六  どっちも間違いなんだけどね。



 過ぎ行く四両編成の列車は、それが二両であっても満足に埋まらないだろう。単線に沿う素朴な駅舎は、線路が通じていなければ見落としかねない木造の平屋建てだ。南水みなみという人を知り、作品の着想を得た今、叔父に相手をしてもらおうとは思えず、また叔父にしても、部屋に戻ってみれば打鍵の音は途切れなく、筆が良く走っている様子であったので、僕はクロスバイクの鍵をサイドテーブルに置くのみで帰路に就いた。南水は今日これから、部活に出るとのことで、日を改めてまた会おうという話になっていた。

 帰るには入金額が足りないと、ICカードと千円札を取り出して券売機に近づいたところ、「そこの僕、この辺りにバッティングセンターはないかな?」と、女性の声で尋ねられた。僕の知る限り、ない、しかしこの近辺を知り尽くしているわけでもない。そのように答えようとして振り向き、相手の顔を見たら、別なことを言わなくてはならなくなった。よく思えば、聞いたことのある声だった。

 髪はこざっぱりと切られ、着ているグレーのスーツにもまた、品の良い清潔感が漂う。スカートよりズボンを好むのは相変わらずで、ヒールが低いのも同様であるようだった。「朔良さくら叔母さん。」つい言ってしまって、すぐ失言と気づいた。「んん? どっちの意味で言ってるのかな。親戚として? 年増の女ってこと? どっちも間違いなんだけどね。」語義としては必ずしも両方間違いとは言えない、しかし現代、三十と少しで盛りを過ぎたと表すのも失礼な話だろう。「謝罪して、訂正します。あなたは月森つきもり朔良であって、永坂ながさか朔良ではないし、ましてや、年増の女でもない。」朔良さんが僕の叔母であったのは、つまりは叔父の妻であった期間は二年に満たなかった。ただ、喧嘩別れしたというのではなかったので、義理の甥であった僕との間にも、気安い空気が残っている。朔良さんが元来、さばさばした人だということもある。

 朔良さんはひとつ頷いて、「よろしい。」と言った。さらに加えて、「バッティングセンターのひとつくらい、あれば良いのに。ちょっと時間潰しに付き合ってくれない?」と言う。僕が答えるまでもなく、解答は知っていたらしい。この人がスーツを着ながらにして、軽快にヒットを連発してしまうことはよく知っている。早々はやばやと帰るべくして駅に来たわけだが、こうして朔良さんに誘われたとなれば話は別だった。どう言ったものか、僕は朔良さんに恩義に近しいものを感じている。僕が叔父に好意を持っている反面、叔父が世間から見て、できた人物ではないと知るために。いまだ朔良さんが叔父と縁を絶たないでいるゆえに。

 なるべく親しみが伝わるよう、僕は微笑む。「かまいませんけど、でも、どこへ?」しかし、宛ては浮かばない。「奢りたくっても、喫茶店もないんだから。自販機で缶コーヒー、私の車かな。ついでに煙草も買ってあげようか。どうせ、あの人があげちゃってるんでしょ。セブンスター?」こういう人であるから、叔父のことのみならず、好感と、僕自身の恩義が重なってしまう。「遠慮なく、両方とも。」拒むのも野暮だろうと、素直に甘えることにした。

 駅近くの駐車場に駐めてあった青のミニバンに乗り込めば、冷えた空気に触れることができた。「この暑さでしょ。車の中で待つつもりだったんだけど、きみが通りがかるのが見えたから、つい、ね。」エンジンを切ってほとんど間もない、ということのようだ。高校生ながら煙草を吸うつもりだということで、僕はスモークガラスの張られた後部座席に座り、運転席にいる朔良さんと斜めに向き合う形になった。ミニバン、それも大型のものであることは、業務上の実用性を重視したためだと以前に聞いたことがある。座席は七、八人乗れるはずのところ、詰めても五人、つまりは一列が外され、余剰は荷物を置くスペースとなっている。朔良さんはエンジンをかけると、冷房の目盛りを目一杯まで強くした。

 僕は缶ボトルのふたを空けつつ、「叔父さんに会いに?」と、尋ねた。「そ。デートじゃなくて仕事だけどね。プライベートだったら家まで押しかけてたかも。でも、書いてるって言われると、私、弱いからなあ。どうだったか。やっぱり待つかな。」奇妙な話だが、離婚した後も、結局はこうであるようなのだ。叔父は結婚していた間は真面目にやっていたはずが、離婚を望んだのは朔良さんの方なのだと聞いている。僕が恩義に似た何かを感じ、報いるかに関係なく、そして形態がどうあれ、結局ふたりは離れる気が無いというのが実際のところなのだろう。

 朔良さんは缶のプルタブに指をかけつつ、苦い顔つきになった。「とにかく、執筆に熱中してるわけ。当然、待ち合わせ時刻になっても来ない。ドライブしながら打ち合わせをする約束だったんだけどね。少し外の景色を見せろって言うから。」朔良さんの手元ではプルタブが空けられ、しかし口にはあてがわず、話を続けた。「ま、今抱えてる仕事が早く片付くなら歓迎だから、大人しく待ちぼうけ。」叔父のそういう面は、朔良さんの方が知り尽くしている。最初に会ったのは十五年以上も前だと聞く。

 朔良さんを相手に、あえて叔父のことを掘り下げることもない、コーヒーに口をつけてから、僕は話の切り口を変えた。「何だ、打ち合わせが入ってるなら、僕には来るなって言えば良かったのに。」整理してみれば、段取りは無茶苦茶だ。叔父は南水を泊めて翌朝に僕を家に入れ、さらには午後に朔良さんとの打ち合わせがあったことになる。もっとも、南水と僕をあえて引き合わせたという感はあった。

