八 置き忘れちゃって。
そもそも、僕は
十三の僕が、持て余すにも限度があるとして、父の書斎から断りなく奪い取った大層なスピーカーは、以来、僕の部屋に居座ったままで、今はショパンを貫禄十分に鳴らしている。とりわけクラシックを好んでいるわけではなく、とりとめのない思い付きで、風情に真っ向から乗っかってやろうとしたのみだが、降り籠めるまでの雨の中にあれば、浸れる情緒には乏しい。ピアノの旋律は、呆気なく雨音に負ける。
ついに僕は音楽を消し、おもむろに押し入れを漁って、叔父から譲り受けたゲーム機、まだこの部屋に残る全てを引っ張り出し、市のように並べていった。それらは、叔父の積極的なコレクションだったというわけではないらしい。ゲーム好みの
畳に並べたゲーム機のうち、新たに
僕にはどうやら、妥当な解がないと極端に転じてしまう向きがあるらしく、今もまた、熱心に暴挙に打って出てやろうという気になる。リビングに出て手頃なポリ袋をいくつか手にしてから取って返し、花凛の好みだけを基準にすることで持ち込む物を即決し、雨滴に
花凛は今、バイト先にいるはずで、家を空けているのであるが、僕は花凛の家の合い鍵を預かっているし、いつ訪ねて来ても良いと、家主の許可を頂戴している。まして、待望のゲーム機を携えて、というのなら諸手を挙げるだろう。かねてより望まれていたものを、持ち運ぶには重いと、僕がずっと渋っていたのだった。
何の連絡も要らないことはすっかり承知しているが、誰にも知られぬ雨下の
雨垂れの音を掻き分けるようにして、一階の渡り廊下から校舎へと入った。廊下の端に、誰の物とも定かでないスリッパがいくつか打ち遣られているのは知れていて、三年の昇降口を通れば遠回りになると、それを履いた。少しばかり靴下が汚れるとして、すでに半ば水浸し、花凛の家の玄関ですぐ脱ぐことに変わりない。
雨に包囲された校舎はどこか虚ろで、練習に励んでいるらしいダンス部員が流すヒップホップが、ともすれば哀調を伴って聞こえる。重みのあるバッグを背負ったまま、蝙蝠傘を片手に、音源から遠ざかる形で歩み、階段を上がっていった。花凛と僕はクラスが違うが、花凛がどの教室のどの席で授業を受けているかは覚えている。
僕は特に難儀することもなく、花凛のクラス、窓際にある席から、SDカードが数枚入った薄いケースを見つけ出した。この方がやりやすいのだと言い、花凛は幾枚かのSDカードにデータを分類している。ケースをしまい込んでからバッグを背負い直して、いったん窓枠にかけた蝙蝠傘を再び手にして、いざ行こうとしたところ、何となく、ただ本当に何となくだった、
僕がいる教室は三階、西館のいる部室棟は二階建て、わずか見下ろす形ではあれど、向こう、屋上に立った西館と目線の高さはそう変わらない。さして距離も離れていない。僕は西館に目を据えたが、西館の瞳は何も捉えていない。少なくとも、今ここにあるものの一切、西館は見ていない。
それは、僕の感性を千切る。
濡れている。
西館は何ひとつ雨具を帯びることなく、また、何の動作もそこにないのであれば、身を庇うこともありはせず、ただ雨中に立っている。ひたむきに佇んでいる。淡い髪の
それらの示す
西館は、確かに微笑んでいた。
自らをなぶるのではなく、嘲るでもなく、ありのまま、驕らずに、真実のものとして。何らの混じり気もなく、喜ばしく、それはあった。
僕に何ができただろうか。思ってしまったのだ、間違っているのは他の全てであり、正しきは西館の微笑みだけであると。間違いが正解を正すことなど、あってはならない。
そしてまた、こうも思わねばならなかった。美しいと。そして、僕がここにいることが知れれば、それはきっと消えてしまうと。だから、背を向けた。花凛からの頼みをこなし、花凛が喜ぶであろう品を運ぶことだけが、僕に許されたことだった。
僕は今なお、あの日の微笑みの意味を、立ち尽くしていた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます