十  あたしに聞かれても困るって。



 夏の駅構内は特有の熱気で淀み、乗り降りする者に不快を強いる。改札をくぐって先、駅の敷地から出て、極暑ではあれど尋常の夏に晒されれば、ずいぶんな別天地に思える。それもわずかだ。発汗は増すばかりとすぐに知れる。

 南水みなみとの待ち合わせは午前十時にS駅の東口で、僕は時刻表の都合で七分前に着いた。直後、ガラス越しに僕を見つけたのか、南水はすぐそばのアパレル店から姿を見せた。炎夏の午前、なお高まろうとする熱の中で立ち話をする理由はない。程近くに僕の気に入りの喫茶店があったので、差し当たりとして案内し、テーブル席をひとつ占めて南水と向かい合った。やや照明を落とした店内に、もとは色の濃かっただろうものが、年月を経てせてきているウォールナットの卓、この時世じせいであるのに、いずれの席にも置かれる灰皿、今日居合わせたのは、カウンター席で葉巻を味わいながら新聞を睨む、スーツ姿の壮年男性だった。

 席で落ち着いてみれば、どうしてか、僕は南水に内情を明かしてしまう。それは半ば予想できたのだが、他方、案外なものを見て最初から気になっていたのを、どうせ嫌がられまいと思うに至り、僕はソファ席に座る南水の胸に目を注いだ。僕が目線で話の腰を折った形で、南水はすぐに気付き、「もっと大きい方が良かった?」と、笑う。花凛かりんよりは小振りで、勇奈いさなよりははっきりと大きい、のだが、僕が見ているのはそれとは違うと、南水も承知だ。

 南水はアイスを食べた後のソーダフロート、そのグラスを持ち、ストローでひと口含んでから置き、「あたし、結真ゆうまが本命じゃん?」と言う。南水の表情を見てから、結局はまた胸に目を遣ってしまった。「CとDとEだったらどれが良い?」と聞くので、一応は南水を立てようと、「D。」と答えた。入っているパッドが大きくないことを願う。どうやら気を良くしたらしく、南水はひとつ微笑んでから話を戻した。「まあそれで、睦人むつとさんと会った時とは違う服にして、特別な人だよって、したかったんだけど、クローゼット開けても似たり寄ったりの服しかなくてさ。」

 南水の髪型は昨日会った時と変わらず、ごく明るい金髪を頂点に近しい所で結っている。褐色に焼けた南水の肌、その首にあるチョーカー、焼けていない部分を探せないももの、その大半を見せるタイトなミニスカート、違和感はない。ただし中間、下着の透けて見えるTシャツの胸部に、口が“×”の形になっている、可愛らしい兎のキャラクターがプリントされている。それが案外なのであって、僕はその兎を見ていた。「これ、中学の時に懸賞けんしょうで当てたの。部屋に飾るだけで、袖を通す気はなかったんだけど、それって、誰とのどんなデートでも着たことないんだなって。似合わないのは分かるけど。」南水は少し目を伏せた。見た目より心情を優先したことに、気にするところがあるようだった。「これなら、結真の思い出に残りやすいかなって、それも思っちゃったら、もう、大急ぎで洗濯、乾燥機。」好い反応を考える間はもらえず、南水は言うなり口を尖らせた。「って、解説するチャンスを待ってたんだから、もっと早くじろじろ見てよ。胸。」位置が悪い。

 不満を引きずるゆえか、南水は厚底のサンダルを履いた足をぶらぶらとさせた。僕の方は、黒のジーンズに白のシャツ、白のスニーカーで、問題もなく飾り気もないという具合ならば、その対比も含めて記憶に残るように思われた。悪い気はせず、僕が嫌な顔をしていないと見て取ったか、南水の方がそれきり話題を戻した。

 中途だった話は、名前をぼかしていたのが、行き着いてみれば、今朝、Kがバイト先に向かい、僕は南水との待ち合わせのために出かけて、Iをひとり家に残したとまで話し、総じて、洗いざらいと言って間違いでないという始末だった。

