アイちゃんと黒い雨の竜
そのまま、そこから逃げ出す。誰になんと言われても、どう騒がれても、もうそれどころじゃない。短刀を手に、アパートへ戻る間だけでも、たくさんの魔の声がした。あたしのそばを、たくさんの悪魔が狙っているのだ。その誘う声に乗らないのは、あたしの決意がしっかりあるからだ。正解はわかっている。
最期のお願いは聞かないし、あたしは最期にしたかったこともしない。血塗れのセーラー服のまま、短刀を手にして、時が動くのをひたすら待つだけだ。
家に着いて数時間経ったころ、鍵があく音がした。そろりと玄関を見てみると、おじいちゃんが靴を脱いでいるところだった。部屋の隅でいたあたしに、ゆっくりと近付いてきたおじいちゃん。あたしの目線にあわせるように、しゃがんで、あたしの頭をなでた。
「……アイ。これでいいのか?」
「そうだよ。あたしが決めたの」
大好きなおじいちゃん。優しいおじいちゃん。あたしを助けてくれたおじいちゃん。見えていたんだろうね、これからどうなるか、見えていたのなら、悲しいし、恐ろしかったろうな。すこしだけの間、あたしは思い出すだけだ。思い出したことを感情にしない。あたしは、悪魔を殺してきたからだ。
「シヅルに、話は、もうしてある」
「なら、やりやすいね……」
しゃがんでいるあたしに、おじいちゃんは手を差し伸べて、立たせてくれる。その優しさを塗り替えやすいように。あたしはすぐに手を離して、あたしの足で立った。あたしはもう、ひとりぼっちだ。
あたしは、今まで、ひとりぼっちのひとたちと二人でいたけれど。これからのあたしはひとりぼっちでいることを選んだから。
「シヅルを待たせてある。これから、池に行く」
「わかったよ」
おじいちゃんにも見えたはずだ。おじいちゃんもそうなのだから。あたしの背中の炎の蛇が。そして、おじいちゃんにもいたのだ。炎でなく、水の蛇が。自らの尾を噛み、輪になった蛇。死と再生、終わりがない、ずっとずっと続いてきた蛇の呪いを、あたしは自らの尾を噛み砕いて断ち切ろうとする。これですこしでも、変われば良い。
池まで行く間の、会話はなかった。
深泥池は、林の中にあり、そして相変わらず淀んでいやなにおいがする。その林のずっと奥に、ひっそりと建てられた古い小屋があった。あたしは、ここまで奥にきたことがない。事実を隠すべく、しかし必要だから建てられたもの。その前にシヅル、そしてツォハルがいた。
「……アイさん。どうして、そんなことを……」
答えなかった。おじいちゃんも、それに対して、何も言わなかった。
ツォハルの纏っていた光の色が少し変わると、おじいちゃんははっとした。ツォハルの存在、をおじいちゃんはうっすらと知ってはいたみたいだけれど。
「長かったね……。やあ、どうも。おじいさま。ぼくはシヅルのツォハル。よろしく」
おじいちゃんは、わからなかったみたいだ。おじいちゃんが驚くのをはじめて見たかもしれない。ただすぐに、落ち着いた様子を取り戻す。
「おじいさま、いますぐあの竜を解き放ってほしいんだ。あれはもう、限界だろう。この場で何か考える余地もないと思うのだけど」
おじいちゃんは黙ったままだった。様子を伺ってるみたいだった。おじいちゃんには、もう未来が見えないみたいだ。
「……となれば、ぼくにも手があってね」
ツォハルが小屋を乱暴に開けると、そこには、あの、手足のない哀れなメルヴィルがいた。痛めつけられたのか、それとも水の外にいるのが辛いのか、ぐったりと倒れているのを、ツォハルはメルヴィルの長い髪を掴んで引きずってくる。
「そうしていただけなければ、ぼくは今この竜を殺すよ。元々は強い悪魔だけど、もうこうなっちゃあ、ぼくの手で小突くくらいでも死んでしまうだろう」
「つ、ツォハル。やめてよ。わからないよ。僕にはなにも……、おじいちゃんを困らせるようなことしないでよ……」
シヅルを睨みつけるツォハル。
「うるさいな。わからないなら、黙ってろよ……」
その言葉に、シヅルは顔を青くして、地面にへたり込んだ。身体を縮こませて、震えて、ツォハルを見上げる。ツォハルはシヅルを見ない。
「メルヴィルを解放すれば、どうなるのか、わかっているのか」
おじいちゃんの問いに、ツォハルは、さっき見せたような歪んだ笑みを見せた。ツォハルは、天使ではなく、御使いだ。
「もちろんさ。この池に閉じ込められたあらゆる魔が飛び出してくる。流行り病、災害、ひとの悪意が。それは世界の混乱に繋がって、人々は絶望し、憎しみあい、死に果てる。この世界は人の支配から逃れられる」
そう、そう聞いていた。メルヴィルの話したことだ。
「お前の目的は、それなのか?」
