シヅルくんと神の贈り物

 僕は、日本が安全な国であるということを知っている。戦争もなければ、死に至る流行り病もない。地震は心配だけれど、それは日常ではない。死が、日常に潜んでいない国だと知っている。日常の死は、自らの選択であることも。

 白いシーツがかかっている、まるで病院に置いてあるみたいな質素なベッドの中だけが、僕を安心へ誘ってくれる。やわらかいマットレスに、羽毛ぶとん。いくつもの涙のしみはいつ消えていくのだろう。ベッドの影で、白くないベッドの影の中では何も考えないことにしている。だって、意味がないから。自分の生まれや、身体のつくりを呪っても、嘆いても、よくなることはない。なら、つらくなることは考えないで、汚い大人の手に引かれていくだけだ。それが今の僕にとって、一番楽に生きられるみたいだから。その間、頭の中は真っ白であまり覚えていない。いつもの、安心できる白いシーツを脳に貼り付けている。正しい色は、いつだって白い。

 幼い頃から、不思議な声が聞こえていた。誰なのか、とにかく、男であって、威厳のあるような、そのような声がときたま聞こえる。それはまれにで、いつもは、優しい、男か女かわからない誰かが呼びかけてきている。僕の苦しみを直接解決はできないけれど、それでも、どうにかいい方向へ持っていこうとしてくれる。ただ、色のついたベッドの中ではすべての声が途切れる。いや、僕が拒否しているのか?

 わからないんだ、なにもかも。

 周りから見れば、僕らの三人家族はふつうの家族に見えるだろう。僕から見てもお母さんは美人で足が細くって、エステなんかにもよく行ってるらしく、とても若く見える。お父さんも、きりりとした顔が男前で、毎朝ネクタイをしめる姿は幼い僕の憧れだった。大手の企業に勤めている。僕は都内の進学校に通っていて、成績はいつも学年で五位以内。よく、近所のおばさんに言われたものだった。あんたみたいな息子が居てくれたらいいのにと。僕の身体を見て、本当にそう言えるか試してみたいなんて、思ったりする。

 かりそめの、はりぼての、愛のない家族。日常だった。

 お父さんは忙しく、帰ってくるのはいつも日付の変わる直前だった。家族の金銭管理はお父さんがしている。お父さんが、お母さんに生活費を渡して、後は今後のために貯金しているんだって。僕は日本のトップクラスの大学にだって行けるくらいの成績だったから、そのためにもきっとお金を貯めていてくれてたんだろうな。

 僕のお母さんは、何より、お父さんが大好きだ。そのためにエステに行くし、ヨガだってして、細く綺麗な身体を維持して、高い化粧品を買い漁り、綺麗な服を探して昼間は出かけているみたい。全ては、お父さんに目を向けてもらいたいからだ。

 休みの日だってお父さんは、ノートパソコンとにらめっこしている。お母さんはにこにこして、その様子を、家事をしながら見ている。会話はない。お父さんと、僕にも会話はあまりない。テストがあるたび、今回はどうだったか聞く、それくらい。

 お父さんが、お母さんの容姿を褒めるところを見たことがない。と、いうか、お父さんはお母さんのことを見ていない。きっと今は細くなくても、綺麗でなくても、家事をして僕の面倒を見ていれば、どんなだっていいのだ。だから、どれだけお母さんが綺麗になろうが、そのためのお金がどこから出ているか、知らないのだ。借金でもしてくれてたほうが、良かったのに。どうしてその選択をしたのかは、それは僕の身体を呪うしかないのか、それともそうでなくとも、僕はあの腹から産まれた時に決まっていたことなのか。


