八  置き忘れちゃって。



 そもそも、僕は何故なにゆえ勇奈いさなに惚れたのだったか。


 逐日ちくじつ、梅雨入りが北上していた。注意報が出る程には雨勢うせいが確かで、窓を打つ雨粒はと、不規則な、それでいて途切れのない打音だおんを刻み続けた。日曜の昼過ぎながら、雨雲は厚く、マンションの七階から見下ろす街は照度を奪われ、出歩く者が少ないのと相俟あいまって、ずいぶんといじけているように見える。

 十三の僕が、持て余すにも限度があるとして、父の書斎から断りなく奪い取った大層なスピーカーは、以来、僕の部屋に居座ったままで、今はショパンを貫禄十分に鳴らしている。とりわけクラシックを好んでいるわけではなく、とりとめのない思い付きで、風情に真っ向から乗っかってやろうとしたのみだが、降り籠めるまでの雨の中にあれば、浸れる情緒には乏しい。ピアノの旋律は、呆気なく雨音に負ける。

 ついに僕は音楽を消し、おもむろに押し入れを漁って、叔父から譲り受けたゲーム機、まだこの部屋に残る全てを引っ張り出し、市のように並べていった。それらは、叔父の積極的なコレクションだったというわけではないらしい。ゲーム好みの知己ちきとゲーム好みの知己が結婚した結果、同じゲーム機は家にふたつも要らないとして、だぶついた物が叔父に渡ったのだそうだ。

 畳に並べたゲーム機のうち、新たに花凛かりんの家に持ち込むべきはどれか、検討しようと思った。世代遅れのそれらに目線を滑らせるも、結論を出しかねるうち、畳敷きの部屋に硝子ガラス窓というのは結局どういう様式なのだろうと、そんな思考の寄り道をしてしまっては、単に所在がないのだと自覚する。選ぶべくして選んでいるのではないと。だとして、近年ようやく和解したばかりの父に心理学の講義をしてもらう気には到底なれず、母に炒め物を焦がさないを聞こうにも、おりしく留守にしている。

 僕にはどうやら、妥当な解がないと極端に転じてしまう向きがあるらしく、今もまた、熱心に暴挙に打って出てやろうという気になる。リビングに出て手頃なポリ袋をいくつか手にしてから取って返し、花凛の好みだけを基準にすることで持ち込む物を即決し、雨滴におびやかされないよう、執拗なまでに手をかけて、選んだゲーム機をポリ袋で包んでいった。ソフト等も同様に。

 花凛は今、バイト先にいるはずで、家を空けているのであるが、僕は花凛の家の合い鍵を預かっているし、いつ訪ねて来ても良いと、家主の許可を頂戴している。まして、待望のゲーム機を携えて、というのなら諸手を挙げるだろう。かねてより望まれていたものを、持ち運ぶには重いと、僕がずっと渋っていたのだった。

 何の連絡も要らないことはすっかり承知しているが、誰にも知られぬ雨下の邁進まいしんというのもいささか寂しい。スマートフォンを手に取り、『報告。本日一三二○より、X(機密保持のため仮名)を花凛宅へ輸送。要請によりブリンクスも同梱。』戯けたふうで花凛にメッセージを送った。ちょうど休憩時間だったのか、間を置かずに花凛から返信があった。画面を見れば、そこには『追加指令。教室にSDカードを置き忘れちゃって。寄り道して取ってきてもらえると嬉しい。』と、ある。花凛が喜ぶのだと知れていても、あくまで自棄やけの範疇だったはずの徒行は、今、甲斐のある役を負おうとしていた。


 雨垂れの音を掻き分けるようにして、一階の渡り廊下から校舎へと入った。廊下の端に、誰の物とも定かでないスリッパがいくつか打ち遣られているのは知れていて、三年の昇降口を通れば遠回りになると、それを履いた。少しばかり靴下が汚れるとして、すでに半ば水浸し、花凛の家の玄関ですぐ脱ぐことに変わりない。

 雨に包囲された校舎はどこか虚ろで、練習に励んでいるらしいダンス部員が流すヒップホップが、ともすれば哀調を伴って聞こえる。重みのあるバッグを背負ったまま、蝙蝠傘を片手に、音源から遠ざかる形で歩み、階段を上がっていった。花凛と僕はクラスが違うが、花凛がどの教室のどの席で授業を受けているかは覚えている。

 僕は特に難儀することもなく、花凛のクラス、窓際にある席から、SDカードが数枚入った薄いケースを見つけ出した。この方がやりやすいのだと言い、花凛は幾枚かのSDカードにデータを分類している。ケースをしまい込んでからバッグを背負い直して、いったん窓枠にかけた蝙蝠傘を再び手にして、いざ行こうとしたところ、何となく、ただ本当に何となくだった、窓外そうがいの景色に目を向けて、僕は瞬刻しゅんこくのうちに奪われていた。言葉にし難いものを、まるで持っていかれた。部室棟の屋上に西館にしだてがいた。

 僕がいる教室は三階、西館のいる部室棟は二階建て、わずか見下ろす形ではあれど、向こう、屋上に立った西館と目線の高さはそう変わらない。さして距離も離れていない。僕は西館に目を据えたが、西館の瞳は何も捉えていない。少なくとも、今ここにあるものの一切、西館は見ていない。

 それは、僕の感性を千切る。擾乱じょうらんにも近しく猛る情緒のなりをして、しかし一点でのみ、痛烈に凪いでいる。その不調和に、僕は痛みさえ覚えた。

 濡れている。雨雫あましずくそそがれるままに。

 西館は何ひとつ雨具を帯びることなく、また、何の動作もそこにないのであれば、身を庇うこともありはせず、ただ雨中に立っている。ひたむきに佇んでいる。淡い髪の一縷いちるごとが、涙痕るいこんの如くに映る。桜色のワンピースは、隅までひたされたがため、浴びた滴りをそのまま落とす物となり、哀情をもはや持ちきれないと言うかのようで。まぶたははっきりと開かれ、そのうちにある明眸めいぼうは、陰雲に彩りを殺されたままに濡れ透る。

 それらの示す切情せつじょうを、西館は裏切る。たったひとつ、口元だけで。僕の視界に入るものは、その唇ひとつを残し、余さずに、間違う。

 西館は、確かに微笑んでいた。

 自らをなぶるのではなく、嘲るでもなく、ありのまま、驕らずに、真実のものとして。何らの混じり気もなく、喜ばしく、それはあった。

 僕に何ができただろうか。思ってしまったのだ、間違っているのは他の全てであり、正しきは西館の微笑みだけであると。間違いが正解を正すことなど、あってはならない。

 そしてまた、こうも思わねばならなかった。美しいと。そして、僕がここにいることが知れれば、それはきっと消えてしまうと。だから、背を向けた。花凛からの頼みをこなし、花凛が喜ぶであろう品を運ぶことだけが、僕に許されたことだった。


 僕は今なお、あの日の微笑みの意味を、立ち尽くしていたわけを、勇奈に聞けないでいる。いつまでも穿たれた思いでいれば、恋情で埋めようとして然りなのかもしれない。




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