ある老人の手記

 日本には、土地ごとにそれぞれ神がいるとされている。その土地を守護するための神であり、そのはじまりは、神ではなく、神になった英雄であったり、妖怪であったり、ただのひとであったりする。

 どんな土地にも神はいるとされているが、土地の穢れにより、強大な力を持つ神もいる。そのひとつとして例としてあげられるのが、K市深泥池に祀られているツキヨヒメである。かなり発生の新しい土地神である。私はその発生をこの目で見た。

 人に対してとても友好的な神であり、月のような金の髪を伸ばした少女の姿をしている。池のほとりで佇んでいる姿や、深泥神社にてひとを眺める姿を、もしかしたら、私以外の人間も目にすることができるかもしれない。

 ツキヨヒメは、神社へ訪れる人間へ、人間関係の改善や新しい良い出会い、芸術の加護を与える。

 彼女は永遠を生き、永遠に深泥池という土地を護るために存在している。そこから引き剥がすことなど、誰にもできはしないのだ。そう、誰にも、何にも。彼女の意志には逆らえない。それが、神である。


 私はまだ、諦めたわけではない。この命が燃え尽きる日まで、私はツキヨヒメを神でなくする方法を探している。私が死んでもなお、息子が、娘が探すだろう。それが、我々一族の罪であり、義務であると思っている。彼女の想いを知っているが、それが彼女の全てを犠牲にしたものであることを、我々は忘れてはならない。

 私は、我々の一族は、ツキヨヒメと天の使いに人間として生きられるようにしてもらったことを忘れてはならない。呪われた宿命から解き放たれて、無限の苦しみから解き放たれたことを忘れてはならない。ただのひととして生きられる喜びと幸せを忘れてはならない。

 永遠は、永遠にはならないだろう。いつか、途切れる時がくる。ツキヨヒメはいつだって気丈で、にこやかにいつも笑っている。人だったころよりも、たくさん笑い、たくさん話し、たくさん歌い、たくさん遊ぶ。

 あれから六十年経つのに、ツキヨヒメはまだ十六歳のままだ。いや、十六歳に戻れたというのが、正しいのかもしれない。六十年前の歌をいつまでも歌っている。

 深泥池にうつる月と、跳ねる鯉の音は心地よく、ツキヨヒメは夜の水面に立って踊る。辺りには色とりどりの花が咲き、彼女の美しさを、彼女がここにいる美しさを象徴しているようだった。

 いつまでも、彼女は、そうしているつもりでいる。そうできると信じている。一度、そうすることができたのだから。

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