氷の滝

シキ

第1話 氷の滝

 エアコンが動き出す音で目が覚める。目覚まし時計が鳴るちょうど三十分前に動作し始めるエアコンの音が、気になり出したのは今年に入ってからだ。俺は隣で寝ている佳織を起こさないように細心の注意を払い、寝室を抜け出した。

 居間のエアコンも同じ時間に入るように設定されているので、足の指先はすぐにフローリングの温度を吸い取り冷たくなる。寒さに耐えながらテレビをつけると、キャスターが少しはしゃいだ様子で空から降る雪を実況していた。


「雪か」


 あまり期待もせずにカーテンの隙間を覗くが、空はまだ星が見えるほど暗く、雪が降る様子もない。テレビで夜には関西でも雪を降らすことを伝えているが、暖冬が続いているせいか、年が明けても一向に降る気配は見せなかった。今日もどうせ降りはしないだろう、俺は空を見上げるのを止め、洗面台に向かった。


「おはよー」

「ほら、時間ないんだから、さっさと顔洗ってきなさい」

「ふぁーい」


 欠伸をしながら居間に現れた佳奈の後姿を見送る。高校生にもなってぼさぼさの髪を少しも気にしないのは、父親として大変心配ではあるが、注意するとすぐに機嫌が悪くなるので気にしないふりだ。


「まだ休みぼけしてるんじゃないか」

「大丈夫。毎回同じ時間に出て行かなくちゃ気がすまない子だから。誰かさんに似てね。はい、お弁当できたよ」

「じゃあ、行ってくる」


 少し派手な、赤い花柄のハンカチに包まれたお弁当を受け取り、七時三十分ちょうどに俺は家を出た。出た瞬間に冷たい風が吹き抜ける、マフラーをしてくればよかったと思ったが、一度出てしまって戻るのも面倒だと思い、諦めて駅まで向かった。

 会社までは一時間程度であるが、今日はやけに傘を持っている人が目に付く。鞄の中の折畳み傘を手で確認する、まぁ雪であれば必要ないが。俺は手帳を取り出し、今日の予定を確認した。まだ年明けたばかりだから、そんなに急な仕事もないのだが、それはそれで詰まらないものだ。


 昼休みを伝える音と共に、席を引く音が大きくなる。俺が指導していた工藤も、お昼の時間を無駄にしたくなさそうにそわそわし始めたので、話の途中だがまた午後からと言うことにした。工藤は昼は外に買いに行くからあまり時間もないのだろう。

 俺は鞄から弁当箱を取り出して蓋を開ける。卵焼きにから揚げ、いつもとあまり変わらないメニューである、今頃佳奈も高校で同じ弁当を食べているはずだが、佳奈はこの内容をどう思っているのか、なんとなく気になった。


「あっ、雪降ってますよ。雪」


 窓際の川瀬さんがはしゃいだ様子で、残っているメンバーに伝えた。確かに外はちらちらと白いものが降ってきている。


「へぇー、今年初めてじゃない? どうりで寒いと思った」

「私、絶対に降らないと思ってたから、傘持ってきてないですよー」

「まぁ雨よりは濡れなさそうでいいんじゃない?」


 様々な感想を横目にお弁当を平らげる。来る途中のコンビニで買った缶コーヒーは鞄の中に入っていただけなのに、まだ少し冷たかった。


「そういえば、水瀬さんは東北の出身じゃなかったでしたっけ?」


 いつの間にか帰ってきていた工藤が、隣の席でサンドイッチを開けていた。


「あぁ、雪が降っても大して珍しくもない……と言いたいところだが、もうしばらく戻ってないから、俺も久しぶりに見るな」

「そうなんですか? 年末戻ったりしなかったんですね」

「遠いし、娘も面倒臭がってな」

「へぇ、でも寒いのは平気そうですよね。テレビでも人の二倍三倍の高さの壁ができているの見ますし」


 会社に入った当初は、東北から来ました、と自己紹介すれば必ず工藤と同じことを言われたものだ。当初は寒さなんて慣れだ、と胸を張って言っていたが最近はすっかりこちらの気候に慣れてしまい、寒いものは寒い。


「それより積らなければいいですけどね。電車が遅れると帰るのも遅くなりますし」

「どうせそんなに積らんよ。すぐに溶ける」

「そうですよねー」


 しかしその話とは裏腹に、雪は午後もずっと、静かに降りしきっていた。


 会社を出ると、一面が真っ白になっていた。目の前の道路は渋滞し、歩く人々は傘をさして足元を注視しゆっくりと歩く。これは帰るのに時間がかかりそうだ。


「うわー、凄い降っちゃいましたね。こんな真っ白なの久しぶりっすよ」


 一緒に会社を出た工藤が、俺の気持ちとは逆に楽しそうに道へと踏み出す。やはり雪をあまり見ない人から見ると、この光景は楽しいものなのだろう。


「気をつけて帰れよー」

「はい、先輩もお疲れ様でしたー」


 はしゃいでいる工藤を尻目に、俺も駅へと歩きだした。途中で缶コーヒーを自動販売機で買う。手の中でじんわりと暖かいそれは、子供の頃にカイロをよく揉んでいたことを彷彿とさせた。

