九  同じことでしょ。



 足下にあるカーペットはタイル調で、薄桃色の濃淡によって分けられている。さして彩度を持たず、淡い色調であれば、穏やかな風味を館内にもたらす。照明は絞られておらず、勇奈いさなの横顔ははっきりと見えた。持っていたキャリーケースは途中でコインロッカーに預け、僕たちは地質博物館を訪れていた。上から覗き見るアクリルケースの内側に標本があり、壁にかかったパネルが解説を加えてくれている。

 巡り始めてすぐに、勇奈が、「なぜここへ?」と、訊ねてきた。近かったというのはあるが、他は無考えというのでもなかった。「穴場だからね。」いざ入ってみれば、思惑通り、見事なまでに閑古鳥で、入口が券売機と入場ゲートだったこともあり、まだ他の誰の姿も見ていない。だからと、誰でも連れて来ようとは思わない。「勇奈ならこういうのも有りかと思ったけど。」「ええ、知識欲は満たされますけど、」それ自体は嘘ではないようで、勇奈は花崗岩かこうがんについての展示を熱心に眺め、パネルにある解説の一部分を読んでは、ケース内の実物に視線を落とすことを繰り返した。ただ、「人生初めてのデートで来たい場所ではなかったです。」言うべきことははっきりと口にした。

 面食らった、というのが正直な所で、「驚いた。」と、僕はじかに口にしていた。展示に向けていた目を横にいる僕にやって、勇奈は笑うでなく、しかし生真面目に言うのも躊躇ためらわれると、そのような曖昧な面持ちを浮かべて、静かに言った。「先輩ほどの人ですら苦労しているのに、その辺りの男の子に落ちるなんてこと、ないですよ。」僕に恥を掻かせるのは本意でないと、その点も曖昧な表情の一因なのだろう。しかし、南水みなみは話に聞いただけで僕の希求するものを見抜いたというのに、僕ときたら、このざまだ。

 それぞれに熱の籠もった目線をやりながら、勇奈はひとつずつ、闃寂げきせきとしたフロアを進んでいく。花崗岩から安山岩へ、石灰岩へ、さらにはベントナイトの特設展示へと。見入る横顔を見て、次に移る後ろ姿を見て、背にかかる髪の流れを見て、あの日にそれが濡れ色だった意味を、唯一の正しさとして在った微笑みの訳を、問おうとして躊躇う。師匠と見込まれておきながら、僕はそれを問うだけの言葉を持たない。



 地質博物館を巡り終えて外に出ると、すっかり日も落ちていた。最寄りの駅で電車に乗る前に、僕たちは駅前すぐにある本屋に寄った。今さら下手な小細工をするよりはと、僕は当初のプランを変えなかった。「ちょっと、通いたいですね。ここ。」勇奈は興味深いとばかりに言うので、人生初めてのデートで来るべきかは否としても、悪くない案内ではあるようだった。

 さして広くもなく、見た目に特別な所もない店だが、置いてある本の並びは、なかなか他の店では見られない。平たく言えば、ツウ好みの、か。玄人くろうと受けする文学作品が充実している。朔良さくらさんの出版社が出した文庫も多く見受けられる。品揃えの偏りで本屋の価値が決まるわけでは無論ないが、僕個人がそれで喜んだって文句は言われない。好ましい場所として勇奈に教えることも同様。

 僕の方はすでに、かねてよりの常連であるので、店にいた初老の店長にからかわれることにもなった。「女連れだなんて、珍しい。」と、声をかけられて振り向けば、店長のエプロンの上、整えられたグレーのひげは微笑みに釣られて歪んでいる。「店の方針を変えれば、女はもっと来るかもしれない。僕は来なくなるけど。」気安さゆえに、素っ気なく返した。大仰に聖域と言うことはないにしても、花凛かりんを連れて来たことさえないのは本当だった。「そういえば、」老いの覗く指で髭をさすりながら、店長は記憶を探って言った。「きみが高校生になった年か、やっぱり夏に、何度か女の子と一緒だったな。同級生くらいの、ほら、眼鏡の。」「もしかしたら、今日限りで来なくなるかもしれない。デートの最中に昔の彼女の話をされちゃ、たまらない。」実際、歓迎できる話ではなく、僕は話を切り上げ、瞳の鉾先ほこさきで居並ぶ本たちを薙ぐようにする勇奈に寄った。

