アイちゃんと鏡の中の嘘つき

 早朝、排気ガスの臭いは遠い記憶にある、澄んだ空気、林の中の深泥池。ベランダに椅子を置いて、思いきり吸い込んだ。不便かもしれないけれど、あたしはこの地が好き。あたしの、十年もない記憶で唯一癒された土地だもの。そして、これから、愛する土地が嫌な記憶で塗り替えられないことを祈ることしかできない。そのために考えること、皆が幸せになれるように、犠牲になるのは誰なのか、なるべきなのは誰なのか、それを見極めておじいちゃんはあたしを、と言ったと思うから。

 ぐるぐると渦巻く思考に囚われて眠れなかったから、せっかくだしと思い、日が昇るのを見て、そのままゆったりとコーヒーを飲んでいた。雀と風のやわらかな声は、どんな音楽より癒しを与えるものだと思う。

 コンスタンティアも、隣で、コンスタンティアにとってはとても小さな文庫本をじっと見つめていた。

「今までさ、考えもしやしなかったけど、おまえはさ、文字読めたり、あたしと話できんだな」

 すると、一旦本を閉じて、にぃーっといたずらっぽく笑うコンスタンティア。

「ふふ、私はね、表現することが好き。だからね、言葉は好きなの。私たちは無限に生まれるから、順番にいずれ死んでしまうけれど、それは人間にとっては長い期間なのよ」

「ふうん。じゃ、どんな言葉もわかるのか」

「流石に全てはわからないけれど、どの国にいてもある程度話せる自信はあるわ。そして本を読むの、たくさんの人の記憶が私を人間に近付けさせてくれるから、だから好きよ。一番好きなのは日本語だわ」

「なんで?」

「綺麗なのよ、表現がね、たくさんあるの。大雨が降ってるってシチュエーションでも、たくさんあるでしょう。それにね、一番は、アイちゃんが日本語を話すから……」

「よく言うよ」

「ま、照れてるの?」

 むっと睨みつけると、コンスタンティアはからから笑って、また本を開く。学ぶことは未来に繋がるけれど、コンスタンティアに未来はないのだろう。このまま、ふわふわ人に取り憑いているだけだ。彼女は人間ではないから。

 あたしも、学ぶ必要はない。未来はない。大きく黒い道だけがはっきりと、明かりがともされて、ここを通れと言っている。他の道は細くて、とても通れる気はしないんだ。あたしが苦しむことは全て全て、無意味だった。苦しまなくても良かった。何も無かった。それがある。どうしようもなく、むなしい。

 バタバタとスーツを着た人たちがアパートを出て行く中、こちら側にやってくるもの。うちの学校の学ランが、妙に新しい。

「あ、アイさん!」

 シヅルだ。隣にはツォハルがいて、ふわりと飛び上がったかと思うと、青いポンチョの後ろから伸びていたリボンが翼になり、三階の部屋の、このベランダまで飛んでくる。天の使いには、翼がある。

「や、どう、調子は。どうも気になってね」

 ずいっと顔を近づけるツォハル、ツォハルはよくそうする。それに、コンスタンティアは何も言わない。その無言は怒りではなく、安心であることはお互いにわかっている。

「……体の調子は、まあ、悪くない……」

「女の体はほとんど、不健康なものさ。それなら良かったな。何も変わっちゃいない」

 すん、と、まるで犬みたいに、あたしの匂いをかぐ。死を確かめているのだ、きっと。

「僕、その、今日から学校で! アイさんがしばらく学校来てないっておじいちゃんから聞いて、その、おじいちゃん今すごく忙しいから、僕が大丈夫かなって!」

 シヅルはぶんぶんと両手を振って大きな声でアピールしながら言うけど、そんなことしなくてもわかってるのにって、三人で笑う。

「今から行くの? 早くない?」

「うん! だから、行くなら一緒にどうかなって、あと、その、準備もあるだろうからって! ああ、なんか、ごめんなさい! 前の日に電話しておけばよかったって後悔してる!」

 行きたくなかったけど、こんなの見せられちゃ、行くしかないかな。シヅルは不安だろうし、あたしがついて学校に行くので安心できるなら。

 あたしは不安だけど。怖い。悲しい。辛いけど。あたしは頼れないから、誰も、何にも、頼ったらあたしに対して好意を持ってくれる人に失礼だから、あたしは、あたしは一人で、誰にも支えられず立っていかなきゃいけないし、その上で誰かの背中を支えないといけないから。

