アイちゃんはひとりぼっち

 さあ、見てて。あたしの背負ったもの、あたしが傷つけたもの、あたしが殺したもの。そして、あたしをひとりぼっちにした全てのものへ。

「こんな、こんな話じゃなかった。僕は、おじいちゃんから話を聞いたけど、それは、僕とツォハルが……」

「シヅル。もうぼくは、きみのツォハルでは、いられないよ。さあ、落ち着いて。深呼吸しよう、いつもみたいにね。こんな時はどうしたらいいか、愛されたきみならわかるはずだ」

「……わかる、けど。でもそれが正解だって思えない。なら、僕が……」

「ごらん。シヅル、きみにあの覚悟があるかい? 愛したものをその手で殺してきた顔だ。そして、いま、きみへの憎しみで溢れている。きみはそのままでいい。そこにいるだけで、価値があるのだからね」

 なんでも、してくるがいい。あたしは勝てるから。相手が御使いだろうと、どうせそれは、人の想いが作った幻想にすぎない。そんなものは、今のあたしに勝てるはずがない。あたしの作った勝利への道に、おまえは立ちふさがることができない。あたしの背後の炎の竜は、おまえの穢れた水なんかで消すことはできない。

 あたしは短刀を構えている。悪魔を殺した短刀で、これから殺すときめたものへ刃を向けている。


 立ち上がるツォハルの横を、毒の風が抜けていった。黒い雨の乗った、毒の風。冷や汗も、吐き気も、めまいもする。ツォハルだけが、涼しい顔で、黒い翼をはためかせていた。

 そうだ、シヅル。短すぎる瞬間、人間でいられたことを感謝するといい。そして、あたしに恐怖するといい。何もできない、勇気のない、おびえるだけの臆病なシヅル。そして、あたしたちの母、祖父、先祖たち。恐れしか知らずに蛇を野放しにし、その尾と牙を落とさなかった。

 ツォハルはゆっくりとあたしに近づいて、あたしの細い首に手を伸ばした。あたしは震える手で、まだ短刀を握れている。弱い少女の持つものなんて、何も怖くないのだ。そのまま地面に倒れこんで、ずいと、鼻と鼻がぶつかるくらいまでに顔が近づく。見開いたアイスブルーのだったはずのひとみが、赤く赤く輝いている。悪魔の瞳をしていた。呪い殺してやると、その色が言っている。

 ぐっと首に力が入ったところで、意識が一瞬途絶えた。もう少し、もう少し持ちこたえろ。あたしは、やれる。

「橘!」

 消えかけた意識を取り戻したのは、ああ、ハスキーなあの声。黒い雨の中、息を切らしながら。アキラだ。今更、何もいらない。あたしにはもう何もいらない。助けも。この世の全て、ひとも、大地も、空も海も。

 あたしは生き物をよく知っている。どこから死んでいくのか、あたしはたくさんの死を見てきたからだ。

「なんて……、ことだ、こんな……」

 かき消されそうな声といのち、まばたきを一度もしない赤いひとみと睨み合っている。お互いの意地をかけて、あたしも、目の乾きなんて何も思わない。ツォハルにはあたしの刃が見えているはずだ。それでも、引かない。


 最後の息を吐こう。もう肺に、なにものこっちゃいない。その吐息を勢いに変えて。あたしはその刃で、あたしの左胸を狙う。正確に、絶対に外さない。痛みを感じないくらい、集中したひとつきは、あたしの心の臓を確実に貫き、そして引き抜いた。

 そのとき、ツォハルはあたしの首から手を離し、素早く飛び退いた。あたしは立ち上がる。あたしの血が、冷えていく。

 雨は上がり、風は止まる。まるで何もなかったかのように。短刀から手を離した。地に落ちる。血は止まっている。絶対に逃しやしないさ。飛び退いたツォハルを追って、手を伸ばした。今のあたしは、か弱い少女じゃないのだから。

 ツォハルの髪を掴み、無理やり顔を向けさせる。

「は、は……」

 抵抗するそぶりもない。ぽかんと開いた口へ、あたしの炎で、その喉から腹の中まで燃やし尽くしてやろうじゃないか。冷たい炎をツォハルの体に流し込んでやると、その美しかった顔は、身体は、ごうごうと燃え上がり、濡れた地面へ倒れこむ。白い肌は黒く、黒く染め上がった翼は灰になって崩れてゆく。

「ツォハル!」

 シヅルはその炎に躊躇なく近づいていく。すぐに炎は消えて、焼け焦げたひとつの体がある。翼は崩れたものの、なんとかそうだったであろう形を想像することはできるが、もう飛ぶことはないだろう。