 流すようになっていた視線を、勇奈は一点で止めた。注視の焦点を、そばから見ただけでは明らかにできずとも、察することは可能で、「藤ノ木ふじのき篤芽あつめ、『冬灯ふゆともしに尋ねて』かな。」少しばかり名探偵の心持ちで言った。「ですね。」と、勇奈は肯定する。「私が小説を書くきっかけになったの、この本です。」そう加えられたので、その初稿にあたる作品が『冬灯ふゆともしに聞く』という題で、部室に残る昔の冊子に載っていることを教えようとした。藤ノ木篤芽が、晨央しんおうの母体となった逢館おうだて高校の出身であることは、今ではあまり知られていない。

 わずか触れるだけ、遠慮がちに本の背を撫でてから、勇奈は「先輩は、何かそういう本、あります?」と言うので、問いかけに答えるのが先となった。「違いなく、書き物をしている叔父に倣ったんだと思うけど、そう、叔父の部屋には烏海ううみ奈尋なひろの著作が全部並んでいたから、それを読んで得たものは少なくないだろうね。」視点を落とせば、烏海奈尋の新刊が平積みにされている。

 僕はまたも、『冬灯に聞く』について話す機を逸した。「ファンの間では公然の秘密になってるんですが、」勇奈の目線は再び流れて巡り、そのおまけで、僕は教わる側になった。「烏海奈尋と藤ノ木篤芽、夫婦なんだそうですよ。知ってました?」「いや、全く。」返しながら、合点がいく。朔良さんと車中で話した際、まるで二者が一組であるかのような物言いがあった。実際にふたり一緒でいたのだろう。叔父を指名したというのも、言葉通りの意味か。烏海奈尋が名を連ねることになった経緯を省いたのも、夫婦であると言うのをはばかってのこと。となると、夫妻と朔良さん、そして叔父は、面識があるように思えてくる。

 自己の状況を否応無く思い出させる引き金にもなり、勇奈に言うべきことは他にあった。「早めに、謝っておくよ。」勇奈の背に、斜め後ろから投げかける。現実、間違っていたのは僕だったのだ。「勇奈の言うことが正しかった。詳細は伏せるけど、目指すまでもない、僕は今、自分の意志ひとつで作家になれる。」言い終える頃には勇奈はすっかり振り向き、言わんとすることはすぐに察した様子で、呆けたのも少々のこと、果ては口角が微細に揺らいだ。それは、笑みに近似を見る。「ちょうど良かったです。すっかり腹を立てていたので。」違うのだと分かりながらも、僕は訊ねた。「初めてのデートで本屋に連れて来られてしまって?」

 さすがに、僕が本気で問うているとは思わなかったのだろう。「まさか。」と、大げさに言ってみせる勇奈の口振りに、不快の気配はない。「この本屋のどこにも、先輩の書いた小説が置かれていないことに、ですよ。」僕の方が、意味を呑むのに時間を食い、長く呆けた。



 先に家に着いていた花凛は、手早くシャワーを済ませ、部屋着に着替えたようだった。場の空気に誰より耐えかねたのは僕で、花凛と勇奈がちゃぶ台越しに座って向かい合うのを横目で見ながら、距離を取り、火を点けないままの煙草をくわえていたのだが、花凛から「結真ゆうまくん、観念して火を点けたら。」と、言われ、勇奈からも「私も、そうしたらいいと思います。」と、言われてしまい、諦めて本棚の最上段から灰皿とライターを手に取った。せめて煙の流れだけは考えようという気になり、エアコンの冷風の通り道を避け、ゲーム機の繋がれた液晶ディスプレイのすぐ脇で、壁に背を預けて立ち、やや上から見下ろして状況の行方を見守ることになった。煙草の先端が燃えると、用が済んだライターはズボンのポケットに押し込み、灰皿片手で喫した。煙がわずかに視界を遮る。連絡を取った結果、花凛の家で落ち着いて話をしようという運びになり、その当初、僕は席を外すつもりだったのが、花凛と勇奈のどちらにも望まれて同席していた。

