いた。

「おう、元気だよ。お前らこそどうしたんだ?」

「綾ちゃんが入院したっていうからお見舞いです」雄也もうなずく。

「そりゃ、ありがとな」と笑う。

「それより、今さっき、聞いたんだけど雄也君と美夏ちゃん結婚するんだって」

「本当か?雄也、ついに独身を諦めたか」

「バカ、お前なんてこと言うんだ」

「美夏ちゃん、本当にこいつでいいの?」

「いいんです。私を大事にしてくれますから。高校の時みたいな経験はもうこりごりですから」一瞬の沈黙が走る。

「俺もこりごりだ。同じ経験をした二人なら間違いないと思ってな」雄也と美夏は笑う。

僕たち夫婦は黙る。「嫌味で言っている訳ではなくって、私たちの経験がこの結婚につながっているから、感謝しているんです」

「綾ちゃん、今度産まれてくる子は女の子?」美夏は話題を変えた。

「そうなの。女の子なの」綾子もその話題に乗っかった。

「えっ、女の子なの?」僕は驚いた。綾子はしまったという顔をした。

「お前、まさか、まだ知らなかったの?」雄也は驚いた。

「女の子か。綾子に似ればすごくかわいいんだろうな」とボソッと言った。

それを聞いた3人が爆笑した。怒るどころか早くも娘に対する親バカを発揮している。

「先輩、よかったですね。女の子で」

「良かったな。勇紀」美夏と雄也は笑顔で言った。

「おお、ありがとう」

「綾ちゃんとお前の娘が生まれた後に俺たちも結婚式をしようか」

「あんた、結婚式をしないって言ったじゃん」

「なんか、あの二人見てたら、結婚式したくなるよ」

「あんたバカじゃないの?安い給料で・・・」と美夏は言っているが嬉しそうだった。

二人が帰るのに合わせて、僕も帰った。

明日は時化で夜遅くまで飲める。雄也を誘って飲みにいわき駅周辺の飲み屋に入って飲んでいた。程よく酔いが回った頃、雄也が「お前、何でいわき海星に入ったんだ。お前、中学校の頃、頭良かったんだろ?」

「良くはないよ。魚とる以外出来ないし」

「嘘付け、綾ちゃん言ってたぞ。かなり頭が良いって」

「そんなことはない。それにいわき海星に入ったのは理由があってな」

「その理由ってなんだよ」と雄也が尋ねた。


3章

 僕は、その動機を思い出した。

小学生の頃にじいちゃんの仕事を見て、強い憧れを抱き同じ仕事に就きたいと考えていた。勉強はじいちゃん家にいた頃に隣の明子おばちゃんに叩き込まれ、勉強する癖が付き、中学校ではトップ10に入っていた。もちろん、執拗な構いを解決してから僕は学校に行けるようになった。でも、1つだけ恥をかいたことがある。通学するようになってから、僕はいつじいちゃんの家に行けるのか楽しみで仕方がなかった。そんなとき、授業で海はしょっぱい以外味がないことを知った。僕は先生に甘い味やカレー味、酸っぱい味などはしないのか尋ねた。先生はまじめにしょっぱい味以外はないと言った。クラスは大爆笑。僕は恥をかいた。その晩にじいちゃんに泣きながら怒りの電話をしたがじいちゃんに笑われて終わりだった。それでも僕は子供心にじいちゃんと同じ仕事に就きたいと思っていた。

中学3年の春。じいちゃんと同じ仕事に就くには水産高校に行くしかないと思っていた。進路の紙にもそう書いた。でも、他の教師は進学校を進めてくる。担任の吉田誠一に僕は相談した。夕日が差し込む放課後の教室で、吉田先生に思いを告げた。吉田先生は進路の紙を見て頭を掻いている。

「分かるんだけどな。お前の成績なら中央大学高校あたりを俺は薦めたい」

「さっきも話した通り、水産高校に行って船の資格を取りたいんです」

「なら、高校に進学した後に水産大学に進むのはどうなんだ?海員学校に行って船の資格を取ることもできるぞ」

「先生の言っていることは分かります。調べました。ですが、漁業の技術と船の免許を同時に習得して即戦力として働きたいんです」

「ということは、もう行きたい高校は決まってるってことだな」先生は僕の顔を見た。

「はい。福島県にある、いわき海星高校に行こうと思います」

先生は頭を掻いた。ぶつぶつと言っていたが「分かった。ご両親にちゃんと言うんだ。いいな」と笑顔で言った。

「はい。先生ありがとうございます」僕は頭を下げた。僕が教室を出たとき、先生は大きなため息を付いた。僕は、父と母に伝える前に、じいちゃんとばあちゃんに電話しようと決めていた。父と母は共働き。小学3年の時に生まれたが妹が家で一人遊んでいた。僕は家の固定電話の子機を持ち部屋に籠った。そして、じいちゃんに電話を掛けた。呼び出し音がなる。「もしもし、中村です」とばあちゃんが出た。

「ばあちゃん。勇紀だよ」

「あら、勇ちゃん珍しい。どうしたの?」

「うん、実は話があって、じいちゃんにも聞いて欲しいんだけど」

「ちょっと、待ってね」とばあちゃんはじいちゃんを呼んだ。

「もしもし、勇紀か?どうした」

「実は高校なんだけど、いわき海星に行こうかなと思ってるんだ」

「そうか。いわき海星か。由紀子と正剛君に言ったのか」

「まだ、言ってない。今日、言うつもり」

「もし、来ることになったら、また一緒に暮らせるな」じいちゃんは電話越しで笑う。

 夕食時、家族全員で今日あったことを報告し、笑ったり、怒られたりしていた。僕はこの雰囲気を壊したくないが言うしかないと思った。

「あのさ、話あるんだけど」

「どうした?急に」

「うん、俺、今年受験じゃん。高校なんだけど、いわき海星に行きたいと思ってる」と僕は意を決して言った。当然否定されるだろうと思っていた。だが予想に反して母は「いいんじゃない。自分で決めたことなら行きなさい」となぜか否定しなかった。

父も「行きたいなら、行けばいい。しっかり学ぶんだぞ」とこちらもあっさり。

「否定しないんだね。否定されると思った」と少し寂しげに笑ってみせた。

それに気が付いたのか「あんたはこうなると思っていたのよ」と母は笑い、父は頷く。

僕はじいちゃんに電話し、いわき海星に行くことに決めたことを報告した。じいちゃんは嬉しそうな声をしていた。固定電話の子機を置きに階段を降りたとき、リビングから母と父が話している声が聞こえた。

