七  先輩のせいでもありますよ。



 混雑する時間帯に触れようかというところ、次第次第に、僕の地元へ向かう急行列車は座れる席を失いつつあった。海はもはや遠い。叔父と朔良さくらさんとの打ち合わせに同席することは遠慮して、僕は帰路に就いた。途中、始発駅で乗り換えた強みで、僕は座席の中程なかほどをひとつ占めていた。

 先の車中での会話は、そらおそろしいものではあった。雲居くもい遥かで睨み合う三者の争いに僕が巻き込まれたと、そんなところで、後日、朔良さんは正式に、僕に執筆を依頼すると言うのだから、誰も彼もが本気だと思うしかないのだろう。

 ただ、僕がまだ学生であることも考慮して、朔良さんとしては、話は振るにせよ強く望みはしないと、そういうことでもあった。新たなレーベルに名を連ねるかどうか、僕自身の意志に委ねると、そう解釈すればいいのか。けれどおそらく、勇奈いさなは僕の名がそこにあることを望むだろう。叔父はどうか、僕はどうなのか、意志を持ち連なるとして、ならば何を書くというのか、三者と並び立つことはできるか。いくらでも思考は巡らせられるが、僕は帰途の間ずっと、その大半をっていた。

 南水みなみは断言した。

 僕が求めているものは、愛だと。

 そのことばかりを考えていた。

 海から都会へ、やがて都会とも言えなくなり、地元が近づく。正面にも、後ろを振り向いても、車窓の向こうに目に馴染む景色が走るようになる。ジーンズのポケットで携帯が震えて、手に取って確認してみれば、アプリに登録したばかりの南水からメッセージが届いていた。明日の午前十時にS駅で待ち合わせるのでどうかという旨で、それで問題ない、よろしく、といった事を返した。

 背後の窓から照り込む陽は、携帯の液晶を見辛くする。日がだいぶ傾いたことで赤みが差され、画面の色合いが変わって見える。隣の窓では、誰かが下ろしたブラインドがそれを和らげていた。これから宵を迎えようというところ、今さら真後ろのそれを下ろしても、誰が面白がるでもないだろう。

 朔良さんから振られた話だけでなく、懸案は他にもあるはずだった。勇奈との不揃いな関係について、花凛かりんからの求婚について。着想は手にしたとして、文芸部で載せる作品が何か具体的な形を得たかと言えば、違う。

 ひとつ、またひとつと、僕が降りる駅に近づく。席がちらほらと空き、すぐに別の誰かが腰を下ろす。たまたま乗り合わせた隣人たちの息づかいが感じられるほどに、何よりの証明に思えてならなくて、尚更に、南水の言ったことしか思考を巡らなくなる。

 目の前に立つ誰かにとって、眼前に座る僕は何であるだろう。僕は物としては映らない。虫螻むしけらとして見られるわけもなく、まして、言葉であるものか。人だ。僕は人で、どれだけ言葉がうまくれたとしても、それを脱することはできない。

 ならば、あえて理由を探すのも、野暮なのかもしれない。

 愛が欲しい。

 大多数の人と同様に、僕にもその望みがある。例に漏れない。自分の持つ幸福なつまらなさを、そのままに受け止めるほうが、むしろ格好が付くように思える。そうと認めると、また別な疑問が姿を見せる。

 どこにある?

 僕が求めるべき愛はどこにあって、どんな形をしている? どのようにいだく?

 車両がホームに停まる。車窓の外の景色も同時に、行き過ぐ流れを止める。降りる駅まではあとふたつのところ。埋まった座席が減ることが勝り、誰も座らない席がひとつふたつ、見受けられるようになる。ホームに揺曳ようえいしていた熱気が、開かれたドアから押し入り、どうしてか、詰まっていた息が楽になった。

 ゆっくりと息をいてみたところで携帯が震え、何気なく確認すると、そこには、『先輩、今どこにいますか?』という勇奈からのメッセージが届いていた。



 下車するはずだった駅を乗り越し、僕はさらに十分ほど電車に揺られることになった。勇奈と会うためで、僕の気持ちとしては彼女のもとまで出向きたかったのだが、地元にいたくないと言われてしまえば抵抗のしようもなく、中間にあたると思しき駅を互いに目指した。勇奈が言うには、南口を出れば公園が見えるはずだという。好きだけど好かれていない、愛が欲しい、胸の内を荒らすざわつきには、努めて意識を向けないようにした。

 公園に足を踏み入れれば、葉末はずえはぶつかり合うようで、木々はろくに手入れされていないと見え、鬱蒼とした佇まいさえ醸す。蝉はずいぶんと賑やかに鳴いていた。昨日の大雨の名残は拭えぬままで、敷地内の土は乾くには遠く、足を前に出すごとにスニーカーが汚れた。タイヤの遊具には、雨が降る度に水が溜まるのだろうと思われた。明るくない土地でのこと、致し方ない面はあるにせよ、どうあれここは待ち合わせには向いていない。無用に長居をすれば、その分だけ蚊に食われるだろう。

