バタフライ・ナイフ

@Nash_Keiss

バタフライ・ナイフ

 ヒュンヒュン、スチャ。ヒュワ、スト、カチリ。

 刀身がひらめく。ロックされたグリップの中から勢いよく飛び出し、空を切り、正面を向いたかと思うと上下に振り出す。捻りが加えられ、刀身が三次元的に回転し、反射光をきらめかせる。一瞬停止し、への字に曲がった状態で手の甲に沿う。また逆方向に回転し、その速度は目で追えなくなる。気がつくと切っ先を向けられている。

 ヒュンヒュン、スチャ。ヒュワ、スト、カチリ。


 七峰仁は仕事の先輩だった。僕はとある上場企業に新卒として入社し、ちょっとした研修を経て配属された。大学ではまあまあの個性をもった一人格としてやっていた僕だが、ツープライススーツを着て髪を撫でつけ、部長やら人事部やらに揉まれれば一丁上がり、僕は借りてきた猫のように大人しくなって配属先へ送られた。

 初めてデスクに着いたとき、その隣に七峰が座っていた。色のバラバラなジャケパン、踵の踏まれた革靴、ワックスの付けられた茶髪、ソシャゲーの画面で放置されてるスマートフォン。挨拶すると、ネコ科の獣のように飛び上がり、目にもとまらぬ早さで目前に迫ってきた。

「締まらねえ顔だな」

 七峰は背が低く、眼が吊り上がっていて、左右から値踏みするように僕の顔を見ていたが、上司によると〈仕事のできる男〉らしかった。僕は七峰について仕事を学ぶことになっていた。

「なまっ白い奴だ。首が絞まってんじゃねえのか。ネクタイ緩めろ」

 自分でそうする前に、七峰が首根っこを捕まえて無理矢理緩めた。ついでにシャツの第一ボタンがねじ切られた。僕はその手を止めようとしたが、七峰の手があまりに速かったために捉えることもできず、なされるがままだった。

「よし」

「ゲホッ、ゲホッ」

 僕は咳き込み、首と喉の痛みに身体を曲げた。文句を言おうとしたが、それもままならなった。七峰は目の前の新入社員の様子を全く意に介さず、次の行動に移っていた。

「OJTだ。いくぞ」

 七峰は高らかに取引先の名前を宣言し、鞄を振りまわしながら(明らかに何も入っていなかった)、すばしこい足でオフィスから出ていった。僕は急いでそれを追った。


 七峰は駅に向かうかと思いきや、近くのコーヒーチェーンにさっさと入ってしまった。流れるような速さでブレンドを手にし、一瞬で窓際の二人がけに収まっていた。僕も仕方なく注文し、カップを受け取ってその相席についた。七峰は待っているあいだ、まるでペン回しをするかのようにナイフをひらめかせていた。

「これが何か知ってるか」

「ナイフ?」

「バタフライ・ナイフ。蝶のように予見できない動きで舞うからそう呼ばれる」

 ヒュンヒュン、スチャ。ヒュワ、スト、カチリ。

 七峰は何度もトリックを繰り返した。僕はそれが自分に向かってくるのではないかと恐れた。

「それで、なんなんです? 取引先は?」

「ファーストレッスン。サボリ」

 七峰は平然と言った。

「俺に仕事を教えてもらえと言われたんだろ? じゃあ最初に覚えることはこれだ。俺のサボリ方を学んで身につけろ。本能でサボれ。呼吸するようにサボれ。脊髄反射でサボれ。バレないようにオドオドしてる奴は二流だ。一流は堂々とサボる」

 僕はこれからの会社員生活に激しい不安を感じた。上司は七峰を〈仕事のできる男〉として紹介したが、目の前にいる男がそうであるとはとても思えなかった。七峰は不安げに眉を寄せる僕の顔が面白いらしく、ますます激しくバタフライ・ナイフをひらめかせた。

「それ、刃は付いてるんですか」

「どう思う?」

 七峰は質問を質問で返した。明らかに僕をからかう構えだった。

「職質でひっかかりますよ」

「そんなヘマはしない」


 七峰はしばらく上機嫌でトリックを繰り返していた。何秒も連続して回転させたり、刀身を持って振りまわしたり、空中で手を離してキャッチしたりしていた。そのうち飽きたのか、僕の反応が面白くないのか、刃先を指の腹で撫で始めた。そして内ポケットから二本目を取りだし、僕の手に押しつけた。

「セカンドレッスン。バタフライ・ナイフ」

 僕はナイフを押し戻した。だが七峰は無理矢理握らせた。

「やってみろよ。面白いぞ」

「嫌ですよ。危ないでしょう」

「大丈夫、刃は付いてない。練習用のおもちゃだ。お前にやる。配属祝いにな。やってみろ」

 僕は仕方なくナイフを手に取った。それは冷ややかなステンレス・スチールで作られ、金属製品特有の質量を持ち、肉抜き穴から曲線を描く刃をちらりと見せていた。ロックを解除し、二本のグリップを開いて間に隠された刃を展開した。刃は銀色で、おもちゃとは思えないほど重く尖っていた。七峰はニヤニヤしながらそれを見た。

「ロックのない方を持て。そっちはバイト・ハンドル。刃と向き合ってるから持ってると手が切れる。ロックのない方がセーフ・ハンドル。背と向き合ってるから安全だ。おもちゃとはいえ、細部には拘っておけ」

