五  結局、あたしって何人目?



 塩味しおみが肌を撫でては、後方へ流れていった。こんな環境にあって、干した洗濯物はどうなるのだろう。そこのところは、後で叔父に聞いてみようか。シティサイクルに跨り、遠慮のない速度で僕を導く南水みなみは、「ここ、実は遠回りなんだけどさ、景色いいでしょ。」と、誇らしげに言った。オフショルダーのトップスゆえに隠されない彼女の肩甲骨は、健やかに焼けた淡褐色の肌を纏い、滑らかな動きを繰り返している。デニムのショートパンツは、艶めく腿を引き立てていた。頂点に近しいところで結われた、肌よりもさやかな色を持つ髪が、日差しを受け、潮風を浴びながら、奔放に揺れる。今、僕がこうして叔父の真っ赤なクロスバイクを懸命に走らせている海岸沿いの道が、優れた景観を有していることは論をたない。無粋に続くガードレールさえ、ここにあっては野暮もろとも呑み込まれ、趣を富ますのに一役買っているように思える。

 海と砂浜、アスファルトの路面、そして晴空、太陽がいくつもある気がしてくる。妙なもので、こうも光に浸されてしまうと、炎天下のうちに涼感を覚えるのだった。打って変わって道の勾配がいかにも急になり、ペダルに重みが絡み付いて尚、それは失われることがない。どうしてこんなことになったのか、単純に流されやすいのか、僕が僕の主体性に疑問を抱く中で、少なくとも叔父の家で煙草を咥えているよりはずいぶん良かったと、素直に思えた。


 花凛かりんから逃げるように、というわけではなかった。無論のこと、花凛の申し出に即諾そくだくできるはずもなく、かと言って一笑に付すこともできず、僕は返事を保留した。それでも花凛がバイトに出かけるまでは同じ部屋で過ごしたし、何が劇的に変わるでもなく、今までと同様にたわむれるところさえあった。それでも、木釘を深く打ち込まれた気分でいる僕は、せめて空気を変えようと、一時間半程をかけて電車を乗り継ぎ、叔父の家を訪れることを選んだのだった。

 昼を目前に、単線ゆえの素朴な駅舎を出て、建築物の疎らな通りを歩けば、陽炎すら目についた。目と鼻の先にある商店で何か食材を買っていくべきだろうか。叔父は全くと言っていいほど料理のできない人だから、作らされることもままある。今日のこの調子で自発的に料理を作ろうとは更々思えず、もし本当に何もなければ中華屋の出前を取ろうと決め、横道に折れた。

 家屋がちらほらと並ぶ道を行く。歩道のないその道路を前に、残りの三方を畑に囲まれ、叔父の住むアパートはある。小奇麗ではあるがワンルーム、もっとも、独り身に戻った今となっては、それで十分過ぎるのだそうだ。訪ねる旨の連絡はすでに入れてあり、一階の端にある叔父の部屋の前に立つと、僕はためらいなくチャイムを鳴らした。インターホン越しに叔父が応答するものとばかり思っていたのだが、確認のないままドアが開き、僕に、「どうぞぉ。」という声がかかった。そこにいたのは叔父ではなく、僕と歳が近しく、おそらくは下であろうと見える女性だ。着ているものは銀灰色ぎんかいしょくのベビードールだけで、ショーツも履いていない。ぎりぎりまで脱色したのであろう髪は寝乱れている。今朝になってからここを訪れたのではないことは明白だった。目のやり場がないなどと、叔父の前で初心うぶを気取る気にはなれず、僕は何も言わぬままに玄関へ足を踏み入れた。

