十二  これで、伝わる?



 僕は何も着ないままで、ベッドで仰向けになっていた。とうに観念しているのだから、柔らかな疲労を交えて四肢に滲む充足感に、ほのかに酔うにまで至る。昂揚が程良く落ち着けば、ベッドの真上にある照明、モダンなデザインのそれが意識され、まばゆさに目を細める。消す手間さえもどかしいか、点いていることさえ忘れたか、そんなところで、南水みなみが普段、照明を落とすか点けたままかはわからない。

 僕は身をねじり、枕元のパネルを操作して、有線のチャンネルを自分の好みに合わせた。有線からの曲も、高級なスピーカーを通して部屋に流れる。だいぶ補正されているとみえて、音は奥行きが足されている。チャンネルはフィリピン・ポップスで、独特の甘ったるさが、今の僕の聴覚に食い違いなく合った。音量を少し絞ってから、南水に向けて、「聞きたいだけなんだ。深く捉えないでくれ。」言い訳をしてから仰向けの体勢に戻った。ゆるく響いたミディアムのバラードは、男女のデュエットだった。

 南水はやはり裸で、僕の腰の近くで足を崩して座っている。結った髪は、結局、今の今までほどく必要のないまま。「いつも聞くの?」南水に心地を乱した様子はなく、役を終えた僕の物を撫でたり握ったり、手遊てあそびの玩具おもちゃにした。安易に南水を立てるのも、詳しく説明するのも、どちらも野暮と思えた。「いや。今は、良い気分だから。」「あたしも、良いよ。」僕の簡潔な返事に、南水も短く応じた。

 何よりではあるが、しかし、互いに感じるに僕が貢献できたのは、ベッドがそこにあるだろうと場所を変えるくらいで、それ以外は本当に何もしていない。南水のおかげで心地良く届くバラードに感性を預けながらも、つい付言する僕はまだ未熟だろうか。「あえて言えば――」尽くして嬉しいのうちか、ゴムの始末、さらにはティッシュでぬぐうところまで、南水が自ら進んでやったことを思えば、自嘲も混ざり、「――こんなに何もしなかったセックスは初めてだ。」裏返しの言葉で南水を称えた。

 南水の指は僕の物から離れない。僕は天井を向いたまま、「あはっ。」笑う声だけで南水の表情を想像した。「話聞いてさ、あたしまだ結真とキスもしたことないんだって、思ったら余計だめ。頭の中、真っ白。」手でいじくるだけでは満足しなかったのか、先端にひとつ口づけをしてから、南水は言い足した。「誤解しないでよ。誰にもしない。あたしだって初めてだよ? こんなになんにもされなかったエッチは。」「人聞きが悪い。僕が酷く手抜きをしたみたいだ。」しなかったとは言ったが、正しくは、させてくれなかった。「じゃあ、不満そうな結真ゆうまに教えてあげる。こんなに気持ち良かったエッチも初めて。結真の上で、気を失いかけてた。」僕が不快に感じていたわけもなし、つまり、何も問題はないのだろう。

 手遊びが減り、口づけが続くようになった。さらに唇を穏やかに被せて、器用にも、南水はそのままで喋った。撫でる息が僕の心地を刺激した。「良いんだけどさ、でも、つらいなあ。心底惚れてるなんて自覚しちゃうと、ね。、あたし専用にならないし。花凛かりんの家に帰るんでしょ。」「主語がおかしいだろう。」思わず言ってしまう。南水は、一回、二回と舐めた。努めて明るくというふうで、南水は言う。「いっそ、今のうちに噛み千切ろうか。それで持って帰るの。」

