アイちゃんとキャンディの包み紙
着替えてから、お弁当を作っていた。時間に少し余裕もあるし、お弁当作る約束をしていたから。そう思えば、今日来てもらったのは、よかったかも。卵を割って、といていく。
「学校、楽しみ?」
シヅルからは、予想通り、からっとした明るい返事は返ってこなかった。
「ん、えっと、緊張してるし、怖いな。あんまり、学校ってところにいい思い出がないから。でも、今度こそ馴染めたらいいなとは思ってるよ」
「馴染む必要なんてないよ。そのままでいいよ。せっかく優しいのに」
「……優しくないよ、僕」
「そう?」
無理やりに作る笑顔は、目だけが大人びる。たまに、そんな子どもを見る。町で、テレビで。幼いほどにつらくなる。
「なんていうのかなあ。僕、いやだって言うのが苦手。頼まれたら何でも、受け入れちゃうというか。嫌なことも。拒否されることが、怖いんだ。なんとかいま生きてる場所に拒否されたら、どうやって生きていけばいいんだろう、って。大人なら、そうでもいいんだろうけれど」
痛いほどにわかる。手が止まる。ずんとのしかかる重い記憶に、押しつぶされて動けなくなりそうだから。わからない人たちはこぞって言うんだ、昔のことなんて忘れなさい、意味がないから。前だけ見て歩きなさい。じゃあ、あたしは、全く意味の無い過去を暮らしてきたの? 思い出してはいけないくらいの過去を捨てて生きていけるって思えるほど、辛いことがなかったのならそれはいい話だね。って。笑うしか無い、傷ついたこどもたちは。家という牢獄にとらわれたこどもたちは。
「死んじゃえって言われたら、死んじゃうの、シヅルは」
「え! ……なんだろ。それを拒否したら殺されてるだろうから。人の手で死ぬと、その人に罪がいくよね。でも、さ、僕が僕の意思で勝手に死んだら、誰も悪くはならないよ」
振り向いて、シヅルを見た。カップを両手で持って、ゆったりとした表情をしている。寄り添って背中に優しく触れながら顔をのぞくツォハルに、胸ににぎりこぶしを作って震えるコンスタンティア。
誰かのためにしか生きられないあたしたち。居場所を他人に求めることでしか、存在できない。弱者の世界。
「もう、いやだって言ってもいいんだよって、わかってるだろうけど」
「……そうだね。おじいちゃんは優しいし、僕を大事に思ってくれてるの、よくわかるから。でもその優しい人に嫌だって言葉をぶつけるのが怖いよ。僕の言動で、今の穏やかな暮らしを崩したくないから。本音を出せる相手、は、ツォハルがいるしね」
人ならざる者たちは、何を感じ取ったのだろうか。ツォハルと名前を出した瞬間、ほっとしたように二人とも身体から力を抜いた。ぴりりとした空気。あたしはゆっくり深呼吸して、家の中が何も変わらないことを肌で確認すると、またキッチンに向かった。
「ぼくには、もう、シヅルしかいないからさ。最初は違ったし、今動いている他のぼくは、ぼくがやるべきことをしている。でも、ぼくの本当の気持ち、ぼくが一番安らげて心地のいい場所だとわかっている。天の意思でさえ、人の存在があるからこそ存在するんだから。主の意思の一部であるぼくだって、人がいるからこそ、力を振るうことができる。主の意思は、すなわち、人の意思だ」
「じゃあつまり、ツォハル、きみは……」
「人より上にいるように見える。が、絶望に浸った人間の願いや想いの塊で、ぼくらはもはや、人の創造物でしかない」
小さなはばたき。わざわざあたしの顔を覗き込みにくるツォハル。つややかな、細い金髪は、安っぽい蛍光灯にあてられても美しく輝いている。彫刻家の手でみがきあげられたような、白い柱みたいな首。
「……としたら?」
狭い部屋の中をふわりと浮いて、青い翼をひろげ、くるりと回った。頭を逆さにして、あたしの顔を見てにいーっと歯を見せて笑う。
「おしゃべりだね」