 学校から帰ってくると、玄関に見慣れた、嫌な革靴があるのに気づいてしまった。荷物を降ろしに部屋に入ろうとすると、すぐお母さんに捕まってしまう。

「シヅル、おかえり。佐々山さんって、お母さんのお友達がいらっしゃってるから、ご挨拶なさいな」

 そう言って、手を握られて居間に連れられる。食卓テーブルに、お茶を飲んでいる、すこし肥えたおじさんがいた。スーツ姿で、皮のかばんを置いていて、仕事帰りらしい。

「どうも……」

 弱々しく、声をかける。かけなければならない。その男性は、僕を待ちわびていたようで。

「シヅルくん、おかえりなさい。元気かな?」

「まあ、そこそこです……」

 目をそらして、下げていた鞄の紐をギュッと、まるで命綱に見立ててるみたいで、馬鹿らしくなるくらいに、握りしめる。これが、僕の主張できる最大限の抵抗。察してもらえることはないけれど。

「じゃあ、お出かけしてくるから。二時間くらいで帰ってくるからね。シヅル、ちゃんとお勉強見てもらうのよ」

 そう言って、ああ、今日はどこに行くのかな。デパートかな。

「うん、いってらっしゃい。早く帰ってきてね……」

 助けを求めても意味がないもの。でも、かすかに見えるような、親の責任という希望をたまに信じてみることがある。僕は愛されてここに産まれてきたはずだし、この人は自分の腹を痛めて僕を産み、大きくしたのだから。今日も、玄関の向こうから、軽やかなヒールの音が聞こえる。ねえ、そうやって暮らしてるのはとっても楽しいけど、それ以上に苦しいんだろうね、お母さん。

 ヒールの音が消えていくまで、僕は玄関をじっと見ていた。命綱を握って。

「シヅル、シヅルよ、今日は、おまえの運命の日になるであろう。私の運命の息子よ、耐えなさい。さすれば、おまえの元に、救いの手があるだろう」

 はっとした。頭に直接呼びかけてくる、威厳のある男の声。救い。誰が? だれが? こちらから問うことはできない。問うても、答えが返ってきたことがないのに。

「私の使いを」

 はじめてだった、はじめて、頭の中で聞こえる声から、答えがあった。何が起きるのだろう。僕にとっての非日常が、これからあるらしい。この声が間違ったことはない。今日、ぼくは、救われるのだ。

 その精神のやりとりを破ったのは、佐々山さんである。手を握って、脱衣所まで引っ張るのだ。佐々山さんは、お母さんが募集する僕のお客さんだろう。勉強なんて、見てもらったことがない。僕は、基本的にこういったやりとりをするのは好きではない。好きな人がいるかはわからない。 コンプレックスで埋め尽くされた罪の身体に、さらに傷や痛みを上乗せするようなことだもの。そして、それは何度も繰り返されたので、わかっているし、僕は仕方ないと諦めるしかなかった。

 ブレザーについた校章が、きらりと輝く。これをつけていれば、未来の明るい高校生のしるし。頭が良くて、将来は国内トップクラスの大学を狙うのが当たり前のしるし。クラスのみんなは、今は塾にでも行って、また勉強してるのかな。脱衣所の大きな鏡。髪は、女の子のセミロングくらいあって、ふだんは後ろでまとめている。たまに、クラスの女の子がそういったものをプレゼントしてくれることがある。それを解いて、洗面台の隅に置いた。ふわっと、髪が広がる。

 シャツのボタンをしぶしぶと外そうとすると、佐々山さんの大きくでっぷりとした分厚い手が僕の背後からぬっと伸びてきて、僕の代わりに外していく。それを、鏡の前で見ている。醜い顔をしているふたりがいるのに、その背後に光が見えた。

 錯覚か、幻覚か、妄想か、事実か。救いか。ねえ、助けてくれるのなら早くしてよ。

 いつもは心を殺している。精神的自殺。そうすると、僕はまるで天国に行くみたいに、上から僕自身が見えている。他人事。かわいそうだな、こいつは、と、そう思う。それだけで、その数時間の間、身体にいのちはあっても、僕は死んでいる。