 勇奈の姿を探そうと、辺りを見回そうとしたところで、「先輩、こっちです。ここ。」と、声がかかった。声の出所でどころに目をやれば、白のブラウスと薄紅うすくれないのキュロットパンツという装いの勇奈が、やや力のない笑みを向けていた。勇奈はセメントでできた円柱形の椅子に大きなキャリーケースを置き、自身はタイル張りの部分に立っている。「ごめんなさい。待ち合わせ場所を間違えました。右の腿、痒いです。移動しましょうか。」勇奈はさっそくやられたらしく、やはりここに留まるのは利口ではないようだ。僕は無言のままにキャリーケースを持ち上げると、先んじて引き返し始めた。追う形になった勇奈は、「師匠に荷物を持たせるわけには、」と、予想にたがわない反応を示したので、「彼女に大荷物を持たせるわけにもいかないよ。ここは師匠の顔を立ててくれ。」予め用意しておいた言いぐさで拒んだ。「そういう、反論の余地のない屁理屈、本当に気に食わないです。ありがとうございます。」憎たらしかったり、気に食わなかったり、僕は勇奈が相手だと自滅ばかりしている。

 公園からは出たものの、どちらとも慣れた土地でなく、見える範囲に適当な逃げ場所があるでもない。差し当たり、コンビニの前でふたり並んでカップアイスをつつきながら、勇奈に事情を聞く流れになった。アイスは少々高いブランドの物からしか選ばせてもらえず、払いは勇奈で、急に呼び出してしまった詫びとのことだった。加えて丁寧な謝罪を受け、さらに少し雑談を交えてから、僕は本題を切り出した。「それで、今のこれはどういう経緯?」溶けゆくアイスにプラスチックのスプーンを沈ませていく時の手応えは、繰り返す程に軽くなっていく。

 日が落ちる間際でも炎暑は掠れるところがない、互いの肌に汗が滲む。話は首尾良くまとめてしまって、さっさと移動するべきだろう。「要してしまうと、家出してきたんです。」勇奈としても、いたずらに話を長引かせるつもりはないらしい。僕の相槌を待たずに続けた。「進路のことで揉めました。うちの親としては、例えば国立だとか、さらには薬学部だの、公務員だのと、そういうものを望んでいるようですが、」そこで一呼吸置いてから、しかし迷いなく、ためらう素振りなく、勇奈の話は続いた。「私は小説家になることしか考えていませんし、そもそも、大学で学びたいかどうかもわからないので、それで。」「どうやら、耳が痛い話みたいだ。」僕は例によって家から一番近い大学を選び、推薦で受かるつもりでいて、それはうまく運ぼうとしている。

 勇奈は責める様子なく、「先輩のせいでもありますよ。」つやめいて微笑む。「先輩の教えを受けていたら、私が本当に学びたいことは、たぶん大学にはないだろうって、そう思えたので。」ずいぶんな過剰評価だと、もし僕が口を滑らせたなら、勇奈はまた気を悪くするのだろう。黙っているのが正解だった。「家にいて水掛け論を続けても、お互いに不愉快になるだけですし、なあなあにするのも真っ平だったので、自分の決意を示す意味合いもあって、今こうしてここに。」「それはいいけど、行く宛ては?」ここでこそ勇奈は揺らぐ気色きしょくを見せて、苦笑を向けるのだった。「いくら私でも、好き好んで師匠に迷惑をかけたいとは思いません。」「つまり、無いってこと。」僕はてっきりそう解釈したのだが、それは早合点で、勇奈の顔つきには意力が宿った。

 勇奈はアイスを口に運ぶ動作を止め、はっきり僕に目を据える。「断られたら他を当たらなければならないので、まっすぐに聞いてしまいますけど、私、花凛先輩のところにお世話になってもいいですか。」質問の意図が掴めなかった。「どうして僕にそれを聞く?」「先輩の許可が欲しいから聞いてます。」筋違いとしか思えなくて、答えを返すに至らなかった。「僕の許可よりも、まず花凛の許可が必要だろう。」「花凛先輩は断りませんよ。」少しのためらいの後に、しかし勇奈ははっきりと言った。「だって、私はその気になれば、約束を反故にして、大楠おおくす先輩を花凛先輩から奪い取ることができるんですよ。私と仲良くするしかないじゃないですか。」息を呑んだ。それが何の為であるか、判然とはしなかった。

 どうにも、良い方向に転びそうな気配はなかった。僕の彼女である勇奈が、僕に結婚を求めている花凛の家に泊まりたいというのであるから。これでは、全くもって叔父のことを責められない。しかし、勇奈を行く宛てのないまま放り出すわけにもいかない。結局は腹を括るしかないのだろう。勇奈に対しても花凛に対しても、黙っておいてくれと頼むような名分は見当たらない。

 幸いと言えるのかどうか、花凛はバイト先にいて家を空けている。承諾されることを勇奈が見越しているとしても、家主の留守中に許可無く連れ込めはしない。夜まで待つ必要があった。とは言え、いくら猶予があっても、妙案は浮かびそうにない。

 僕は、花凛の判断に物言いを付けないと明言した上で、花凛の留守について説明し、どこか別の場所で時間を潰すことを提案したのだが、「時間潰しですか? 私は先輩の彼女ですから、当然、デートのお誘いも受けますけど。」と、さらりと言われてしまえば、僕としては、問題を棚上げして言葉に甘えることしかできなくなる。




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