投げ捨てるように言った。主の意思の奴隷になりたくないツォハルが、主の意思の一部であること。ツォハルは何かをやり遂げようとしていて、それは主の意思に反することなのだろう。それがあたしたち、あるいは人にとって、いいことなのか悪いことなのか。ただの人であるあたしが、どうすればいいのか。一体何ができるっていうの、あたしの手は小さい。目で見るよりも、ずっとずっと小さい。
「信じていいのかな……?」
シヅルの声は助けを求めるような声だった、少なくともあたしはそう感じた。かぼそい、震えるような。あたしは油の跳ねる音を一番に聞いている。未来を生きるために、今日を生きてないと、ね。
ツォハルは、答えを投げかけない。水の中に浮いてるみたいに、部屋の中をふわりふわりと漂う。かすかに起きた風が頬をくすぐる。あたしには、わからなかった。でも、全くわからないわけではない。二人の間がどんなやりとりで成立してきたのか。どんなできごとを乗り越えてきたのか。言わなければ、聞かないんだ。
何なのかをきちんと証明だってできない、彼は、彼女らは。いいや、あたしたちだって。誰だって。手のひらを見て、浮かぶ青い血の管を見る。口が赤ければ、血は赤いだろう。きっとここに詰まった血は赤いはずだ。だからと言って、あたしが生き物だと信じられる生き物が暮らしている世界ではないのに。
「これからの生活、と、か、人間関係が、はっきりと怖いんじゃないんだ。いや、怖いけど、ずっと大きな不安は、そうじゃない」
コンロの火を消す。じっとりと空気は湿って沈んでいくみたいだった。沈む水の声がした。水底から、どこまでも深い星の底から。
「難しいこと考えるのは、今はよしたほうがいいわ。せっかく、いろんなことが変わってね、いいほういいほうに向かっていってるところよ。まだ、そんなことを考えても、押しつぶされるだけだから。子供に戻ってもいいのよ……」
コンスタンティアは、逃げ場所を作る。柔らかくてあたたかく、本当は与えられるべきだったものを、かりそめながらも、作ってくれる。今のこの瞬間は逃げてもいい、逃げるべきだ。あたしも水底からの不安を、どうしようもない不安を抱えている。誰もいなければ、暗い部屋でベッドに転がって、ただただ壁を見つめて涙を流す生活をしているはずだった。
前を見ていいことがなかったから、後ろを見ているしかない。進歩がない。ただただ、子供でも大人でもなく、意思のない人形として暗い道を歩いてきただけだ。いきなり足元が明るくなって、とまどうこどもたちのどうしようもない不安を、理解できないわけじゃないと思うけれど。
あたしたちは、不安に浸って思い出すことで、まだ生きていられた経験を感じて安心したいだけなのかもしれない。平坦ではなかった過去は、ある意味生き生きしてて、生命のかがやきがそこにあったのかもしれないね。悪いことばかりではなかったって、これまでのことを正当化したいだけなのかもしれない。この経験は、全く無駄ではなかったことを。犠牲になることで、誰かの役にはすこし立てたって。悲しい傷の舐め方でしかない。
「ありがと……」
としか、言えなかった。コンスタンティアの言う通りにするのはなかなか難しいけれど、コンスタンティアがあたしたちのことを考えてくれたこと、逃げ場所はここにあるんだってはっきり伝えてくれること、それを再認識させてくれたこと、それは感謝しなければならない。
「うん、僕なんか、怖がっても意味ないのにね。なにもまだはじまってないのに……」
「そうだね……」
ああ、ほんとうになにもはじまってない。はじめるまえの下準備だけで、こんなにも時間をかけてる。たんたんと流れていくこの世界は、あたしたちを今日も置いていってしまうのだろう。座り込んでいるだけ進むのはまたつらくなることを、わからないわけではないけれど。
もう決めていることがある。あたしは、過去にならなければならないこと。あたしは、緑の髪を見る。大きくジャンプして、飛んでいけるところまで。遠い記憶の、月の砂漠まで。そこに這う蛇が、あたしを誘っている。あたしの決意を待っていた。あたしは、背中を狙っている。
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