 でも、今日は救いに希望を持って、生きていた。生きるあかしの荒々しい呼吸と高鳴る心臓、生きたままこの拷問を受けるのは久しぶりで、つらい。こうやって死ぬことを覚えたのは数年前だ。

 ボタンを佐々山さんがはずす間、僕はベルトに手をかける。着ていたものを全て床に落とすと、また無理やり手を引かれる。水の張られた浴槽が目に入る。揺れている水面、きれいな水。暖かさはなくて、冷たそう。この、星に住むぼくをとりまくものは冷たい。水の星。ああ、はやく死んで、水の中でもがくのをやめたいのに。

 伸びた髪の毛を乱暴に掴まれて、浴槽に押し込まれる。僕は浴槽のふちに手をかけて抵抗するけれど、全身から力が抜けている。抵抗するのは生きているあかし。ごぽごぽという水の音、口を開くと大きな泡が音を立てる、呼吸ができなくなると、頭がぼうっとして、動けなくなる。それが、好きなのである、とても趣味が悪い。そんなことしなくても、僕は抵抗しても逃げられやしないんだ。

 頃合いかと見たのか、髪の毛を引っ張って僕を浴槽から引きずりだした。僕は口の中に入った水を吐き出して、ぐったり座り込んで、ぜーぜーと必死で肺に空気を取り込んだ。目の前がちかちかする。何かの合図でもしてるみたいに、同じ感覚の光。

 そしてまた、僕の震える体に手を伸ばす汚い手。それを、僕は、ぼんやりと見ている。何も失うものはない、汚い体だもの。何をされても、これまでと、もう既に変わらないから。

 僕の体に手が触れた瞬間、ひゅっと風の切る音がして、目の前が赤く染まる。佐々山さんの首が飛んで、浴槽にどぷんと沈んだ。赤く赤く広がる浴槽の水。時間差で、佐々山さんの体が崩れる。振り返ると、光る何かが、大きな刃物、剣のようなもので、佐々山さんの四肢を落としていく。そのたびに、僕の体に血が飛び散る。

 殺される。僕も。逃げる力はない。光る何かを見上げる。金色の髪をゆらゆらウエーブさせて、青い目をした西洋人。青いポンチョに白いパンツ、茶色の長いブーツ。血が飛び散っている。手に持っていた剣から手を離して、じっと僕に近づいた。鼻と鼻がくっつく、それくらいの距離。

「落ち着く香りだ。まるで、ラベンダーの香りのようだね」

 男なのか女なのかわからないけれど、声でわかった。いつも僕に呼びかけてくる一人だ。鉄臭いのに、おかしなことを言う。これが救い?

「おっと、大丈夫かな。落ち着いて。立てるかい?」

 伸ばされた手を握ると、あたたかかった。そのまま力強く引かれて、僕は立ち上がることができた。

「血を洗った方がいいね。汚らしい血だ、こんな生き物が世界を埋め尽くしてるなんて、吐き気がするくらいだよ、ねえ……」

「あなたは誰?」

 呼吸が落ち着いてきて、やっと発することができた。そうすると、声を上げてそれは笑った。

「はは、ごめん。うっかりした。……そうだな、ツォハル、ツォハルって呼んでくれるかい?」

「僕を助けに?」

「ああ、そうだよ。もっと早くに来たかった。ごめんよ。さあ、これからはぼくがシヅル、きみを守るよ。もう大丈夫。怖がることなんてないからね。さ、ここに少し座って、足を上げてくれる?」

 とん、と浴槽のふちを叩いたツォハル。言われた通りにすると、ツォハルはぼくの足にキスをした。

「さて、ぼくの本当の名前を教えてあげる。これは二人の秘密だ。ツォハルって名前は、普段ぼくを呼ぶときに使ってほしい。本当の名前を教えるのは、ずっと一緒で、ずっと守るって証だから、二人の秘密なんだ。覚えておくんだよ、ぼくの名前はね……」

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