「いいや。それは過程だね。ぼくはこの、人の生きる世界が好きだ。人の世界を救いたいんだよ! そして、達成されることをおじいさまに話す意味もない!」
ツォハルの筋書きとやらは、それなのか。メルヴィルは、ツォハルは御使いだから、きっと池に堕ちないだろうと言った。御使いは人の下ではなく、神の下にいるからだ。
「さあ、おじいさま。どうしてくれようかな……?」
林に響く笑い声。確信の喜び。怯えるシヅル。ツォハル、いったいこの御使いは何を考えて……。
「……ごめん、セイくん。おれの力が足りなかった。今更解放してくれなんて、いわないよ。殺してくれ。もう、おれはセイくんを縛り付けたくないし、このまま生きてるのもいやだ……」
メルヴィルの震える声に、おじいちゃんは拳を強く握った。そしてツォハルの足元へ、メルヴィルの元へ。ツォハルは笑みを隠せないままだ。
「メルヴィル、お前の望むようにしよう」
「……セイくん。きっといまのおれは、セイくんでも簡単に殺せてしまう」
そしておじいちゃんは、メルヴィルの首に手をかける。さっき、あたしが悪魔にしたように。輪になった水の竜の、尻尾を引きちぎる。四肢のない、わずかに肘まで伸びたそれを天に向かって伸ばした。
「ありがとう。だいすきだ。おれは、長く生きたけど、セイくんといられた時間が一番楽しくて、嬉しくて幸せだったよ。だから、これでいい……」
「ああ、わかっている……」
すぐに水でできていた体は土に流れていって、溶けて消えていってしまう。そこには、ピンクのちいさな宝石と、紺色の、かすかな骨だけが残っていた。
すると、空がぐんと暗くなり、黒い雲が集まってくる。そしてむせ返りそうな死のにおいが辺りを包み込んでいく。ツォハルは歓喜の声を上げる。
御使いは、悪魔より、おそろしい。
「ツォハル、ツォハル、僕らはもう、友達じゃないの……?」
シヅルがツォハルのブーツにしがみつくようにした。ツォハルは、さっきとはうってかわって、いつもの優しい顔つきになる。ひとに救いの手を差し伸べる、御使いの顔だった。青いポンチョのリボンが、大きな翼になった。
「ああ。友達じゃない。でも、ずっと大切な関係になるんだ」
ツォハルは、メルヴィルの亡骸を拾い上げようとするおじいちゃんをちらりと見て、それからうずくまっていたシヅルを抱きしめた。
「友達でも、家族でも、恋人でもない。それよりもっと素晴らしいものだよ。ぼくのいとしい、シヅル」
雨が降る。黒い雨が降る。雷が鳴って、背後に潜む黒い池の水が騒ぎ出すのを感じている。悲鳴がする。水底のすべての不幸のもとが、あたしに、おじいちゃんに、シヅルに。この血が流れるものたちに、聞かせるために。
あたしはこの時を、待っていたんだ。
「さあ、このまま死んでいく世界を見に行こう。ぼくら二人で。今この瞬間にも、新しい死が生まれているよ。しっかりとふたつのまなこに焼き付けるんだ。そしてぼくらがしなければいけないことは、わかるよね?」
おじいちゃんは、メルヴィルの屍を抱いて、黒い雨を浴びて黙っていた。おじいちゃんとメルヴィルが守ってきたものは、簡単に壊されてしまった。長い時間、この呪われた地に縛り付けられながら、二人で守ってきたもの。心と身を削って生きてきたこと。長い時間を過ごしたひとを、その手で。
おじいちゃんには、もう、本当に、何も見えない。過去も、未来も、そして今も。おじいちゃんはそのまま、黒い雨に押し潰されるみたいに、メルヴィルを抱いて、動かなくなってしまった。ただでさえ弱り切った体だった。
「お、おじいちゃん。やだ、嘘でしょう!? どうして!? ツォハル! 僕は……」
あたしは心を動かなさないと、決めている。シヅルはおじいちゃんのところまで這い寄って、おじいちゃんの背を揺するが、ぴくりともしない。池の呪い、放たれた魔。あたしはまだ、二本の足で立てている。
青かった翼を黒い雨で染め上げて、金の髪も黒く黒くなっていく。
「アイくん、ぼくはきみに勝負を挑むよ。きみの決意が上か、ぼくの愛が上か。でも……、ツォハルとしての目的は、きっと達成されるだろう」
そうだ。あたしもツォハルも、そのためにここにいるからだ。あたしは黒くなった御使いを見る。
「ぼくは捨て身の覚悟でここにいるし、きみもそうだね?」
あたりの死のにおいは、吐きそうなくらい。シヅルは、ただただ、怯えて、動けない。あたしたちがすることがわかれども、行動することはできない。
「ぼくの名は……、天使ガブリエル。シヅルの御使いだ。ぼくの起こした呪いの氾濫を、止めてみせてよ」
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