「よく許したな。勇紀がいわきに行くことを」

「許したことにして。あの子頑固だから。反対しても行くって聞かないでしょ。本当は行って欲しくない。せめて成人するまではと思ったんだけど」と涙声になっていた。

「そうだな。でもな、かわいい子には旅をさせろではないけど家を出ることは必要だと俺は思うぞ」と父は母の背中を擦っている。母は無言で頷いて、顔を覆っている。

父は続けて「勇紀が決断したことだ。応援してやろう。お前は最高の母親だな」

僕は立ち聞きするつもりはなかったが、母はそこまで考えていたことに感謝した。父の母を励ます言葉に感動した。それからは怒涛のように日々が過ぎて行った。そして、福島県立いわき海星高等学校に入学した。

いわき海星に入った理由を雄也に話した。雄也は黙って聞いていた。

雄也は僕を見て突然「やっぱ、お前ムカつくは」とつぶやく。

「何だよ。急に」

「お前はいつも本心を隠す。あの時もそうだよ。お前が綾ちゃんに本心を話さなかったからお前たち夫婦はいつまでも引きずってるんだ」

僕は黙るしかなかった。そう、雄也と美夏には一生消えない傷を抱えさせてしまった。僕が黙っていると美夏も到着した。

「どうしたの?この重苦しい空気は?」

「つい本音が・・・」と申し訳なさそうに言った。美夏は察しがついた。そして雄也の頭を叩いた。美夏は「先輩。さっきも言いましたけど、私たちはこれで良かったんですよ。先輩たちが引きずることはありません」

 僕は美夏の声が届いていない。あの日のことを思い出すと・・・。

先輩方が卒業し、桜のつぼみも膨らみ暖かな風がそよそよと吹いていた。僕は入学する福島県立いわき海星高等学校に行く為、じいちゃん家に引っ越した。僕は綾子に会いに行った。彼女は喜んでくれ「これで毎日会えるね」と言った。そう言った笑顔が大人びて見えた僕は、彼女が子供から女性へと変わっていることに気が付いた。彼女はこの春から磐城女子高等学校に行くことが決まっていた。そして、小さい頃に出会った雄也は磐城高等学校へ行くことが決まっている。雄也も実は綾子が好きだと中学3年の夏に分かった。

海洋科に入学した僕は2年間海洋工学や航海術を学び、2年の夏には実習船で小笠原諸島にも行った。その間、雄也と綾子は通学が一緒。僕は気が気ではない。周りからはお似合いのカップルとか付き合っているとか聞いている。内心穏やかではない。綾子は相変わらずで、付き合っているかわからない。3年生が卒業し、僕は3年生になった。そして、海洋実習に5月から行く。その間に付き合うとかもある。行きたくない、そんな気持ちがよぎる。約1ヶ月半の航海でどうこうなるとは思わない。そう自分に言い聞かせながら海洋実習の準備をした。出航当日、じいちゃん、ばあちゃん、父母、妹、そしてそこに綾子の姿もあった。綾子は「気を付けて行ってきてね。これ」と赤い安全のお守りを手渡した。

「ありがとう。行ってくる」と僕は笑顔で答える。綾子も笑顔だ。

父母、ばあちゃん、じいちゃんは涙を浮かべている。妹は漁港を走り回っている。

出航式を終え、乗船し右舷に生徒が集合する。父兄が紙テープを投げ、投げ込まれた紙テープを持った生徒はみんな笑顔だ。そのあとの地獄を思わずに・・・。

船はゆっくりと岸から離れ紙テープも海に浸り切れる。そして停泊していた漁港から大海原へと試練の道がゆっくりと門を開けた。船は汽笛を鳴らし、父兄たちにあいさつをし旅に出た。船の名前は福島丸。県内唯一の水産高校である我が校所有する実習船だ。これから2ヶ月衣食住と学習をする場所となる。

最初の1週間は船酔いとの戦いだ。それでも実習なのでワッチはある。そんな生活を1週間も続けると慣れる。そうしたら、船内で勉強しつつ、六分儀を使って計測したり、ハワイ沖で漁をしたりといろいろやる。航海は赤道を越える。赤道付近に来ると僕たちは海を見つめて赤いラインを探す。それには理由がある。実習に行く前、安西先生が僕たちに向かって「赤道は見えるからな、海の中に赤いラインが引いてあるからよく見ろよ」と言った。先生方は一般企業から先生になった人達ばかりだ。信憑性がある。だから僕たちは探した。でも、赤いラインが見えないまま、赤道を通り越した。僕たちは不可解に思った。見えるはずの赤いラインが見えない。ある生徒が先生に尋ねた。

「先生、赤いライン見えないんですけど」

先生は大笑い。涙目になり「お前ら、あの話を信じたのか?赤いラインは見えないよ。というかない」とまた大笑い。船の職員たちも大笑い。僕たちだけが恥をかいた。そんな船内生活も楽しい。

ハワイに寄港し3泊した。観光、ショッピングをして、福島へ帰港する。その途中に神奈川県の三崎漁港に寄り、検疫と水揚げを行い、いわきに帰って来たのは7月中旬だ。船は小名浜漁港に停泊し、帰港式を執り行い無事帰って来たことを報告した。じいちゃんとばあちゃんが迎えに来てくれた。じいちゃんとばあちゃんは少したくましくなったと言った。

船の生活も終わり、家に帰ると疲れが出たのかいつの間にか寝ていた。目を覚ますと綾子が僕の顔を覗いていた。「おはよう。勇くん起きた?」僕はびっくりした。

「おっ、おはよう。てか、何で俺の部屋にいるの?」

「勇くんが帰って来たから、おかえりを言おうと思って」と満面に笑みを浮かべた。その様子を見ると綾子は僕に惚れていることがよくわかる。雄也は気の毒にと内心思った。

「あっ、これお土産」カバンからネックレスを取り出し、綾子に手渡した。

「似合うと思って買ってきた」僕は照れながら言った。

「ありがとう。嬉しい。ねぇ、付けて」笑顔で髪を掻き揚げた。僕は綾子の後ろに回りネックレスを付けた。綾子は部屋にある鏡を見て嬉しそうだった。僕はその姿を後ろから見ていた。彼女は後ろを向くと「ねぇ、似合う?」と聞いてきた。

「似合ってるよ」平静を装っていたが、彼女の美しさにめまいを起こす寸前だった。

彼女は自分の家へと帰って行った。

数日後、僕は衝撃な光景を見てしまった。雄也が綾子に告白しているところだ。

「綾子、お前の事が好きだ。俺と付き合ってほしい」

「ありがとう。でも・・・」

「勇紀、ではなくて俺じゃダメか?」綾子は困った顔をし、その場から立ち去った。

雄也は綾子の立ち去る姿を見ていた。僕は放心状態のまま家に帰った。夜、綾子が家を訪ねて来た。綾子は僕を外へ連れ出すと公園に向かった。公園のベンチに腰掛けるとひどく困惑表情で話し始めた。