 朔良さんは何とも曖昧な、苦笑に近しい顔つきになって、「そういうとこ、相変わらずに倣うっていうか、むしろ本家のが、もうしないかな。」そう言った。兄貴が誰を指すのかはわからなかった。血縁で言えば、叔父には姉、つまり僕の母しかいないはずだ。「打ち合わせ、きみも同席させようって魂胆だったみたい。」ぱっと意図を掴めるものではなかった。「何で僕が?」訳を想像しようもなく、そのまま理由を訊ねるしかない。朔良さんはコーヒーをひと口飲んでから、「時間もあることだし、順を追って話そうか。」と、ひとつ間を置いた。

 朔良さんは缶をホルダーに置いた。また別の角度で陽を受けて、缶が振りまく光沢が装いを変えた。「私の出版社、知ってるでしょ?」朔良さんはかつて大学で経営を学び、後に自分で会社を起こした。「今は、近代文学の埋もれた名作を再度出版してる。けど、別のレーベルを立ち上げて、新作書き下ろしでも本を出そうって話になってるの。」「ああ、それで。」叔父との打ち合わせについてはわかった。叔父はゲーム関連の仕事ばかり好んで受けるが、小説が書けないではない、どころか、おおよそどの作家に対しても見劣りしないだけのものを持っている。朔良さんは叔父に小説を書かせるはらなのだ。「そう、永坂睦人むつと、もとい、逢坂おうさか律人りつとにもラインナップに加わってもらおうってわけ。ペンネームをそのまま使うかは未定だけど。」叔父は仕事をする際、昔からその筆名で通している。

 朔良さんの目が、少しだけ遠くを向いた。「でも、当初は、あの人に向かう話ではなかったの。そりゃあ仮にも、元、妻だしね。何の仕事をしたがってるかは、わかってるつもり。ただ、名指しされちゃったら、話を振らないわけにもいかなくて。」些少さしょうならず、叔父に話を振ることに抵抗があるように思われた。「名指しって?」合いの手として疑問を入れて、話の続きを促す。「もともとこれは、藤ノ木ふじのき篤芽あつめのための話だったの。」仮にも文芸部員であれば、その名が何者を指すのか、よく理解している。ひと言で言うなれば伝説だった。それ以外に言い表しようがない程の。「出産と育児を優先した結果、文学界にとっては、一瞬の流星のようになった、あの藤ノ木篤芽。プロとして書いた作品は、たった一作に留まっていた。皆が待ち望んだ二作目が、私の会社から出るって、そういうね。育児が一段落したのを見計らって、話を取り付けたわけ。」僕としても、純粋に読者として読みたかったし、出版されたなら買うだろうと思えた。

 朔良さんは缶コーヒーを取り、少し飲んでからホルダーに戻した。「ちょっと省略するけど、藤ノ木篤芽だけじゃなく、烏海ううみ奈尋なひろにも書いてもらえるって運びになったの。」「そりゃ、何とも豪勢な。」そうとしか言えなかった。烏海奈尋は、一時いっときの空白があったのを除き、ひたすらに文壇を牽引けんいんし続けている。陳腐と承知で言うならば、絶対の伝説と、至高の天才が並び立つと、そういうことだった。「でも、作家がふたりだけじゃ、レーベルとしては寂しい。だから、ふたりに聞いてみたわけ。あなたたちと競い合うのに相応しいのは誰か、ってね。」少なくとも、僕には答えられない問いだ。誰であれば適当か、名を挙げられない。

 瞳に光を宿すようにして、強い意志が伴わなければ吐露できないかのように、重く、朔良さんは答えを言った。「あのふたりは口を揃えて言った。自分たちと競い合うのに相応しいのは、永坂睦人をいて他にいない、と。」叔父のことながら、たんが震えるような思いがした。「そりゃ、また。甥として、否定はしませんけど。」どうもこうも、何とも言葉を継げなかった。

 朔良さんは残念そうにした。上向きに整えられたはずのまつげが、わずか、下に向かってしまう。「質問した私が悪いんだけど、あのふたりはとにかく正直に答えた。ふたりに名指しされたとあっては、あの人も今回の話を蹴れなかった、って流れ。」さすがに逃げられない、そう思った。蛇に睨まれた蛙が動けずにいる、とすれば、消去法で戦うしかないわけだった。ただ、甥として、物書きの端くれとして、叔父の力は知っている。贔屓目ひいきめ無しに、十分、勝負のていになるだろうとも思った。

 僕はコーヒーの缶に蓋を閉め直し、座席に置き、煙草を一本取ってライターで火を点けた。「結局、叔父さんは、何でまた僕を打ち合わせに?」朔良さんは手元の操作で、少しだけ窓を開けてくれた。「そりゃ、この話が、きみにとって他人事ひとごとじゃないからでしょ。もともと、私からきみに連絡を取るつもりでいたんだもの。」どうなれば僕自身が関係できるのか、皆目わからなかった。それがいかなる経緯いきさつか、すぐに朔良さんが教えてくれた。

 夏の日差しは、窓ガラス越しでも強く朔良さんを照らす。あるいは、ガラス越しであればこそ、より一層色めくものなのか。「つまり、行きがかり上、あの人にも聞いたってこと。あなたと競い合うのに相応しいのは誰か、って。」もし、直線距離で筋道を繋ごうというのなら、答えはひとつしかなかった。「あの人はこう答えた。自分と競い合うのに相応しいのは、大楠おおくす結真ゆうまいて他にいない、とね。」全てを暴けば、本当の蛙は僕で、三匹の蛇に睨まれるに陥っている。これは跳ねられるものなのか、跳ねるとして、前か後ろか。




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