「とりあえず、あがってくる?」

「え、いいの?!」

「ずっとそこにいるつもり?」

「そのつもりだった!」

「飲み物くらい出すからさ……」

「じゃあ、えっと、行きます!」

 すぐにかんかんと階段を駆け上がる音。ツォハルはそのままベランダに降り立った。そして、あたしの姿をずいっとみる。くしゃっとした髪、着てて楽だからと、長く着ているよれよれのシャツに、肌寒いからカーディガンと、下はジャージ。

「アイくん、シヅルはいいけど、これからは他の男にそんなことをしないほうがいいな」

 はっと今気づいて、あたしはなんて安心しきっていたんだろうと、顔が熱くなってくる。そんなこと、考えたことなかったし、意識してなかったのに。

「ツォハル、アイちゃんは……」

 コンスタンティアは言いかけて、やめた。あたしは人に嫌われるから、そんなことにはならない。ツォハルはそのまま、ベランダの手すりに腰を下ろし、足を組む。翼をはためかせている。青い翼からはらはらと羽根が落ちて、光になって消えていく。

「うん? わかっているよ。でも、男ってバカなものでね。……いいや、よくないな、人間ってやつはいつだってバカだ。どれだけ同じことを繰り返していくんだろうな。そして、その繰り返されるあやまちにいつまでこの世界は耐えられるか、わかるかい?」

「あなたは何を見ているの?」

 空を見上げるツォハル。雲はない、すっきりとした朝の空。浮かぶ太陽に細めることもないアイスブルーの目。コンスタンティアの問いにツォハルは微笑を浮かべた。

「ああ、全ての信じるものを見ているよ。それがぼくの役目だから。そうすると、まあ、余計なものも、良いことも見える。この世で起きる全てのことをね」

 すっと手すりから降りて、コンスタンティアを見上げる。

「ぼくは、人に思われているような良い奴じゃあないよ。勘違いされてるだけさ。ただ、まあ、完全に悪い奴だって言い切れはしないけど。完璧な存在じゃあないんだ。それに、ぼくは選択するからね。主の意思の奴隷には、なりたくない」

「……あなたみたいな御使いがいるから、私達の存在が許されているのかしら?」

「べつに、許されているわけじゃあ、ないけどもね」

 その人ではないものたちのやりとりを眺めていると、インターホンが鳴ったので急いで廊下をばたばたと走った。そのまま勢いで扉を開ける。

「……あ、アイさん……。ごめんなさい!」

「き、気にしないでって言っても気になるよね。あたしも安心しきってて、さ、ごめん。こっちこそ。ツォハルはもういるから、コーヒーいれるね。どうぞ」

 せめてと思って、カーディガンのボタンをしめた。

「あ、ありがとう。お邪魔します……」

 それもあるけれど、あたしはアキラが同じことをした時、髪の毛を整えたんだった。どう見えていいなんて、そんなおざなりなことないけれど、シヅルはあたしに対してそんな想いを抱いていないとわかるし、性別なんて関係のない友達に、と思っているけれど。やっぱり、シヅルが世間から教えられたことでは、きっと間違いだ。

 いつのまにか食卓に、まるで自分のうちのように座るツォハル。それを、シヅルは笑う。

「ほんとうに、ツォハルはアイさんが好きだね」

「うん? いつも言ってるじゃないか。ぼくの一番は誰かなんて、わかってるくせに?」

「いや、出会ったころと比べたら、ツォハルも柔らかくなったよね。人間のことなんか、嫌いなんだと思ってたし、実際そうだったでしょう。そう言ったら、ツォハルは僕のためだって言うんだろうけど、さ……」

 さっきまでコーヒーを飲んでいたから、すぐに出せる。白いマグに黒いコーヒーを注ぐ。じっと、見てみる黒と白。間違ったことを繰り返す人間と、世界が耐えるというツォハルの言葉が引っかかる。正しい白、間違いの黒。ねえ、それってそこまではっきり違うものなのかな。

 ツォハルは、きっと見えているのだろう。ツォハルの言葉には嘘という後ろめたさを感じないから。これから何が起きて、どれほどの命が消えるのか。窓から見える深い緑の中には、あの気味の悪い池がある。そこから漂う死の匂いたち。

 コーヒーを二人に出して、向かい側に座り、二杯目を淹れた。今の幸せを記憶に焼き付けるために。コンスタンティアはあたしのカップに顔を近づけた。

「いい香りだわ」

 うっとりした表情を見せた。カップを手で覆うと、暖かい。ツォハルとシヅルがコーヒーに口をつけるけれど、あたしはそのまま波打つ黒を見ていた。黒い、黒い。黒い水面にあたしが見える。それが現実に近づく。その足音に、あたしはただずっと怯えている。

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