「勇くん。私ね。雄也君に告白されたの。どうしたらいい?」僕はその現場を目撃した事で自分も困惑している。僕は無言で下を向いた。綾子を好きな気持ちは雄也には絶対に負けない自信がある。でも、雄也も大事な友達。僕は大きな決断に迫られた。綾子の気持ちが知りたいと思い、僕は顔をあげ綾子の顔をまっすぐに見てこう尋ねた。

「綾子、お前の本当の気持ちが知りたい」僕は綾子が自分を選ぶと思っていた。でも綾子は「雄也君のことは、友達として好き。相談に乗ってくれたりもするし・・・。でも」

僕はその言葉で綾子の幸せを願うのであれば、雄也と付き合う方がいいと思った。綾子が続きを言うとしているのを止め、心の奥に綾子への想いをしまい「雄也と付き合えば?綾子と雄也とならお似合いだ」辛い気持ちを押し込めて言った。

綾子は涙を浮かべベンチから立ち上がり、その場を走り去った。綾子の走り去る姿を見送った。暗い夜の月明かりに涙が光った。翌日、雄也は僕を永崎海岸に呼び出した。

「勇紀には悪いが、俺、綾子と付き合うことになったから。しかも、お前が後押ししてくれたんだってな。ありがとな」満面の笑みで僕に報告した。

「良かったな。お前、前から綾子が好きだったからな」僕は綾子と雄也の幸せを願い、にこやかに笑い、その場を立ち去った。砂浜を歩いて足に波がかかる。頬に涙が伝い上を向く。波が涙をさらっていくようにとめどなくあふれる。僕は「これでいい」とつぶやいた。

それから綾子とは会わなくなった。雄也と綾子の為を思ってもあったが、後輩の美夏の告白に答えて付き合うことにした。綾子を忘れるために。彼女は喜んでくれた。美夏は笑顔がかわいい小柄な女の子で同じ高校の情報通信科2年。

付き合い始めて3週間が経った休日、美夏と僕は永崎海岸の砂浜を高校に向かって歩いていた。たわいもない話をしながらゆっくりと。彼女は波打ち際まで行き、波と戯れている。僕は砂浜に腰を下ろし彼女を見ると、彼女は高校から歩いてくるカップルを見ていた。彼女は僕の方に歩いてくると「勇くん、あれ、勇くんの幼馴染じゃない?」僕も同じ方向を見る。雄也と綾子が、距離を取って歩いている。雄也が先に僕たちに気が付きこちらに走って向かって来た。後を追う綾子に僕は目を奪われている。雄也は僕たちの前に止まると「よう、彼女出来たのか?」雄也は綾子と付き合っていることで笑顔だ。しかし綾子は暗い顔をし、無理な笑顔を作っているように見えた。

「まぁな、雄也たちも順調そうだな」

「あぁ、綾子とは相性がいいらしい。何やっても楽しい。なぁ、綾子」雄也は少し下がっている綾子を見た。綾子は無言のまま頭を垂れるようにコクリと頷いた。雄也は思い立ったように「そうだ、これからWデートしようぜ」無邪気な笑顔が僕の胸を締め付ける。

Wデートをすることになったが、僕は綾子しか目に入らない。女の子同士楽しく話をしている。そのWデートは苦痛以外のなにものでもない。早く時間が過ぎて欲しいと願い度、無情にも時間がスローモーションになる。苦痛から解放されたのは3時間後の事だった。僕は改めて思う。心の中に綾子の存在がいることを。そして、綾子が僕にとって必要な存在であることを。僕は、美夏に別れを告げる決意をした。だが、なかなか美夏と会う機会がなかった。Wデートから1週間が経った頃、美夏から連絡があった。

「もしもし。勇くん、明日、デートしない」いつもと変わらぬ明るい声。

「いいよ。どこで待ち合わせ?」

「永崎海岸の駐車場で、10時に」僕は返事をし、電話を切った。

翌日、照りつける太陽は熱波で僕を溶けさせると思った。待ち合わせの5分前に着いた僕は暑さのあまり近くのコンビニに入った。するとすでに暑さで入っていた美夏がいた。

立ち読みしている美夏に「何してんの?」と声を掛ける。

「勇くんこそ。私は暑いから涼しい所にいただけ」

「俺も同じ。暑くて表には出たくないな」

「そうだね。でも、今日はとことん付き合ってもらうからね」

「分かった」不思議に思った。こんなこと言う子ではなかったから。そして本当にとことん付き合わされた。バスで泉駅まで行き、平まで出てショッピング、ランチ、映画。本当にとことん付き合った。そして、夕方最初に待ち合わせの場所、永崎海岸へと帰って来た。砂浜に降りると「今日は楽しかった」美夏はまだ暑さの残る夕日を見ながら言った。続けて「先輩、私先輩の事、嫌いになりました。別れましょう」僕は美夏が何を言っているのか分からなかった。

「えっ、何で?」何が何だか分からなくなった。困惑に表情をしていると「先輩、好きな人がいるんじゃないですか?」核心を突かれたようで胸の動悸が激しくなるのが分かった。

「いないよ。美夏が好きだよ」僕は嘘を咄嗟に付いた。美夏は少し呆れた表情で「先輩、嘘言わないで下さい。私が何も知らないとでも思っているんですか?Wデートの時から私を見てないじゃないですか。綾ちゃんばっかり見て。先輩の本当の気持ちを聞かせて下さい」気丈に振る舞っている美夏だが、目には涙を貯めている。

僕はありのままの言葉を伝えることにした。

「美夏には悪いけど、俺は綾子が好きだ。俺に必要な存在だと思ってる」

「先輩、やっと本当の気持ちを聞かせてくれましたね。実は分かってたんです。付き合い始めてからずっと私を見ていないことに。だからすっきりしました。何でこんな人を好きになったんだろ。ばっかみたい」と夕日に照らされて光る涙がことさら美夏の心情を映し出しているように思えた。

「本当にごめん。好きになろうと頑張ったんだけど・・・」

「先輩、ひどいです。頑張って好きになっても嬉しくないです。本当に好きになるのは自然とその人が好きになると思いますよ。先輩が自然と好きになったのは綾ちゃんでしょ」美夏は涙を流しながら、僕に笑顔を向けていた。続けて「だから、私と別れるんです」と。