 電車はやはり遅れていているようで、ホームには会社帰りの人がごった返していた。人の隙間を縫うようにして改札を抜ける。肩に薄く積った雪を払っているうちにちょうどよく電車が来た。どうやらいつも乗るのとは一本早い電車が遅れてきたらしい。

 詰め込まれるように電車に乗り、すぐに出発する。窓からは一面の雪景色が見え、なんとなく故郷を思い返させた。


「ただいま」


 一応そう言うが、居間からはテレビの音しか聞こえない。上着をタンスに掛け、居間へ入ると佳織が台所に立っていた。


「お帰り、お皿並べといてくれる? 大きい底が深いやつね」

「佳奈はもう帰ってるのか」

「二階にいると思う」


 俺は軽く手を洗ってから、食器棚から三枚の皿を取り出す。


「しかし凄い降ったわね、買い物に行くのも大変だったわ。帰りはどうだった?」

「駅が凄い混んでた」

「でしょうね。佳奈も帰ってくる途中に転んだみたいで、上着汚したってうるさかったわ。佳奈ー! ご飯ー!」


 フライパンを手にしたまま、佳織は廊下に向かって叫ぶ。二階から小さく返事が聞こえた。

 今日のメインはマーボー豆腐で、皿になみなみと盛り付けられた。二階から降りてきた佳奈は開口一番に辛くないか佳織に聞いていたが、辛いのが好きな佳織に聞くだけムダだ。


「辛い……、けど美味しい」

「美味しいなら問題ないでしょ」

「辛くなかったらもっと美味しく食べれるのに」


 俺も口に入れるが、やはり少し辛めだ。それだけにご飯が進む。


「あっ、そういえばお父さん宛に手紙来てたよ」

「佳奈、ご飯中は立ち歩かない」


 そんな注意も聞こえてないように、電話機の横にあった手紙を渡される。会社かなにかの関係かと思ったが、そこに書いてある名前に少々驚いた。


「母さんからか」

「えっ、お義母さんから?」


佳織も思わず食べる手を止め、その差出人名を覗き込む。その達筆は紛れもない母さんのものであった。


「何かあったのかしら、でも本当に急なら電話するし……大抵は歩さんに頼むと思うんだけど」


 歩こと俺の弟は、生まれた町で嫁をもらい、母さんとも近い場所で暮らしている。ここ数年帰らなかったのは、歩から近況を聞いている安心感のせいでもあった。

 俺は糊でベタベタに貼り付けられた封を破りながら開けると、中からは一枚の写真がでてきた。


「うわー、凄いわね」


 横で見ていた佳織も感嘆を上げる。それは確かに見事な写真であった。そして、この写真には俺自身見覚えがあり、忘れていた思い出を掘り起こさせた。

 俺がまだ子供の時の話だ。親父が休日に凄い場所を教えてもらった! と言って車に俺と歩を放り込み、二時間ほど車を走らせ、その上寒い中三十分ほど歩かされ、俺達はその凄い場所やらへと辿り着いた。そこは渓流で、普段なら細い滝がいくつも流れているような場所なのだろうが、その滝のほとんどが凍ってしまい、光り輝いていた。水が流れる途中で急に時間だけを止めたようなその風景に俺らは子供ながら感動し、言葉が上手く出なかった。まぁ親父がせっかちな性格だから、五分もしないうちにまた車に乗せられ帰ったのだが。

 そして母さんから送られてきた写真は、その当時とまったく変わらない凍った滝の写真だ。母さんもその滝の前で嬉しそうに笑っている。そういえば子供の時に一度連れて行ってもらった時には、母はちょうど出払っていて、来れなかったのだ。その頃は興奮した俺達の話を笑って聞いていただけだったと思うが、母さんも羨ましかったんだろうか。


「ほんとだ、こんな場所あるんだ。一度は見てみたいなー」


 いつのまにか、佳織と反対方向から佳奈が覗き込んでいた。そしてその写真を見ているうちに俺の口は勝手に動いていた。


「行くか」

「えっ?」


 小さくもらしたその言葉を、佳織は聞こえなかったふりをしたのが分かったが、それ以上に、俺の意思は強くなっていた。


「すぐ三連休があるだろう、それを利用して少し帰ってみないか」

「えーっと……見たいっていうのは確かなんだけど」

「飛行機だって予約しなきゃいけないのよ?」

「そんなもの今から予約すればいいだろう。しばらく俺の実家には帰ってないし、よし、行くぞ! 今から予約する!」


 立ち上がりパソコンに向かった俺を、二人は様々な理由を持って阻止しようとするが、そんなもの頭に入らない。二人の不満な顔が、その滝を目の前にしてどう変わるのか、俺は今から楽しみで仕方がなかった。

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氷の滝 シキ @kouki0siki53

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