アイちゃんとジャンヌ・ダルク
シヅルと一緒に学校へ行ったけれど、あたしは結局気分が悪くなって、授業には出なかった。保健室で、かすかに入る日光を浴びながら、ベッドのふちに座るコンスタンティアの背中と、緑の髪を見ていた。居心地がよくて、何かが奪われそうで、奪いそうで、危うい場所。これから、あたしはどうしたい?
どうしたらいいってわかってるんだよね、コンスタンティア。いいや、エステル。うつくしい姿をしたあたしのいとしいひと。あたしはどうしたいのか、いく道を知っているよね、ツォハル。青い翼でくるりと宙を舞う、金の髪をなびかせて、どこまで世界を見ているのだろう。あたしにして欲しいことがあるんでしょう、メルヴィル。手足はなく、はかない。泡のように弱り切っている。そこまで自分の身を削って守りたかったものは、その犠牲に見合ったものだった?
コンスタンティアも、ツォハルも、メルヴィルも、同じなのだ。違うとはいうけど、本質的には全て同じだった。辿っていった先には、人の想いがあるだけなんだ。あたしは、人でいることに嫌気がさしていたけれど、今のあたしは、まだ人でいたかったかもしれないね。
アキラにもらった覚悟の刃をどこに向けるか決められないだけだ。それで、あたしはなにをするのか。迷いを持ってそれを手にしたくはない。
誰かの死と世界の死はつながっていて、それはもうすぐそこに来ている。
「気持ちのいい、午後だわ。こんな日は、ゆったりと二人でお散歩にでも出かけたいわね」
コンスタンティアは、変わらない。あたしが変わるのを、待っている。あたしはそう思っている。変わらないことの優しさがそこにある。
「そうしたら、夜になって、二人でお話しながら眠るの。あしたも、きっと晴れるといいわ。ううん……。雨でも、ラジオをかけて本を読みましょ。二人でいたいわ、アイちゃん……」
「うん……」
「ずっと一緒にいたいわ。どんな形でもいいの。私の気持ちは変わらないわ。アイちゃんの考えることが、手に取るようにわかるまでは、いかないけれど」
ベッドから起き上がると、コンスタンティアはこちらへ体を向けて、そして笑いかける。いつものように。
コンスタンティアは、あたしが変わっても、変わらないでそばにいてくれる。
緑色の、氷の温度の身体に抱きついた。つめたいけど、あたたかい。どこかへ助けを求めたいから。そのどこかは、今のあたしには、ここにしかないから。
「あら、まあ、どうしちゃったの……」
トン、トン、と、あたしの心臓の音をあなたに聴かせたいから。同じ時間をすごしたいから。同じ音を聞いていたいから。あたしは。
「やだよ……、って、今は言ってもいいよね……」
「もちろん。いくらだって」
大きな、人を傷つける手で、あたしを傷つけないように、柔らかく包んでくれる。欲しいものと嫌なものを拒否できない生き方だから。
そうやって、あたしは、コンスタンティアの身体の温度を覚えて、音を覚えて、つくりを覚える。手探りで、でも、確実に。さあ、あたしにまた笑いかけて、隙を見せて。
冷たい頬より、あたたかい唇が好き。あたしの頬は、濡れている。時が止まったように、動かないでいて。あたしはあなたがだいすきなんだもの。
目を瞑って、感覚は減らしていく。感じられるものは少なくとも、深くがいいのは昔から知っているから。あたしの細い首と、コンスタンティアのそれより太い首。お互いに触れると、ほんとうに、あたしはか弱いのだと思う。
「ありがとう……」
「いいのよ。私が、アイちゃんにとって、そうやってしてもらえる存在だってことが、感じられて嬉しいの。ねえ……、いつかは、夢を見てたのよ」
緑の長い髪で世界と分断されている。暗い影の中に、女二人の苦しみと呼吸だけがある世界にあたしはいる。コンスタンティアは、それがひどくうれしいようで、ほんのりと体温を上げていた。
「遠い、ものだと思ってた。でもいつかは、近くまでいけるといいと思ってたから」
薄い胸と、背中がいとおしいって、そういう風に抱き寄せる。傷つける手でされると痛いけれど、あたしはもっと傷つけてきたはずだから、そんな痛みだって心地の良いものに変わっていくよ。それに答えたいから、あたしはそう思える。誰に言われても、邪魔なんて聞こえないくらい向けている。
「私はほんとうに、幸せだわ」
「そうじゃなかったら、いやだよ」
「幸せ」
ずっとそう思っていて、思わせていて。そしてあたしもそうだから。あたしの目が赤くなるときを、コンスタンティアは、わかるはずだよね。
うその言葉でもいいから、そう言っていて。永遠に、そこから止まったままでいればいい。あたしのいく先を、見ててくれるだろうから。