僕は美夏の本音を聞きたかった。だから「美夏は今でも俺が好き?」と聞いた。聞いてから少しの間の後に、黒い影が僕の頬を通り過ぎ、バチンという音と痛みが同時に走った。

「先輩を好きに決まってるじゃないですか。でも私は先輩の為に別れるんです。そのことが何で分からないんですか」と言い、その場から走り去った。

僕はその場に取り残され、美夏の走り去る姿を見つめていた。走り去る姿を見るのはこれで2回目だった。僕は家に帰り部屋で美夏が言っていたことを考えていた。晩御飯が用意してあったがとても食べる気にならずそのまま部屋に直行した。綾子への想いを考えているとドアをノックして「勇紀、いるか?」とじいちゃんはドアを開けて顔を出した。

「どうした?晩飯食わずに。ばあさんが心配してるぞ」

「ばあちゃんには悪いけど、とても食べられる気になれないよ」

じいちゃんは何かを察したのか「勇紀、ちょっと外に出るか?30分後ぐらいに出てこい。船で待ってるからな」僕は何も言わず頷いた。

じいちゃんは部屋を出た。じいちゃんの察しの良さに僕は笑う。30分後に部屋を出た。

玄関で靴を履いていると「勇ちゃん、どこか具合が悪いの?」と心配顔で僕を見た。ばあちゃんに「大丈夫。ちょっとね」とだけ言って玄関を出た。船に向かう道すがら月が薄曇りの中にある光景が僕の心を映し出しているそんな感じの夜空だった。

船に着く、岸壁でじいちゃんが待っていた。そして僕を見るなり「勇紀、どうした?彼女と別れたか」うな垂れながら小さく頷く。

「そうか。フラれたか。美夏ちゃん可愛かったのにな」

僕は痛む胸を押さえ話始めた。「じいちゃん、人を好きになるって難しいね。俺さ、綾子が雄也と付き合うことになった時、正直嫌だった。でも友情も大切。どっちを天秤にかけていいか分からなかったんだ。美夏と付き合ってた時も、綾子のことが頭から離れなかった。それを見透かされたのかな。美夏にフラれた」じいちゃんは小さく頷くと笑顔を向け昔話を始めた。「勇紀、じいちゃんもな、同じ経験をしてるんだぞ。ばあさんとは幼馴染で一度付き合った。でもな、わしの浮気性が仇になって、ばあさんと別れた。それからわしは、色なん女の人と付き合った。だが、いつでもばあさんの存在が頭にあった。別れてから2年後にばあさんが結婚することになった。親友の那珂とだ。わしは焦ったな。いつもそばで支えてくれた人が他の人と結婚する。他の人と結婚することはないと考えていたからな。それから、ばあさんに結婚を前提として付き合って欲しいと言った。ばあさんはやっと本当の気持ちが聞けたと言って泣いたよ。そのあと、那珂を呼び出して結婚を取りやめて欲しいと頼んだよ。殴られようが罵られようが土下座した。那珂は土下座している俺の胸ぐらを掴んでな、拳で決着だと言ったよ。俺たちは殴り合った。倒れるまで殴り合って、那珂が一言“絶対に幸せにしろ”とだけ言って、許してくれた。わしはな、那珂には大きな恩がある。そして、那珂に大きな傷を負わせた。だから、ばあさんを幸せにしなきゃならん責任があるんだ。お前も美夏ちゃんに傷を負わせた。そのことは肝に銘じておけ。綾ちゃんと雄也にちゃんと想いを伝えろ」じいちゃんの言葉は僕の心に深く突き刺さった。生暖かい空気を胸いっぱいに吸って「綾子、好きだ。俺にはお前が必要だ。付き合ってくれ」言葉が響き闇に消える。じいちゃんは横で2回頷き、小さい頃と変わらず僕の頭を撫でた。

「もう遅いから、早く帰ってやらんとばあさんが心配するな。お前先に行ってばあさんを安心させてやれ。飯もちゃんと食うんだぞ」じいちゃんは満面の笑みを浮かべ僕を見送った。物陰から船に向かってくる人がいる。「おじさん」その声は涙交じり。

「綾ちゃん、聞いたか?勇紀も綾ちゃんが好きだな」やさしい笑顔に綾子は涙がとめどなく溢れ、頷いた。「良かったな、綾ちゃん。綾ちゃんも覚悟を決めなさい」綾子は顔を上げしっかりと深くお辞儀をした。

 次の日に綾子は雄也に別れを告げた。雄也はどうして別れるのか尋ねたが綾子は「ごめんなさい」を言うばかりだった。雄也は僕を呼び出し綾子にフラれた原因を探ろうとした。雄也は薄磯海岸に僕を呼び出した。江名から薄磯海岸までは自転車で向かう。太陽が肌を突き刺す暑さに僕は嫌になる。薄磯海岸に着くと雄也はすでに着いていた。僕は自転車を降り、雄也に声を掛けた。ベンチに腰かけ、雄也は泣きそうな顔をしながら「勇紀、俺、綾子にフラれた。俺何かしたか?」震える声でいつになく弱気な雄也を見ている。不憫に思うが僕は言わなくてはけない。原因は僕にあると。灼ける太陽の中、僕は意を決した。

「雄也、落ち着いて聞いて欲しんだけど、お前がフラれた原因は俺だ」

「はっ、何言ってんの?お前が原因って?」

「最初に謝っておく。ごめん」頭を下げた。

「お前が綾子に告白した現場を見ていた。その日の夜に綾子に呼び出されてお前と付き合うかどうか悩んでいることを相談された。俺はお前との友情を取って綾子に付き合うことを薦めた。これでいいと思ったんだけど・・・」僕はうな垂れた。

「思ったんだけど、なんだよ」

僕は、暑さを忘れる程の胸の痛みが血液と共に全身を巡った。痛い。話が出来る状態ではない。だが、話さなければ・・・。震える声で「お前と綾子が付き合い始めて、俺は美夏と付き合い始めた。綾子を忘れるために。でも美夏と付き合っている間も綾子のことが頭から離れなかった。お前と綾子が付き合っていることが正直嫌だった。綾子も同じ気持ちだ」

無言で聞いていた雄也が「だからか、付き合ってから手も繋がない。キスもしない。デートの時もいつも違和感があったのはこれか・・・」悲しく笑う。さらに痛みが全身を駆ける。続けて「デートの時にいつもうつむいて、俺の斜め後ろを歩いている。つまらないのかと聞くとそんなことはないというけど・・・」雄也の頬に一筋の涙が通った。

