六 どっちも間違いなんだけどね。
過ぎ行く四両編成の列車は、それが二両であっても満足に埋まらないだろう。単線に沿う素朴な駅舎は、線路が通じていなければ見落としかねない木造の平屋建てだ。
帰るには入金額が足りないと、ICカードと千円札を取り出して券売機に近づいたところ、「そこの僕、この辺りにバッティングセンターはないかな?」と、女性の声で尋ねられた。僕の知る限り、ない、しかしこの近辺を知り尽くしているわけでもない。そのように答えようとして振り向き、相手の顔を見たら、別なことを言わなくてはならなくなった。よく思えば、聞いたことのある声だった。
髪はこざっぱりと切られ、着ているグレーのスーツにもまた、品の良い清潔感が漂う。スカートよりズボンを好むのは相変わらずで、ヒールが低いのも同様であるようだった。「
朔良さんはひとつ頷いて、「よろしい。」と言った。さらに加えて、「バッティングセンターのひとつくらい、あれば良いのに。ちょっと時間潰しに付き合ってくれない?」と言う。僕が答えるまでもなく、解答は知っていたらしい。この人がスーツを着ながらにして、軽快にヒットを連発してしまうことはよく知っている。
なるべく親しみが伝わるよう、僕は微笑む。「かまいませんけど、でも、どこへ?」しかし、宛ては浮かばない。「奢りたくっても、喫茶店もないんだから。自販機で缶コーヒー、私の車かな。ついでに煙草も買ってあげようか。どうせ、あの人があげちゃってるんでしょ。セブンスター?」こういう人であるから、叔父のことのみならず、好感と、僕自身の恩義が重なってしまう。「遠慮なく、両方とも。」拒むのも野暮だろうと、素直に甘えることにした。
駅近くの駐車場に駐めてあった青のミニバンに乗り込めば、冷えた空気に触れることができた。「この暑さでしょ。車の中で待つつもりだったんだけど、きみが通りがかるのが見えたから、つい、ね。」エンジンを切ってほとんど間もない、ということのようだ。高校生ながら煙草を吸うつもりだということで、僕はスモークガラスの張られた後部座席に座り、運転席にいる朔良さんと斜めに向き合う形になった。ミニバン、それも大型のものであることは、業務上の実用性を重視したためだと以前に聞いたことがある。座席は七、八人乗れるはずのところ、詰めても五人、つまりは一列が外され、余剰は荷物を置くスペースとなっている。朔良さんはエンジンをかけると、冷房の目盛りを目一杯まで強くした。
僕は缶ボトルの
朔良さんは缶のプルタブに指をかけつつ、苦い顔つきになった。「とにかく、執筆に熱中してるわけ。当然、待ち合わせ時刻になっても来ない。ドライブしながら打ち合わせをする約束だったんだけどね。少し外の景色を見せろって言うから。」朔良さんの手元ではプルタブが空けられ、しかし口には
朔良さんを相手に、あえて叔父のことを掘り下げることもない、コーヒーに口をつけてから、僕は話の切り口を変えた。「何だ、打ち合わせが入ってるなら、僕には来るなって言えば良かったのに。」整理してみれば、段取りは無茶苦茶だ。叔父は南水を泊めて翌朝に僕を家に入れ、さらには午後に朔良さんとの打ち合わせがあったことになる。もっとも、南水と僕をあえて引き合わせたという感はあった。
朔良さんは何とも曖昧な、苦笑に近しい顔つきになって、「そういうとこ、相変わらず兄貴に倣うっていうか、むしろ本家のが、もうしないかな。」そう言った。兄貴が誰を指すのかはわからなかった。血縁で言えば、叔父には姉、つまり僕の母しかいないはずだ。「打ち合わせ、きみも同席させようって魂胆だったみたい。」ぱっと意図を掴めるものではなかった。「何で僕が?」訳を想像しようもなく、そのまま理由を訊ねるしかない。朔良さんはコーヒーをひと口飲んでから、「時間もあることだし、順を追って話そうか。」と、ひとつ間を置いた。
朔良さんは缶をホルダーに置いた。また別の角度で陽を受けて、缶が振りまく光沢が装いを変えた。「私の出版社、知ってるでしょ?」朔良さんはかつて大学で経営を学び、後に自分で会社を起こした。「今は、近代文学の埋もれた名作を再度出版してる。けど、別のレーベルを立ち上げて、新作書き下ろしでも本を出そうって話になってるの。」「ああ、それで。」叔父との打ち合わせについてはわかった。叔父はゲーム関連の仕事ばかり好んで受けるが、小説が書けないではない、どころか、おおよそどの作家に対しても見劣りしないだけのものを持っている。朔良さんは叔父に小説を書かせる
朔良さんの目が、少しだけ遠くを向いた。「でも、当初は、あの人に向かう話ではなかったの。そりゃあ仮にも、元、妻だしね。何の仕事をしたがってるかは、わかってるつもり。ただ、名指しされちゃったら、話を振らないわけにもいかなくて。」
朔良さんは缶コーヒーを取り、少し飲んでからホルダーに戻した。「ちょっと省略するけど、藤ノ木篤芽だけじゃなく、
瞳に光を宿すようにして、強い意志が伴わなければ吐露できないかのように、重く、朔良さんは答えを言った。「あのふたりは口を揃えて言った。自分たちと競い合うのに相応しいのは、永坂睦人を
朔良さんは残念そうにした。上向きに整えられたはずの
僕はコーヒーの缶に蓋を閉め直し、座席に置き、煙草を一本取ってライターで火を点けた。「結局、叔父さんは、何でまた僕を打ち合わせに?」朔良さんは手元の操作で、少しだけ窓を開けてくれた。「そりゃ、この話が、きみにとって
夏の日差しは、窓ガラス越しでも強く朔良さんを照らす。あるいは、ガラス越しであればこそ、より一層色めくものなのか。「つまり、行きがかり上、あの人にも聞いたってこと。あなたと競い合うのに相応しいのは誰か、って。」もし、直線距離で筋道を繋ごうというのなら、答えはひとつしかなかった。「あの人はこう答えた。自分と競い合うのに相応しいのは、
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