 僕の口が軽いのか、南水の人柄がいざなうのか。「結真ってさぁ、」話を聞き終えると、南水は珍しい毛色の猫でも見るふうだった。「話に聞いて知ってたけど、頭良いのに馬鹿だよね。」フロートはチェリーと氷を残すのみで、南水は、氷の溶けた水に浸かるチェリーをスプーンで撫でた。時節をわきまえずにホットのケニアを頼んだ僕は、もうぬるいひと口を飲んだ。「馬鹿だと分かっていて惚れたって?」ふと反撃を試みてみるものの、「何言ってんの。やっぱり馬鹿、なとこも含めて愛してるよ。」と言われるので、早々はやばやと降参しておくのが賢明のようだ。「それに、話に出てくる、Iって子がけっこう性格悪いって知ってからも好きでいるんなら、人のこと言えないんじゃないの。」ようやく、南水はスプーンでチェリーをすくった。嫌いで残したのではないらしい。「あたしからすれば、Kって子も相当だけどさぁ。って言うより、Iよりよっぽど相当。Kのが嫌だよ。あたしは。」南水の言ったことを咄嗟とっさせなかった。勇奈をかばいたい気はあっても、僕自身、そのようなニュアンスで話してはいない。

 僕は無意識のうち、少しながら、身を前に出していた。「まず、いい加減に腹を括る。」少なくとも南水に対しては、僕は隠し立てが酷く苦手になると、それが本当なのだ。「ふたりの名前は、Iがイサナ。勇気の勇に、奈良の奈。Kはカリンで、植物の花に、凜とした姿と言う時の凜。」「勇奈と花凛ね。それで?」僕が疑問に思うことは知れていたろう、南水は、平生へいぜいと変わらぬままの表情で、何も特別なことは言っていないと伝えた。僕はそして、ただ教わる側になる。「花凛の方が嫌だというのは、どういう? 僕でさえ、顰蹙ひんしゅくを買うのは勇奈の方だと思える。」話の流れの中、南水のチェリーは、スプーンに乗せられたままになった。「花凛はやられっ放しってわけじゃないよ。パンチを受けてる勇奈は、きっと分かってる。言わないだけ。」南水は指でスプーンを揺らす。器用なもので、何度も落ちそうに転がるチェリーは、しかしこぼれない。「昨日の、結真に聞こえなかった取り引きはこう、」まずは勇奈の立場か、「泊めてくれ。約束は破らないから手出しはしない。」言ってから、「それに対して、」南水は花凛の立場でも話した。「泊まらないのは。私が結真に同情してもらう、それで悪者にされても文句を言うな。ってね。」

 南水はチェリーを口に含み、その種を処理するまでに、一時いっときの空白が生まれた。僕は黙ったままでいて、南水の話はその後さらに続いた。「勇奈を追い出せないのは、むしろ花凛の方。花凛が勇奈を追い出しても、結真はそれで花凛を嫌ったりなんかしない。でもさ、その時、結真は今ほど花凛のことを気に病まない。結真は行く宛てのない勇奈を心配して、面倒を見る。」聞いて、僕は言葉を絶するのみなのだ。「たまんないでしょ、花凛からしたら。ただでさえ結真は勇奈が好きなのに、同情して面倒も見る、花凛は無視なんてなったら、結真の気持ち、取られちゃうじゃん。」思えば、花凛と勇奈のかつての取り決めは完璧でない。もし、僕の方から花凛と縁を切ると言えば、約束を反故ほごにする必要なく、容易たやすくひっくり返る。「結真のお人好し、と言いきれるかは分かんないけど、結真が勇奈を行く宛てなく放っておけないことが、花凛の諦めの一番の原因じゃない。」自分の解釈をつまびらかにしてから、南水はふっと付け足した。「だから、わざとだよ。」