「勇紀、お前は綾子が好きなんだな」

「ああ、俺は綾子が好きだ」雄也は急に立つとうな垂れている僕の前に立ち胸ぐらを掴んだ。「一発殴らせろ。それで許す」そう言うとトンと拳を頬に置いた。僕は雄也を見た。雄也は掴んだ胸ぐらを離し「俺って、ピエロだよな。綾子の気持ちに気が付かず、はしゃぎまくって。バカだな。俺」雄也が笑う。その目には涙が溢れていた。

「ごめん。俺の曖昧な態度が、お前を傷つけた。本当にごめん」再度、頭を下げた。

「もう、一縷の望みも無いんだな。だったら、綾子の口からちゃんとした理由を聞きたい」雄也の言葉に顔を上げた僕に「もう、告白はしたのか?」と尋ねた。

「まだだけど・・・」困惑した僕の顔を見て笑った。

「そんなんだから、周りが苦労すんだな。綾ちゃんもかわいそうだ」と笑った。「とにかく、綾ちゃんと話させてくれ」僕は頷くと携帯電話を取り出し、綾子に今いる場所に来るように伝え、「10分もすれば来る」と雄也に告げた。「お前もここに居ろ。ここでちゃんと見届けろ」これ以上何を見届けることがあるのか、胸の痛みがさらに全身を駆け巡った。

10分後に綾子が俺たちの前に現れた。綾子は息を切らせて急に雄也に向かって頭を下げた。「ごめんなさい。私の曖昧な態度で雄也君を傷つけました」

「綾ちゃん。もういいよ。勇紀が謝ってくれたし・・・。でも最後に聞きたい。綾ちゃんは勇紀が好きなの?」綾子は顔を上げると僕を見て、言い切った。

「私は、勇くんが好き」

「ははは。やっぱりか。これでさっぱりした。勇紀、好きな人が言い切ったんだからお前も覚悟を決めろ。じゃあな」と言い、雄也は自転車に跨り、力強く漕ぎ出した。まるで何もかも忘れるように。綾子と僕はその後ろ姿を見ていた。雄也の背中が見えなくなるまで。僕は自分の気持ちに嘘をついていたことを謝り「綾子さん、好きです。付き合って下さい」と告白した。綾子は涙を流し笑顔で「はい」と言った。それで、僕たちは付き合い始めた。

「おーい、先輩。大丈夫ですか?」美夏が目の前で手を振っている。僕はハッとした。

「まったく、あんたはそうなんだから。考えて言いなさいよ」と雄也の頭を叩く。

「痛ってぇなぁ。分かってるよ。無神経だったって。勇紀、すまん」雄也は謝った。

「大丈夫だよ。雄也と美夏ちゃんを傷つけた事実は変わらないから。それにじいちゃんが俺に言ったんだ。雄也と美夏ちゃんを傷つけた分、それを背負って俺と綾子は幸せになる義務があるんだ。俺たちはじいちゃんが言った言葉を守ってる」

「それなら、もう俺たちは傷ついてない。だから、これからは義務ではなくて本当の幸せを掴みとれ」と雄也と美夏は僕の顔を見た。美夏と雄也に謝った日から全身を駆け巡っていた胸の痛みが一か所に集まり、身体から抜けるのを感じた。

「ありがとう」と頭を下げた。すると携帯電話が鳴った。携帯電話の画面を見ると母からだった。「もしもし、どうしたの?」

「綾ちゃんの陣痛が始まったわよ。陣痛間隔が短くなってるから、早く来なさい」

「おお、分かった。今から行く」僕は慌てて立ち上がった。

「どうした?」雄也と美夏はビックリしている。

「綾子が産気づいた。陣痛間隔も短くなっているらしいから、今から病院に行くわ」

「じゃ、私、飲んでないから車出してあげる。あんたお金払っておいて」

「おぉ、分かった。急げ、勇紀」雄也と美夏の行動は早かった。

美夏の車で共立病院に急いで向かった。病院の夜間救急受付から入り、産婦人科がある階に向かった。その階に着き、長い廊下を走る。分娩室の前に両親とばあちゃんが長椅子に腰かけていた。

「綾子は?」僕は不安な顔をして聞いた。

「ちょうど今、分娩室に入ったわ」と母は言った。拓也の時もそうだったが、1分が1時間、10時間に感じる程に長く長く感じる。何時間経ったのだろう。すでに2日間以上経ったような感覚に襲われていた時、分娩室の扉が開いた。元気な泣き声が分娩室内から聞こえる。看護師が小さな小さな女の子を抱いて僕たちの前に現れた。母とばあちゃんは子供の顔を覗いている。外に目を移すと夜が明け、外が明るくなっている。街中にある病院。住宅やビルの隙間から突き抜ける青空が見えていた。僕は心の中で「じいちゃん、新しい命が誕生したよ。また、ここから新しい荒波が始まるね」そう問いかけた。

「ほら、勇ちゃん。お父さんなんだから、最初に抱かないと」と僕を引っ張った。

看護師から生まれたばかりの赤ちゃんを抱く。その熱に僕はこの子は生きていると感じた。母は早く綾子の所に行くように言った。綾子は大きな事を成し遂げた充実感と疲労が分かる。「お疲れ様。ありがとう」その一言に綾子は笑顔になった。


4章

 赤ちゃんと綾子が家に戻って来たのは、1週間後だった。

 子供の名前は綾子と相談し、突き抜けた青空から海をイメージして七海(なつみ)と名付けた。生まれた時の体重が2980g。身長50cm。七海は元気に泣き、よくおっぱいも飲み、よく寝た。出来る限り育児には協力した。だが、母とばあちゃんには敵わない。

 七海が生まれてから1ヶ月がたった。5月25日、この日はじいちゃんの命日。家族揃って、じいちゃんの墓参りに行くのは恒例行事。今年は、まだ生まれたばかりの七海も墓参りに来ている。墓に花と線香を供え拝む。七海はじいちゃんを知らない。

「お墓参りも終わったし、勇紀、綾ちゃんを連れてどこかに行ってきなさい」母が急に言い出した。「そうね、たまには綾ちゃんの息抜きが必要ね」とばあちゃんが同調した。綾子は「いいですか?」と尋ねた。母とばあちゃんは笑顔で頷く。抱いている七海を母に渡し、拓也はばあちゃんが手を繋いだ。綾子は「よろしくお願いします」と頭を下げた。お寺の境内で別れ、僕たちは久しぶりのデートを楽しんだ。夕方、永崎海岸に車を止め水平線を二人で見つめていた。綾子の横顔を見ると夕焼けに照らされて美しく輝いている。綾子が僕を見て「何見てるの?」と問いかけた。「綾子と結婚してよかったなと思って」照れながら言った。綾子は笑い「相変わらず、本心隠すね。横顔がきれいならそう言えばいいじゃない」続けて「私も勇くんと結婚して良かったよ。幸せだし。でも、おじいちゃんのおかげだよね」と言った。