そのままベッドに倒れこんで、あたしたちは息を飲んだ。コンスタンティアの歯はするどく尖って、化物なのだということをひしひしと感じる。
あたしが着こんだセーラー服という鎧は、もうひび割れて使い物にならなかった。もう使いたくなかった。
コンスタンティアの吐いた息を吸う。そこに酸素はない。ふきこまれるのは毒ばかりだ。あたしの身体の中の血管をめぐるものを、同じ体温でいたいから、全て全て冷たくしてほしい。
少し浮いた肋骨をなぞって、あたしの上に座り込む。緑の髪の世界は、少し広がっていった。
コンスタンティアを見上げている。赤くなった目、緑の髪、まゆの上から伸びる、血を冷たく固めた角。緑色の裸は所々に、柔らかい羽毛が生えていて、両腕には飛ぶにはあまりにも頼りなさ過ぎるし、どうせ飛べない無意味な羽が伸びている。腹には大きな穴があいていて、ベッドの向こうの様子がよくみえた。穴の真ん中には、透明な背骨がきらきら光っているのだ。何度も何度も見返して、その姿と名前をあたしの中にすりこんでいきたい。
そして、あたしは、変わらない彼女を見上げる顔を変える。目を見開いて、この小さな手で、弱い力でも、その緑の首へ手を伸ばすんだ。はっ、と、息が止まるのが見えた。ベッドの中だけでは抑えきれない死の心地よさは、そこにいるだろう御使いを笑わせるのに十分のはずだ。
「あなた……、誰……?」
壊れた鎧の奥に、刃は隠しているもので。愛の奥に、キスはあるものだから。悪魔を殺す刃。
「全てが壊れるのを、待っていたんだろう?」
悪魔は動かない、動けない、何もできない。
「そ、そんなこと……。私は、私、どうして……」
「お前に言ってるんじゃあない」
あたしの背後に神の炎が見えるか、氷の悪魔。お前を炙る大きな炎が。ぐるりと円を描く、血のように赤い炎の蛇が見えるか。笑う御使いが見えるか。あたしの決意が見えるか。
「あ、ああ……。そう、そうだったの。私、忘れてた……。ふふ……、だから、私は好きだったんだわ……」
変わらない。まだ、変わらない。そのままでいるといいし、あたしもそう望んでる。
「お前の負けだ」
「ええ……」
「最初から」
「そうよ……」
「わかるか?」
「とても、よく」
そう言い残すと、凍らせていた角がどろどろと溶け出して、赤い血がベッドに染み込んでいく。そしてその爪で、自らの胸を切り裂いた。現れるのは赤い氷の塊で、それがあらわになると、それもまた流れていく。あたしの身体の上で何度も繰り返されるそれを、あたしは見ている。
「っ、あ、アイちゃん、最後、最期に、わたしのお願い……」
「なんだ?」
「き、いて、欲しいの……」
「なぜ?」
それを聞いた顔には絶望が塗りたくられているみたいだった。そのまま、糸が切れたみたいにあたしの上に倒れ込んだ。まだ身体が上下して、痛みと苦しみと、あたしへの想いに苦しんでいるだろうことはわかった。
最期のお願いなんて、聞いてやるほど、あたしの決意が弱いと思ってたのかい、おまえは。赤い血と、緑の髪がどんどん広がっていく。あたしの世界は解放された。
あたしはその背中に、アキラからもらった短刀を突き立てる。ずっと手放さないもの。一度では足りないだろう、二度、三度と、胸を狙って突き立てる。
繰り返していくうちに、動かなくなった。あたしは短刀を置き、両手で悪魔の髪を持ち上げて、その顔を見る。目を瞑っている、氷の冷たさではなく死の冷たさがそこにあった。それを確認すると、すこしほっとして、ゴミを投げ捨てるみたいに乱暴に、あたしの上から頭をどかした。
「これがアイくんの答えか」
すん、と、死体のにおいを嗅ぐ御使い。ツォハルは、あたしの背にいた。どうしても、引き寄せられるものだろう。ツォハルは、シヅルのものだけれど。
「汚いね。それにひどいにおいだ」
「ああ……」
なんとか二人で悪魔の死体を転がして、皮膚の切り裂かれた胸を見た。醜い傷。ツォハルは首を傾けて、そして、にいっと笑う。その歪んだ笑みを、悪魔の死体ではなく、あたしに向けている。
「いい、答えだ。ぼくが何かしたわけでもないのに。やはり、ひとの器では足りないんだね? そのか弱い少女の身体でいることの痛みは、もうこりごりだろう? でも、気持ちはまだひとのままだ」
「まだ、捨て切れないよ、もちろんね」
「そうじゃなければ、ぼくだって怖いよ」
返ってきた血を拭いはしない。新しい罪の意識を感じることはない。胸に開いた大きな穴に人差し指を入れて、それから口にする。水の味がした。
「ぼくの筋書き通りにいくのかな?」
「さあね……」
何度口にしても、ただの水の味がしていた。まずい、にごった、よどんだ水の味がした。さあ、もう行こう。用はない。
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