十一  好きだって分かるから。



 南水みなみは、僕の左で絡める腕の強さをわざと足して、何を指すかを教え、「どう思う、これ。」と聞く。腕組みのことだ。もともと僕の趣味でないものが、あろうことか、照り尽くす太陽のもとなのであれば、逃げ口を探す気にはなれない。「非常に暑苦しい。」素直に言えば、「だよね。あたしも、炎天下のつもりで言ったことじゃなかった。」と返り、見解は一致するようなのだが、南水はそれで腕を放すでなく、さらに深く絡めた。僕は僕で開き直り、「暑苦しいうえに歩きにくい。」素っ気なく言った。肘を目指した互いの汗が混じり、どちらのとも分からなくなる。

 川沿いの道を並んで歩いているのであれば、水の光彩がせめてもの涼か。マンションやテナントの並びを真っ直ぐ区切るように幅の狭い流れがあり、市街地としては意外な程、水は澄む。投げ捨てられたごみが散見されるのは、致し方ないとは言えない。水面みなもまでは高低差があって、柵は頼りなく、うっかり落ちそうと南水が言ったために、川の側を歩くのは僕になった。

 今日は珍しく、夏鴨なつがもの姿を見ることができた。二羽いるうち、一羽は水上、くちばしせわしく水を突いたかと思えば、忘れていたというふうに、と鳴く。その鳴き声の甲斐なく、もう一羽は雑草の上、自らの羽に頭を預けて寝入ったままだ。僕は風情に嬉しくなり、右手で南水に示した。目にして、「美味しいよね、鴨肉。」と言う南水も相当なのであるが、「鴨は食べ物じゃない。」と言う僕の方が余程相当で、「食べ物じゃん。」と言う南水が正しい。

 こういったやり取りに憤慨するかと言えば逆で、存外に楽しく、望ましく、今日という日が思っていたのとは全く別のものになることを、いっそ願ってしまおうか。無慈悲に照る光ではなく、その渦中で繋ぐ腕に夏を見る。触れた肌にこそ記憶が焼き付く。炎蒸えんじょうを好ましく迎える気にもなれば、何に感謝すべきか、あの打ち消し線だろうか。さもなくば、ランジェリーショップに行くことを拒んだ僕か。



 本当のデートにすると決めてから喫茶店を出るまでに、ずいぶんな時間を食った。

 鴨を目にした川沿いに達するよりも十五分程前。長く喫茶店のソファ席に座ったままの南水は、しばし言葉を失った後に、「まじ、ごめん。あたしが悪かった。つい浮かれて。」と、珍しく弱腰だった。フロートに続き、コーラのグラスも氷を残すのみとなっている。僕もまた、同じ椅子から動かぬままでいて、コーヒーは飲み干されていた。僕はボールペンの後ろで、紙ナプキンを軽く叩く。「責める気はないけど、しかし、これはひどいな。」スライドして伸ばせる細いペンを財布の中に入れている。それを取り出し、喫茶店の紙ナプキンに書き付けていた。

 どうせなら新鮮に感じられる所に行きたいと、やはり案外と言っては失礼だが、自然な要望が南水から出たのが発端だった。僕は応じた。ただ、検討して知れたのが、選択肢が残らないということだった。

 僕も南水も年の割にデートの経験が豊富で、また南水は友人と遊ぶ機会も多い。S駅は僕と南水のどちらともが気軽に来られる駅で、下車すれば遊びやすい街がある。僕が割を食うのは南水の本意でない。どうなったかと言えば、大量の打ち消し線を生んだ。

 カラオケ、映画に始まり、水族館やテーマパーク、展望台など、行き先の候補を箇条書きにしては、どちらかが、あるいはふたり共がもう何度も行ったとして、上から線を引いた。横線は競うように並び、S駅周辺にここまで引き出しがあったのかとうなることになり、よくもここまで打ち消せるものだと、僕と南水に呆れることにもなった。辛うじて残った小劇場は、南水にそれを楽しむ趣味がなく、僕はライブハウスを遠慮し、ランジェリーショップは固辞していた。

 気付けば南水は言葉少なで、自分の思いつきで迷惑をかけたと、南水の口まで“×”の形になっている気がする。路線変更は避けられないだろう。デートの相手を落ち込ませたままで良いとは思わない。「これも一興だよ。僕と南水だから起きてるんだろう? 誰とデートするのか、よくわかる。」言うだけは言ったものの、正直、うまく転ぶとは考えておらず、「結真ゆうまがあたしを遊んでる女だって思ってるのは、すっごい分かった。」やはり違うところに転んだ。

 南水は頬をテーブル、ウォールナットの天板に乗せた。「結真の優しさが身に染みる。馬鹿だけど。」ひと言余計だ。落ち込んだのではないらしい。南水を励まそうという意図は伝わったのか。「行きたくなったとこ、ある。」南水はそう言ってから顔を上げた。「結真、この近くで、よく行くラブホない? それ、あたしが行ったことないと良いんだけど。」深く考えずに回答した方が良いと思えて、持っていたペンで、紙ナプキンの隅にホテルの名前を書いた。「そこ、ここからちょっと歩かない?」南水は名前だけで場所を浮かべるので、僕の認識を改めさせるつもりはないのか。