「そうだな、綾子と結婚出来たのは、じいちゃんのおかげだな」僕たちは笑った。

「七海はおじいちゃん知らないんだよね。守ってくれるかな」

「じいちゃんはそんなに薄情じゃないよ。絶対守ってくれる」自信を持って言った。

「そうだね。おじいちゃんは守ってくれるよね」綾子は僕の手を握った。

僕はふと綾子に「拓也は覚えているのかな。じいちゃんのこと」と尋ねた。

「どうだろう。2歳ぐらいの時だから。でも、拓也が生まれた時は大喜びだったね」

「あれほど、喜ぶとは思わなかったけど」じいちゃんが大喜びした顔が今でも思い浮かぶ。

「おじいちゃんが病気になった時、勇くんは本当に落ち込んだね」と綾子は突然言った。

「俺さ、じいちゃんが亡くなる2日前に見舞いに行ったとき・・・」

 海上にも冷たい風の中に春の暖かさの多く感じられる季節。操船しているじいちゃんが僕と操船を変わり、船の左舷側で吐いた。じいちゃんはその道35年のベテランで船酔いはまずしない。吐いたじいちゃんはその場に倒れこんだ。那珂さんが「おい、大丈夫か」と言って、じいちゃんを起こした。じいちゃんの口には血がついていた。そう、血を吐いたじいちゃんは貧血で倒れたのだ。それを察した那珂さんが「勇紀、戻れ。網を巻き上げろ」ドラムを回し、網を巻き上げた。那珂さんと共にオッターボードを上げ、全速力で港に戻った。那珂さんが機転を利かせて携帯でばあちゃんに電話していた。港に戻るとばあちゃんと綾子、そして、救急車が待っていた。ばあちゃんは青ざめている。救急隊員が船に乗り込み、じいちゃんの容態を確認した。救急隊員はじいちゃんを船から揚げ、救急車に乗せ、ばあちゃんも乗り救急車は走り去った。

「勇紀、ここは俺がやっておくから、お前も早く行け」綾子が運転する車に乗り込み救急車の後を追った。救急車は湯本にある常磐病院に向かう。救急センター入り口に救急車が止まった。じいちゃんは運び出され、医師と看護師がストレッチャーごと処置室へと運ぶ。

僕たちが乗った車は一般駐車場に止め、急いで救急センターへ向かった。ばあちゃんはあまりのことに動揺を隠せないでいる。これ程動揺したばあちゃんを初めて見た。携帯が鳴る。表に出て携帯を見ると那珂さんからだった。

「おう、勇紀か?明の具合はどうだ。病院は?」ちょっと涙声になっている那珂さんは矢継ぎ早に聞いてくる。

「那珂さん。落ち着いて。じいちゃんは処置を受けていて、まだ検査の結果は分からないよ。常磐病院だよ」

僕はこんな時こそじいちゃんの言っていたことを実践する時だと思った。じいちゃんは常々、「周りが慌てている時ほど自分が冷静になれ」と言った。じいちゃんが船に乗り始めた頃、同じ船に乗っていた仲間を失った。あの時一人でも冷静な人がいたらといつも悔やんでいた。じいちゃんは船に乗っている時は鬼と思うほど厳しい。陸に上がればいつもと変わらないじいちゃんになる。船に乗っている時は周囲を見渡し僕たちの位置をチェック。そして、危険な位置にいると怒号が飛ぶ。そんな冷静なじいちゃんがいるからこそ、僕たちは安全に事故もなく漁が出来る。

涙が自然と溜まる。じいちゃんは大丈夫だと自分に言い聞かせながら目を覆う。

処置室からじいちゃんがストレッチャーに乗って出てきた。ばあちゃんはストレッチャーに駆け寄り「あんた、あんた」と声を掛ける。そのままばあちゃんと綾子は病室に向かった。僕はその場に残り、医者から1週間程、検査入院をすることを言われた。看護師が入院手続きをして欲しいと言われた。ばあちゃんを連れて入院手続きをするよう綾子に言い僕は病室のベッドの横でじいちゃんの顔を見た。いつもうたた寝している顔と同じ。ばあちゃんがと綾子が戻ってきた。

「おじいちゃんは1週間の検査入院だって。私もしっかりしなきゃだめね。勇ちゃん、ありがとうね。おじいちゃん言っていたもんね。周りが慌てている時こそ、冷静になるってこと」ばあちゃんはいつものばあちゃんに戻っていた。

「まずは、入院する為の着替えともろもろの準備。今日は目を覚まさないみたいだから、明日病院に来る」そう言うと「今日は帰りましょう」と病室を出た。僕たちは車に乗り込み家へと帰った。家に帰るとばあちゃんは早速入院の支度をしていた。

「綾ちゃん、入院の支度があるから夕飯の支度をお願いしていいかしら?」

「分かりました」綾子は早速台所に立ち夕飯の支度を始めた。

「勇くん、たっくんをお願いね」

「分かった。拓也、お風呂に入ろうか?」拓也は大きく頷く。僕は拓也とお風呂に入り、風呂から上がった。拓也と遊んでいるとじいちゃんたちの寝室に拓也は足を向けた。拓也の後を追い襖の手前で捕まえた。襖の奥からすすり泣く声が聞こえた。そういえば、ばあちゃんとじいちゃんはいつも一緒だった。だから、1週間も家にじいちゃんがいない事が辛いのかもしれない。僕がそんなことを思って襖の前に立っていると「勇くん、ご飯だよ。おばあちゃんもご飯ですよ」ばあちゃんは寝室から出てきた。ばあちゃんは少し目が赤くなっていた。

「綾ちゃん、ありがとうね。綾ちゃんが夕飯の支度をしたから、入院の準備もすぐに終わったわ」ばあちゃんは笑顔だった。綾子も笑顔で返す。

 次の日、漁に出た。那珂さんと共に。那珂さんは口数が多い方ではないが今日はさらに少ない。那珂さんが魚探を見て漁場を選定し網を入れる。それから1時間程曳いて網を上げる。それを3回ほど繰り返すが、那珂さんはその間一言も話さなかった。港に戻った時、那珂さんが「あいつがいないと漁は味気ない」とつぶやいた。那珂さんは寂しそうな顔をしながら、漁の後片付けをしている。無言で片付けをしている那珂さんに「那珂さん、今からじいちゃんの病院に行くから、一緒に行く?」そう問いかけた。