 僕は半身を起こした。南水の金髪を軽くいじる。やはり無理をして脱色しているのか、荒れている。それで悪い気は起きなかった。「時には南水の方が馬鹿になるらしい。僕を傷つけようだなんて、ちらとも考えないだろうに。」それは、ベッドの上でどうされていたかを考えるだけで、明白なのだ。南水はいったん言葉に詰まってから、僕に顔を向けないままで、どうにか言った。「ほんと、勘弁してよ。つらいじゃん。」南水はすっと頭を起こして、ここでようやく、自ら髪をほどいた。結っていたことでくせの付いた流れが、曲線を経ることなく、不器用に下に向かう。南水は強く僕を見つめた。「これで、伝わる?」と言うので、僕は結った髪が邪魔になる場合を考える。「たぶんね。」僕の胸中に動揺はあったのだ。南水は艶めいて、けれど微笑みに満たない唇で。「じゃあ、選んでいいよ。そこの自転車に乗るか、あたしに乗るか。」野暮で、格好がつかない。色男からは遙か遠い。僕の困惑は何であったか。「一服だけ、させてくれないか。バイクになんて乗るものか。」吸い損ねた煙草を改めて、という気はまるでなく、ひとつを置きたかった。恋心はどこから端を発するでもなく、経過に交じらず、全く経ることなく、しかし南水に対して生じた気持ちが、あるいは愛情と呼べるような気がしたから。



 花凛の住むアパートの集合ポストは灯下にあるゆえに、こうして夜になると、蛾を始め、はねを持つ虫たちが光に誘われて憩う。花凛の部屋のポストは開けるためのダイヤルが気難しく、ちょっとしたが要る。花凛よりも僕の方がそれを心得ているので、家にいる時は、郵便物を確認する役は僕が負っていた。ダイヤルの手応えを確かめて、いざ開けば、ちらしの一枚もそこにない。蛾の一匹が僕を嫌がって場所を移し、しかし遠くに離れることは好まなかった。ポストを閉めて、ダイヤルをずらし、燃えるごみは増えない、そうとだけ思って階段に足をかける。ひび割れを修復した跡と蝉の死骸を目にしつつ、胸に伝う汗が不快に意識された。結真、チャレンジャーだね、と、湯船に浸かる南水が言う隣で、シャワーで温水を浴びるのみならず、僕は髪も体も洗ったのだったが、一度さっぱりした分、新たに絡む熱汗ねっかんが歓迎できない新鮮さを帯びたか。

 花凛の部屋は二階の半ばで、すぐ前の廊下に立てば、ここにもぴったり頭上に蛍光灯がある。明るくて嬉しいと思ったことはない。一階で光に虫が群がるなら、二階も大差なく、鍵を取り出してから、虫を嫌がる花凛のため、ドアに張り付いていた蛾を払い、なお注意しながらドアを開けた。

 勝手を知る家であれば、横着をして、入っても明かりは点けず。洋間へ入る戸の空き間から漏れる光だけで、どうにかできる。まだ花凛はバイト先にいる時刻で、勇奈いさなが部屋にいるのだろう。玄関でスニーカーを脱ぎ、キッチンの足場でもある廊下を行く途中、夏の路面で酷使された靴下を脱いで、シンクの向かい、洗濯機の隣にあるかごに放り込んだ。冷房を効かせる範囲にない廊下は、素足にぬるく触れた。

 洋間へと入り、即時、勇奈と目が合った。誰かが帰宅した物音は聞こえていたはずで、昨日、花凛と連絡を取った時刻からすれば、まず僕で間違いないと思ったろう。そのうえで、すぐに開くはずの戸を見つめていたのか、どうか。勇奈はちゃぶ台の上で自分のノートパソコンを開き、指はキーボードの上にある。パソコンの背面の隅に貼ってあるロックバンドのシールは、今この時、僕の視界では全く存在を失い、感じられなかった。

 勇奈と目が合う。僕にとっての正面に顔が据えられている。家出をするのに余所よそ行きばかり詰められないと、気取らない服が多くなったという。群青のハーフパンツ、黒地のTシャツにはサッカーチームのロゴが水色で描かれる。たわやかな淡い髪は、流れのままにる。意志の失せない瞳から、鼻梁びりょうを抜けて唇まで、僕は調和にくらむ。

 一目いちもくしただけ、それで足りた。

 僕がまだ、勇奈に恋をしていると思い知るには、足りた。

 抜けぬ刺として勇奈への恋情はあって、確かな実在があると知れた。僕の心裏しんりで繰り返し打ち当たり、擾々じょうじょうあばるものがあったのは、南水の望まない僕を、どこか安堵の心持ちで認めてしまったから。南水の願いが否定された今を、嫌えなかったから。南水と過ごした今日に背けば、僕の心胆は掻き乱されて、そのままで、僕は無罪に甘んじた。滑稽にも罰を望んでみたとして、誰がそれを与えてくれるだろう。




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