 七峰は指を立てた。

「トリックを学んでおくと役に立つ。宴会とかでな。やらされるんだろ、一発芸」

 僕は不服ながら肯いた。

「俺も新人の時はこいつ一本で乗り切ったもんだ」

 ヒュンヒュン、スチャ。ヒュワ、スト、カチリ。七峰はニヤニヤ笑いを浮かべた。

「まずは基本だ。クイック・ドロー」

 七峰は刃を収納した状態に戻すと、セーフ・ハンドルを持ってロックを解除し、自重で刀身とバイト・ハンドルを落とした。手にしたセーフ・ハンドルとの角度は九〇度になり、カシメを支点にブラブラしていた。手をしゃくって勢いを付けると、バイト・ハンドルはそのまま三六〇度回転して持ち手に戻り、刀身は一八〇度の所で止まって固定された。

「やってみな」

 僕は不承不承にそれを真似た。バイト・ハンドルが戻ってくるとき、セーフ・ハンドルを握っていた手の甲に当たって跳ね返されてしまった。

「戻ってくるときちゃんと受け取れるように持ち手を切り替えるんだ。親指を逃がすように」

 何度か慎重に繰り返し、七峰に余計な手を出されつつ、ようやく成功した。多少思い切って勢いを利用するのがコツであるようだった。銀色の刀身が正面に向き、僕はナイフを構えた状態になった。僕はその鋭さを持てあました。

「閉め方もある。クイック・クローズ」

 七峰はナイフが開いた状態から、クイック・ドローと似た動きをやってみせた。今度はバイト・ハンドルを持ち、セーフ・ハンドルを三六〇度回転させて持ち手に戻すらしかった。

「手の動かし方は同じ。クイック・ドローのあとクイック・クローズをやれば同じ状態に戻る。連続して何回でもできるわけだ。こんなふうに」

 スチャスチャ、スチャスチャ、スチャスチャ。

「開いて閉じるだけだが、素早くやればこれでも立派なトリックになる。だろ?」

 七峰は自慢げに言った。

「バイト・ハンドルを持っていたら、刀身が収納されるとき怪我をするのでは?」

「だから気をつけるんだよ」

 七峰はニヤニヤ笑いながら言った。

「いいか。ゆっくりやるから見てろ。まず開いた状態からセーフ・ハンドルを落とす」

 セーフ・ハンドルが離れ、刀身とバイト・ハンドルそれぞれから九〇度離れた角度で揺れた。

「さっきと同じように持ち手を切り替え、親指を逃がした状態で勢いよく回転させる」

 セーフ・ハンドルが刀身を巻き込み、上向きに回転して手元に戻った。ナイフは収納された状態になった。

「よし、やってみろ」

 七峰はにっこりと笑い、僕にナイフを構えさせた。その様子は妙に親切そうで、どこか悪寒を感じさせる部分があった。

「このナイフには刃が付いてないんですよね」

 セーフ・ハンドルを落としてぶらぶらさせながら僕は言った。上向きに展開された刀身が照明を反射していた。

「ああ、もちろん」

「そっちのナイフには?」

「俺のには刃が付いてる。お前のはダミー」

 七峰は肩をすくめた。

「早くやれよ。お前がいつまでも刀身を出してるから、コーヒーを飲みに来た客が変な眼で見てるぜ」

 七峰はまるで僕が非常識な行動を取っているかのように言った。見ると、確かにスーツ姿の男たちがチラチラと見ていた。

 僕は深呼吸し、セーフ・ハンドルを振り子のように振った。落ち着いてタイミングを計り、クイック・ドローの時と同じように勢いをつけ、手をしゃくった。だが僕は勢いをつけすぎた。ハンドルは思ったよりも早く回転し、ステンレスの重みが静止を許さなかった。

 親指を避けさせる暇はなかった。セーフ・ハンドルは刀身を背から巻き込み、刃の付いた方を手前にして戻ってきた。親指は刃とバイト・ハンドルの間に挟まれた。銀色の刃はステンレスの重量を伴って襲いかかり、やすやすと皮膚を切り裂き、さらに深く肉まで食い込んだ。

「アアッ!」

 痛みが走った。僕はナイフを取り落とし、腿に落ちてスラックスを切り裂いた。ナイフは床を転がった。親指の付け根から手の甲にかけて赤い線が走り、血が流れ出ていた。傷は骨まで達しているようだった。腿にも濡れた感触があり、どこかに傷ができている感覚があった。

「クソッ、刃が! なにがおもちゃだ! ふざけるな!」

 七峰は声をあげて笑った。テーブルを叩き、上体を前後させて発作のように抱腹絶倒した。この上なく愉快であるようだった。僕は七峰に罵声を浴びせながら、血を止めようと紙ナプキンをかき集めた。その様子が七峰の笑いにさらなる油を注いだ。

 七峰は客たちの視線が集まるのも顧みずに笑い続け、苦しそうに呼吸をしてまた笑った。あまりに長い時間笑い続けるため、僕の怒りは行き場を失い、何度か繰り返した罵声も勢いを失った。

 ようやく呼吸を落ち着け、七峰はニヤニヤ笑いに戻った。僕が血を拭き取った紙ナプキンを手にし、その赤い染みを鼻に近づけ指でこすっていた。血の匂いを楽しんでいるらしかった。

「騙して悪かったな」

 僕は答えなかった。ただ七峰を怒りのこもった眼で睨んだ。血は止まったがスーツが血まみれになっていた。もはや仕事をする気も、七峰の相手をする気も起きなかった。もはや社会的なものなど何もかも意味を失っていた。痛覚だけが鮮烈なリアリティを持って現前しており、他のすべてを色褪せさせていた。

「これでレッスンは終わりだ。その痛みを忘れるなよ。傷口はきれいに治すな。痕が残るようにしておけ。いいな」

 七峰は目線まで手を上げ、手を裏返して広げて見せた。

 手の甲、親指の根元、今僕が切った部分と同じ場所に、まったく同じ傷跡があった。

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