「勇紀、俺はな、病院には行かん。あいつが船に戻って来ると信じてる」

「1週間の入院だよ。すぐ帰って来るって」と那珂さんの肩に手を置いた。

「そうだな。勇紀はここが終わったら、明の見舞いに行け」身を翻しエンジンルームへと降りて行った。仕事を終えた僕は常磐病院へと足を運んだ。循環器内科病棟の4人部屋で右の窓際だった。じいちゃんは入院している先でも大声で笑っていた。

「じいちゃん。大丈夫?」僕は笑っているじいちゃんに声を掛けた。

「勇紀、今日の漁はどうだった」じいちゃんは相変わらず漁のことを気にしている。

「那珂さんが魚探を見て、網を入れるところを見極めたから大丈夫だったよ。じいちゃんはどうなの?」

「検査入院だとよ。病院の飯は不味いな。まったくここに居たら身体が鈍るな」と笑う。

「この際だから、隅々まで調べてもらいなさい」ばあちゃんはじいちゃんに言う。その光景が微笑ましい。僕が笑っていると「勇紀、拓也はどうした?」ひ孫にすごく甘い曾じいちゃんの顔が出た。

「拓也は綾子が連れてくるから待ってて。今売店でジュース買ってもらってる」と拓也が「じいじ、来たよ」とベッドに駆け寄ってきた。じいちゃんの顔は溶けてなくなるのではないかというようなとろけ方をした。“まったく孫よりひ孫に甘いとは・・・”と内心思う。

「拓也、よく来たな。じいじは会えなくて悲しいぞ」拓也をベッドの脇に座らせ、拓也を抱きしめている。拓也を構っていると主治医の先生が顔を見せた。

「中村さん。お加減はいかがですか?」

「先生よ。検査を3日ぐらいで終わらせることは出来ないか。早く漁に戻りてぇな」

「中村さん。今は休む時期ですよ」と柔和な顔で言った。続けて「検査が終われば退院できますから」とも言った。それから3日後、僕とばあちゃん、綾子の3人が呼ばれた。

カンファレンス室に入り椅子に座ると、沈痛な面持ちで主治医はこう切り出した。

「大変言いにくいのですが、中村さんのご主人は胃がんです。スキルス性と言って進行が早いがんです。すでにリンパ節と肝臓、腎臓に転移しています。手術は大変困難です。化学療法したいと考えています」ばあちゃんは顔が真っ青になった。主治医は続けて「余命は半年です」その言葉にばあちゃんの頬には涙が絶えず流れ出した。綾子はばあちゃんの身体を支え背中を擦っている。僕も頭が真っ白になった。じいちゃんには伝えるのか、ばあちゃんに聞きたい。ばあちゃんは涙の顔のまま「主人には伝えないで下さい」と頭を下げた。主治医は「分かりました」とだけ言って席を立った。僕たちはロビーでばあちゃんが落ち着くのを待った。その間ばあちゃんは何度も何度も「あんたごめん、あんたごめん」と言っていた。ようやく落ち着いた頃、ばあちゃんは僕に「明日来るからと言って、たっくんを連れてきて」ばあちゃんは泣いた顔では病気が重いことを察することになるからとばあちゃんのじいちゃんに対する配慮だ。僕は病室に行き、明日また来ること、ばあちゃんが買い物に行くから先に車に行ったことを告げ、拓也を連れて病室を出た。じいちゃんの顔を見るとまだ元気と思える。でも、思い当たる節もあったのも確かだ。最近はお酒は依然と変わらないが、食べる量が減ったかもしれない。そこまで気が付かなかった僕の責任でもある。涙が出るのを我慢し車まで戻った。ばあちゃんは拓也が乗ってくると同時に抱きしめた。「ばあば、どうしたの?」拓也は不思議な顔をしている。

「ごめんね。たっくんの顔を見たら抱きしめたくなっちゃった」ばあちゃんはやさしい顔をした。拓也は満面の笑みを浮かべた。

次の日の朝、ばあちゃんは笑っていた。僕が漁に行くとき那珂さんにじいちゃんの病気と余命を伝えるように言った。僕は静かに頷いた。漁港に向かうが気が重い。那珂さんにどう伝えたらいいのか。船に着くと既に那珂さんが出航の準備をしている。

「那珂さん、おはよう」那珂さんに声を掛ける。

「おう、今日は午後から風が強くなるから早めに帰って来るぞ。早く乗れ準備して出発するぞ」キビキビと動いている。僕は船に乗りエンジンを掛けた。船がゆっくりと岸壁から離れ内湾の外へと出ると少し波が立っている。僕は言うタイミングを見計らっていたが漁が終わり港に入る寸前に「那珂さん、じいちゃんなんだけどさ、がんなんだ。病気の進行が早くて、余命半年なんだって」そう言った。

那珂さんは一言「そうか」とだけ言い、水平線の遠くを見た。船を接岸して片付けをしていると、「勇紀、明は知ってるのか?」僕は首を横に振る。また、片付けを始めた那珂さんは「あの、バカ」と一言つぶやいた。片付けが終わり陸に上がった時、那珂さんが車の中で涙を流していた。那珂さんの涙は夕日に反射していた。

4日後に退院したじいちゃんにばあちゃんが言った。

「あんた、胃潰瘍が大きくてまた船で血を吐くと大変だから暫くは病院に入院してちゃんと治してもらうのよ」

「胃潰瘍が大きい?まったく胃が痛くないぞ。本当に大きいのか?」

「そうよ。また那珂さんや勇ちゃんに迷惑かけてもしようがないでしょ?」

その言葉にじいちゃんは「そうか。それもそうだな」とあっさり承諾した。じいちゃんは1つだけ条件を出した。入院するまでの2日間は船に乗せてくれと言った。ばあちゃんはそれの条件を承諾した。那珂さんはじいちゃんを見ると「死んでなかったか」と照れ隠しの悪態を付いた。じいちゃんは船に乗るとイキイキする。ニコニコして嬉しそうだ。

 船が走る風が冬の痛さから春の柔らかな風に変わる晴天の日、じいちゃんは常磐病院に入院した。じいちゃんは元気でとても病気とは思えなかった。たちまちじいちゃんは病院の人気者になった。そして看護師はじいちゃんと話し込むことも多々あった。主治医も他の先生も・・・。じいちゃんは大人気だった。

 治療が進むが、じいちゃんは日に日に弱っていくことが目に見えて分かった。窓の外を見て、ばあちゃんに船に乗りたいなとつぶやくことが多くなった。主治医に僕は1日だけでいいから、外出させて欲しいことを願い出た。外出は半日だけならと許可をもらった。