 幾許いくばくか苛立つのか、南水はスプーンでグラスのへりを一度だけ叩いた。「それだけなら、イーブンにしてもいいんだけど、」僕は、南水の話を否めないままでいる。「同情どころか、花凛は結真に罪の意識を持たせて、見捨てられないようにしてんの。頬をつねる? いっそ殴られた方が結真は気楽だって、知らないわけないのに?」僕の心肝しんかんで花凛をいとう気持ちが生じるではないが、しかし南水の見解を否む言葉もない。「ま、あたしの好きな男をむやみに苦しめてるって思えば、そういうふうに見ちゃうから、客観的ってのとは違うけど。」

 僕は身を引き、さらに椅子の背もたれに背を預け、自身を落ち着かせようと試みた。効き目がないではなかったが、「ここで何もかも肯定はできないけど、参考にはさせてもらう。ありがとう。」精々せいぜいで返せたことがそれだ。南水はそれで十分と、優しいというでなく、素気すげないというのでもなく、ただ自然なばかりで、「結真を間に挟まなくても済んだはずの話だし、結真がこうしたいと言えば実際そうなる話でもあるし、シリアスになっても損だよ。」言ってから店員を呼び、追加でコーラを頼んだ。心安く言われればこそ僕の心中に染み込み、安堵が湧く。南水は狙い通りの結果を僕に見ただろう。「あたし、尽くして嬉しいタイプね。覚えといてよ。後で好きな下着の色を教えて。」興味でなく、僕に合わせたものを着たいという話か。であれば、先日見た銀灰色ぎんかいしょくのベビードールは、叔父の趣味ということになる。

 尽くして嬉しいという南水のげんを、疑う気もしなかったのが、しかしその定義のうちには苦言も含まれると、注釈を加える必要には迫られた。コーラを待つ南水が言うには、「ま、結真の優柔不断っぷりも相当よっぽど。勇奈を帰して花凛の家に残るか、勇奈とふたりでどこかのホテルに連泊するか、どっちかでしょ。」とのことなので、僕が猛省すべきは別にあるらしい。

 この話題を続けても、南水と会った目的から逸れていくのみなので、話を転ずる契機として、「好きな下着の色は明るいブルー。」と、人生で一度も考えたことのない好みを思いつきで話した。「おけ。」という南水の返事をもらって後、これからどう過ごすかについて意見を求めた。そも、僕が南水から小説の着想を得るために待ち合わせたわけだが、一緒に過ごせれば目的は果たせると言うにとどまり、具体的な行き先は未定のままだった。

 スーツ姿の壮年男性は会計を済ませて出て行き、ほとんど入れ違いで、三人連れの老婦が隅の席をお喋りの場とした。僕らのテーブルには、もうひとつ紙のコースターが敷かれ、そこに置かれたコーラに口を付けてから、南水は率直に言った。「腕組みして歩きたい、みたいなことしか出ない。あたしに聞かれても困るって。好きなんだから。」まさか、何を好きか確認するわけにもいかない。デートになるのをどうしても望んでしまうと、そういうことだった。

 内容を問わないと言ったのは僕で、南水は以前の言い様からすれば、二番目でも三番目でも当座は不満がないらしく、花凛からも勇奈からも、僕の女性関係に文句は付けないと、間接的にであれ明言されている。さて、誰が心奥で何を抱えているか、結局僕は分からず、ならば配慮もできない。分かるのは、デートを拒む言い分がないことだ。

 結局は、口を“×”の形にした兎に報いようと、そう考えられた。ただ僕の執筆に協力するだけで着た服ではないと、それは明白で、「腕組みをするのは趣味じゃないけど、その兎には敵わない。僕が折れる。」そう言った。またさせやしないかと、一抹ほど不安には思った。ここで言いすことはできない。「いっそ本当に、デートにしてしまうのでどうだろう。」不安は無用だった。南水は偽りなく嬉しげに頷いたので、僕は気分が浮き立つのを胸中に認めた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る