 つか、花凛と目が合う。僕がわる足掻あがきをやめて満足したのか、すぐに勇奈の方に視線を戻し、半ばだった話を再開した。「勇奈ちゃんも人が悪いよね。私が断れないの分かってて、そういうこと言うんだもん。」怒気を発するでなく、諦念を滲ませるでなく、どうとも読み取れない表情で花凛は言う。勇奈は花凛から目を逸らさず、「私、約束を破るつもりはないですよ。」はっきりと言った。「大親友の彼女を見捨てて、それで恨まれでもしたら同じことでしょ。」ここで、花凛の表情に微少、諦念が混じったふうになる。勇奈が僕の彼女であるという話はすでに出ていた。自分が求婚したことについて、花凛は何も言わないままだった。「それに、今ここから追い出したら、結真くんが困るの、目に見えてるし。」花凛の諦めの色は、むしろここではっきりする。最初から、成否は僕の心情によると。少し、勇奈が同調するようになった。「変な所だけ、お人好しですね。」「だよね。わりと困る。」あえて人でなしだと喧伝けんでんしても詮無いのは明らかで、口を挟まずに煙を吐いた。

 花凛にとって、明らかだった結論を認めるだけのものか、結局は落ち着いた口調で、「泊めるのはいいとして、でも、ひとつ条件というか、譲れないの、あるんだけど。」そう言った。「何でしょうか。」勇奈が問うと、花凛はすぐに「結真くんの隣で寝させて。」と、返す。僕が隣にいないとうまく眠れないのだと、花凛は言っていた。「大楠おおくす先輩が構わないのなら、私からは特に何も。」勇奈に動じる様子はない。「大楠先輩が誰の隣で寝ても、私は文句を言える立場にないですから。」彼女たる人にきっぱりそう言われてしまえば、胸が疼きもするのだが、「結真くん、そこの所は?」花凛に問われれば、「問題ないよ。」と、答える外はなかったし、別段、花凛を拒みたいわけでもなかった。

 僕がバスルームを使ってすぐ後、まだ早くに、花凛と並んでベッドで眠ろうとしていた。昨夜はふたりとも短く眠るのみで、疲労感は強い。余っていた布団を引っ張り出し、勇奈は隣の洋間で眠ることになったが、エアコンは僕らの側にひとつきり。結論としては、やはり僕の心情を推し量る形で、間の戸は閉めないと決まった。勇奈はちょうど今シャワーを浴びているが、起きていれば洋間から僕と花凛の眠る方へ明かりが行くとして、付き合う形ですぐ床に就くという。

 心身共に疲れた感覚はあれど、薄手の掛け布団のうちで、僕は眠気をうまく手繰り寄せられないでいる。昂る気の原因は多々数えられるが、そのうちのどれが主因とは分からない。隣に横たわる花凛の温もりに再び触れるまでに、ずいぶんな時を隔てたように錯覚する。

 せめて横になっていれば体の疲労は和らぐと、そのように思って目を瞑って仰向けでいると、頬に刺激が走る。花凛につねられているのだと、目を開く前に気付いた。僕の耳元で花凛が囁く。「結真くん、最低。」頬に伸びた花凛の指はすぐには離れず、僕はあえて目を開かないままで言った。「よく知ってる。」頬はもう少々ねじられてから、程なく解放された。「ううん、私の方がよく知ってるよ。だから、気にしないで。」優しく言われる程に、僕は自分を苛んでしまう。頬に伸びた花凛の指が離れてしまったことが、ひどく残念に思えた。




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