 いつしか、南水の機嫌はころりと好くなり、はっきり笑顔までが浮かぶ。「でも最高。あたし行ったことないから。ねえ、連れてってよ。結真が他の女を連れ込んだ場所に。」僕は趣旨を察せないまま返すことになった。「かまわないけど、しかし、素行調査というわけもないだろう? まるで、自ら進んで嫉妬したいと聞こえる。」例えば僕なら、あるいは僕であっても、そうと知る場所に連れて行かれて無心ではいられない。何であれ僕はOKを出した。南水は聞いてすぐバッグを腕に提げ、喫茶店の伝票を手に取る。今日は何もかも僕の奢りだと伝えていたはずが、本当のデートになって、南水の認識は変わったのかもしれない。レジに向かおうという手前、「その通りだよ。」と言う南水から、笑みは失われていなかった。「妬かせて。」むしろ、微笑みの色艶いろつやは増していた。「妬けば妬くほど、結真のことが好きだって分かるから。」



 室内を一見してすぐ、南水は、「わぉ。いい部屋。」と声に出した。南水を連れて来たこのホテルを利用するのは、川沿いの道を歩きたいからではなく、それで立地の難をカバーしようというのか、スイートルームが二室あることによる。その部屋が目当てだ。叔父に感謝しなければならないが、紹介されるままに仕事を請け負っていると相応にお金が貯まる。僕の稼ぎについて、南水は叔父から聞いているだろう、その点は省略して補説した。「少し歩くのが嫌じゃないなら、相手に窮屈な思いをさせる理由もないから。」話をずっと戻せば、南水の言った、『勇奈いさなとホテルに連泊』というのも、ずいぶん長い間粘れる。勇奈がそれを望むかは別として。

 昼前であれば、スイートは二室とも空いていた。南水の希望に添うよう、僕が今まで、より多く訪れた方を選んで、エレベーターに乗り、ここまで来たわけだった。モノクロームを基調とした室内の、その広さはと言えば、花凛かりんの住む2Kを丸ごとふたつ並べても、おそらく足りない。たまの非日常を味わうには良い。ふたりではどうしても持て余すのは確かで、大は小を兼ねるの理屈そのままで選ばれてきた気もする。僕自身が特別気に入っているかというと、疑問符が要る。

 並みのベッドより余程良い夢が見られそうな銀色のソファがあり、先に南水が腰を下ろした。座ったというより、沈んだと表した方が正しいかもしれなかった。室内を見やる。南水の前には黒いふちを持つガラスのテーブル、視線を転じれば、キングサイズよりもさらに大きいベッド、プロジェクター、スピーカー、マッサージチェア、なぜか隅にあるフィットネスバイク、まさかペダルを漕ぎたいと言えるものでなく、僕は南水のすぐ左隣でソファに沈んだ。「自転車、好きなの?」と聞かれるので、僕は目線を追われていたらしい。「そこのバイク、ずいぶん漕ぐもんだから、ひどく呆れられるか、派手に怒られるか。」煙草を一本取り出すと、その動きに合わせて南水がライターの火を向けてきたので、素直に甘えて火を点けてもらった。ひとつ喫して、僕は話を続けた。「呆れるだけで済ませてくれる人には、感謝の気持ちで熱心にサービスしとくし、怒られたとなると、結局はベッドでごまかすわけだから、結果は一緒か。」嫉妬することが目的であれば、と、僕はわざと余計なことまで言った。「反応を確かめたくて、あえてやってるって面もあるけど、どうしてか漕ぎたくなるのは本当で、花凛と来れば、ただ漕いでるだけの時もある。花凛は映画をふたつみっつ見て帰る。」花凛の名前まで出すとは、僕はずいぶん意地が悪い。これで間違いだという気はしなかった。

 実際、僕の話は明確に、南水にとって正解だった。

 南水の指が、僕の口元にまで伸びた。「ごめん。結真、ほんとごめん。」何を言われているのか掴めないまま、僕はくわえていた煙草を取り上げられた。南水が火をくれたはずのものだった。南水の指が震えているのが見えて、煙草が灰皿に置かれ、火を消す手間は惜しまれて、すぐ、今にも泣きそうな南水の顔が正面に迫った。「ごめん。全然もっとずっと、だめだった。」僕は互いの体勢をいくらか整え、向き合うようにしてから、灰皿に転がされた煙草の火を揉み消した。

 煙草の火が消えてすぐ、南水は僕から強引に奪うように、唇を重ね合わせた。程なく互いの唇は離れ、南水は少し怖がるように言う。「ラブホ来といてさ、キスされたからって、文句言わないでよ。」嫌ではないが、意外の感はあった。「文句は言わないけど、いきなりどうして。」「だから、言ったじゃん。だめだって。」じわじわ、体勢を崩されつつあった。僕が背の方へ落ち、南水がその上を覆うように。距離は詰まる、吐息は触れてしまいかねない。南水は言う。「結真のこと、思ってるよりずっと好きだった。せっかく話してくれたのに、ごめん、もう聞けない。聞きたくない。もう、やだ。」南水の切実な声は、もはや、僕の頬に息として触れた。僕の声も触れるだろう。「なら、外に出ようか。」自然な結論として言ったことは、南水の問いかけで保留になった。「その前に、聞いていい?」南水は、僕の首のすぐ隣に顔を沈め、質問を口にするより先に、舌を出し、僕の肌を舐めた。さらに僕の耳朶みみたぶを噛んでから、やっと聞いた。「結真ってさ、ラブホ来て、押し倒されて、文句言う?」




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