「ツォハル。ツォハル。本当のこと、全部僕に教えてよ……」

「聞こえない……」

「え……?」

「シヅル……。何か言っているのは、わかるんだ。でも、ぼくにはもうそれがわからない……」

 あたしには、全て聞こえている。

「きみの声を聞くことすら、ぼくは、奪われるのだね……」

 黒い手で、シヅルの頬を触る。シヅルはその手を握る。握れない。崩れて、ぱらぱらと落ちていく。

「主よ、わたしは……、間違ってはいなかったはずです……。わたしの選択は、すべてのものへの愛に違いなかったのです……、たとえ、一度あなたのそばを離れたとしても……、わたしは……」

 あたしは、まだ何も思わない。


 池のふちに立って、深呼吸をした。よどんだ水から、濁りが消えていく。いつかツォハルがいった、いい香りというのは、これなのだな。思い切り吸い込む、死のにおい。本当に、花のような香りがする。すっかり透き通った池の水に足を浸してみる。冷たいけれど、心地はいい。空気も澄んで、木々のおだやかな揺れる音と、虫の声がよく聞こえた。

 隣に、アキラが腰を下ろして、そしてあたしの顔をじっと見つめた。

「瞳が赤い。泣いたみたいに」

「あたし、泣いてなんかない。これからも、泣くことない」

「泣くこと以外の、これからのことは?」

 そんなこと、聞かれるとは思っていなかった。アキラも、ひとではないからなのかもしれない。少しだけ考えてから、アキラにだけ聞こえるようにする。

「ここにいるよ。ずっと。泣かないけど、ちょっと寂しいかも、しれないね」

 あたしは、もう、感情を持ってもよかった。うん、少しじゃなくて、とても寂しいよ。足元に広がる水は、底が見えそうにはないけれど、でもずっとずっと遠くまで続いていることはわかる。

 おじいちゃんと、ツォハルの間で座り込んだシヅルへ、目をやった。シヅルは、目をあわせない。

「僕は、どうすれば、いいのかな……」

「もう自分で決められるのに。もう何も縛るものなんてないのに。あたしとツォハルが全部、取り払ったの。自分で、自由に生きればいい」

「でも、そんなの、つらすぎる。そこまでして、僕に……」

「それが、ツォハルのやりたかったことだよ。つらくても、くるしくても、人らしく生きてほしいって」

 あたしは不器用だ。これしか、思いつかなかった。コンスタンティアと一緒にいられて、シヅルも助けたい。どちらも、達成されたといえばされているし、されてないといえばされてない。

 ゆっくりと、水が跳ねる音がするたびに、ずっと昔の本や、演劇の記憶が蘇ってくる。一緒に見た絵画、聴いたピアノの旋律、教会の鐘の音。石をけずるリズム、横に並んで痩けた頬をつついてみたりして、一緒に眠った。初めてのキスはバニラの味がしていたの。

 くらりとする油絵の具のにおいは、少し頭がまいってくるよね。どうすればいいのか、何もわからなくなって、固まった筆先をじっと見ていた上から、そっと触れてみる。とても楽しい記憶の断片が、ゆらゆら流れ込んでくるのがわかるよ。あたしは、ずっと忘れないからね。

 すごく、すごくいい気分だ。空は雲ひとつないし、あたしの周りには花が咲く。これまでのどんよりとした深泥池がうそみたいに、まるで童話のプロローグの中にいるみたいにすべての音と、見えるものが綺麗で仕方がなかった。

 そう、ずっと、ずっと、綺麗なままでいるよ。あなたみたいに、呪われても綺麗なままでいるよ。あなたの記憶を背負って、ここでずっとあたしはいるから。


 コンスタンティア。あたしの親友で、だいすきな、いとしいひと。いつか全てが嫌になったとき、二人で生きようと言ってくれて、どうすればいいのか教えてくれたとき、あなたはあたしのために、自分の身を捨ててもいいと思っていたんでしょう。

 あなたに答えられてよかった。あたしは全てを憎み、それからあなたを愛したい。まだひんやりとした体温は覚えてる。

「アイさん。僕、絶対助けるよ」

 シヅルはあたしの手に触れる。あたしの手先はもう、緑色をして、爪は赤い。

「どうして? そんなことしないでいいのに。あたしは好きでこうしたんだ」

「じゃあ、僕が、アイさんがここにいなくてよくなるように、すればいいんだね。ツォハルは……、いや、ガブリエルは、僕ならできるって、そう思ってたはずなんだ。もう、遅いけど、何もできなかったから、僕は……。せめて、これから……」

「あたしは好きでここにいることに、したんだよ」


 すっかり透き通った深泥池に飛び込んだ。何もない、水と泡だけの、原始の海のような、母親の腹の中にいたころを思い出させるような場所。そんなこと覚えてないはずなのに、あたしの記憶は書き加えられていく。たくさんのことばと知識、人の想いで作られた体に書き加えられていく。

 さよなら。

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