3日後の午前中に船に乗る。病室でふさぎ込んでいるじいちゃんに「じいちゃん、船に乗ろうよ」と僕は明るく言った。じいちゃんの顔は満面の笑みを浮かべた。看護師、主治医に船に乗れることをまるで小学生が遠足に行くかのように話し、常にニコニコしていた。3日後の午前中にじいちゃんは船に乗った。じいちゃんはしばらく船に揺られていると、那珂さんを呼び出し「那珂、勇紀のことよろしくな。4年たってやっと使い物になったが、お前のようなベテランがいないと俺が心配だ」と。

那珂さんは「バカ言うな。お前が勇紀に教えるんだよ」と軽く背中を叩いた。叩いた背中が弱々しくなっていたことに那珂さんは愕然とした。

船が港に着くと、じいちゃんは目を瞑って寝ていた。

 船に乗ってから1ヶ月。じいちゃんは起きるのも辛く、1日中寝ていることも多くなった。その日は雨が肌にまとわりつく。病室を訪れるとじいちゃんはベッドを起こして外を見ていた。

「じいちゃん、具合はどう?」

「勇紀か。具合はまあまあかな」元気のない声で答えた。僕はベッドの脇にいるばあちゃんの傍に行った。

「ばあさん。勇紀と二人にしてくれないか」ばあちゃんは椅子から立つと病室を出た。

「勇紀、正剛君と漁師をしろ。お前は那珂がいなくても十分やっていける」

「どうしたんだよ。じいちゃん。じいちゃんにはまだまだ、教えて欲しいことたくさんあるんだから」と慌ててじいちゃんに言い返した。

「勇紀、お前はもう一人前だ。俺がいなくても大丈夫だ。正剛君には言ったが、船はお前に継承する。正剛君はあと少しで定年だ。お前が正剛君の師匠になって漁を仕切れ。那珂も年だしな」と力なく笑う。

「何言ってんのじいちゃん。じいちゃんがおやじの師匠になればいいだろ」

「お前は小さい頃から自信がないな。わしはな、お前が一人前になったと思ったから正剛君と漁をして、お前が師匠になれと言っているんだぞ」小さく咳をして窓の外を見た。

「勇紀、お前にいろいろ偉そうなことを言ったが、俺が一番臆病なんだよ。でもな、ばあさんを嫁にもらって、ばあさんを幸せにするために一生懸命に漁をした。お前も綾ちゃんと拓也を必ず幸せにするんだ。例え、辛いことがあっても綾ちゃんと拓也は守るんだ。勇紀に一度言ったことがあったかな。俺の信条でな“荒波を越えて行け、その先に必ず凪がある”なんてかっこういいことを言ったか?」と小さく照れ笑いをした。続けて「勇紀も分かるけど、波は荒れている日もあれば凪の日もある。それと一緒でな人生も同じなんだよ。こんな言葉を知ってるか?止まない雨はない」僕は頷く。

「止まない雨はない。この言葉は雨はいつか止むことを言っている。それと同じで波も荒れている時、凪の時もある。荒波を越えた先に必ず凪がある。勇紀覚えておけ、“荒波を越えて行け、その先に必ず凪がある”辛い時はこの言葉を思い出せ。あといつも言っている海は生き物だぞ」と言ってじいちゃんは拳を作って僕の目の前に出した。僕の拳をじいちゃんの拳に合わせる。じいちゃんはニコッと笑い、頭に手を置き撫でた。

 その2日後、じいちゃんはこの世を去った。じいちゃんの死に顔はまるで寝ているようで今にも起きそうだった。ばあちゃんは泣いていた。顔を擦り、胸にしがみついて泣いた。

亡骸を自宅に移し、ばあちゃんは片時もじいちゃんの傍を離れず、ずっと泣いていた。

 通夜、告別式にはじいちゃんの人柄が分かるようにたくさんの人が弔問に訪れた。たくさんの人がじいちゃんがこの世を去ったことを悼んでくれ、僕はその人たちに感謝した。

 49日を終え、お寺から出て来たとき、那珂さんが一通の手紙を僕に渡した。

「那珂さん。これは?」

「明からだ。あいつがもし死んだときに渡してくれと言われた」

「那珂さん、病院行ったの?」那珂さんはじいちゃんの入院中は一度も見舞いに行かなかったはず。

「あいつの老けた顔を見ようと思ってな」那珂さんはじいちゃんの変わり果てた姿に絶句したのだろうと僕は思う。


勇紀へ

今、勇紀がこれを読んでいるということは、俺はこの世にいないだろう。

俺の人生は最高に楽しかった。ばあさんと結婚した。娘も結婚し息子が出来、孫、ひ孫までみることが出来た。勇紀が漁師になりたいと言ってくれた時は本当に嬉しかった。

綾ちゃんが雄也と付き合った時の、勇紀の落ち込みようはすごかったことを今でも鮮明に覚えている。勇紀、綾ちゃんを絶対に離すなよ。お前にとって大切な人だからな。

勇紀、昨日話した言葉を覚えているか。あの言葉を絶対に忘れるな。そして、最後に自分の人生が楽しかったと思えるように生きろ。最後に勇紀への宿題だ。お前が死んであの世に来たとき、お前の人生が楽しかったか聞くからな。覚悟しろ。

                                じいちゃんより


手紙を読んで、僕は涙を流すどころかなぜか爆笑した。じいちゃんらしい不器用な手紙に笑いが込み上げてきたのだ。ばあちゃん、母、おやじ、綾子にみんなに手紙を見せた。

やはり、爆笑した。笑いと共に49日の法要は終わった。


 「そうなんだ。おじいちゃんがそんなことを言ったんだ」綾子は水平線を見て言った。続けて「おじいちゃんとの約束を守るために私を幸せにしてね」と笑う。

僕は大きく頷き「必ず幸せにする。そしてじいちゃんに楽しい人生だったって報告する」僕たちは顔を見合わせて笑った。

僕たちは夕日に照らされながら、家に向かった。拓也と七海が待っている家に。

じいちゃんが亡くなったから、おやじが都職員を定年退職。妹も成人したので江名に引越して、3世帯住宅に家をリフォーム。みんな仲良く暮らしている。そしておやじは約束通り漁師になった。じいちゃんが見たら大喜びだっただろう。

 じいちゃんがいなくなってから6年。今でも最後に言われた言葉は忘れていない。漁に出るときにいつも思う。人生は波と一緒だと。そして、じいちゃんが言った言葉は的確に人生を言い表していると。じいちゃんのこの言葉は死ぬまで僕の胸に刻まれ、人生の道標となっている。そして、その言葉と共に僕は今日も生きていく。

“荒波を越えて行け。その先に必ず凪がある”という言葉と共に。

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アラナミ 桜輪英和 @sakurawahidekazu

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