 フローリングの六畳間に入ると、叔父はデスクトップパソコンに向き合っていた。煙草を咥えながら、安価な組み立て式のデスクに置かれたディスプレイを睨み、何やら仕事をしているふうだ。邪魔をしては悪いという気はしたが、言いたいことは言っておくことにした。「叔父さん、犯罪。」「それについては、プラトニックな関係だとしか言えないな。」叔父は滑らかな手付きでキーを叩いたが、打鍵の音はすぐに途切れ、考え込む仕草を見せた。「睦人むつとさん、あたしだと、どうしてもすぐにいっちゃうらしくて、かわいいよ。」と、ショーツを履こうという気配のない女性は言い、「ナイスジョーク。」と、叔父が称えた。どうやら叔父は、最後まで白を切るつもりのようだ。「あ、不満があるわけじゃないからね。ちゃんと指でいかせてくれるしさ。」「相変わらずかわいいやつだな、ミナは。」叔父は取り合わずに、勢い良くキーを叩き始めた。

 放り出された格好のは、ベッドサイドに畳んで置かれた黒のショーツには目もくれず、僕に手を差し出してきた。「あたし、有友ありとも南水。結真ゆうまのひとつ下で、睦人さんの愛人、みたいなもんかな。よろしく。」「どうして僕の名前と歳を?」「睦人さんからよく聞かされるんだよね。結真のこと。そんだからさ、何か勝手に親近感湧いちゃってて。ね、そういうわけだから、遠慮無く南水って呼んでよ。」アンダーヘアまで視界に収めておいて呼び名で抵抗するのもずいぶん馬鹿らしい話で、「よろしく、南水。」僕は素直に応じて、南水の手を握った。南水は僕の手を握り返し、そのままで、「睦人さん、何度も言うんだよね。将来有望だ、って。ものにするならああいうやつにしろってさ。ね、今ってフリー?」どうも答えるまで手を離しそうにない雰囲気だったので、「彼女はいるけど、僕自身はフリーだよ。」ありのままを言った。「何それ、そんなの初めて聞いた。本命はないよって? 結真、やっぱり面白いね。あは。でも今のところ、ふたり目でもいいから。あはは。」どこがどう気に入ったのか、南水は手を離してからもけらけらと笑っていた。

 叔父は画面に見入っており、僕はこのまま話を続けるしかなかった。「ただの興味で聞くけど、その場合、叔父との関係は続けるわけ? いくら僕だって、親類と女を共有するなんてのは真っ平御免だよ。」「うーん、睦人さんより気持ち良いんだったら、がちで乗り換えようかな。」「それじゃ僕に勝ち目はないな。」花凛を満足させていないとは思わないが、叔父というのは相手が悪すぎる。「そうかな。気持ち入ってたらそれだけで感じるし、いい勝負というか、普通にしてたら勝つと思うけどな。あ、高校生の普通でね。どう?」はっきり言ってしまえば、僕より場数の少ない高校生が大半だ。「僕が勝つだろうね。」「あ、言っちゃう。」「僕はさり気なく告白されたってことでいいのかな。しかも、かなり本気の。そうでもなきゃ、僕がベッドで叔父に勝つなんて考えられない。」こうも開き直れるのは、勇奈いさなと花凛の件があったからかもしれない。「あは。そういうとこ、聞いてた以上かも。ものにしちゃおっと。」南水は、ブランド物のバッグでも欲しがるかのように軽々と言い、「で、あたしって今、ふたり目、三人目、もっと下、どれ?」そして、僕の女という肩書きをすでに手に入れたものとして扱った。「三人目。」僕はすげなく言ってから、「叔父さん、真っ当な求愛を受けられないのは、日頃の行いが悪いせいなのかな。人生の先輩として、そこのところはどう。」ゆる自棄やけとして問うた。叔父の目は画面に向いたままだったが、返答はあった。「俺、これでいて結構あるぞ。私だけを見て、みたいなやつ。」尚更面倒な展開のように思えてならない。「お前、二人しかいなかったのか。」叔父は驚いたふうに付け加えたが、そも、その二人さえ愛を獲得しているとは言い難いので、実情は腰を抜かすほどかもしれない。叔父がろくでなしなのは、結婚していた時期を除けばずっとだ。


 海を見下ろす岬に僕と南水がいて、空があり、熱がある。汗の絶え間ない体と、涼しい表情で並ぶ自転車がある。何のためにここに来たのかは、もう忘れていた。僕は景色を見ていたが、南水は僕を見ている。

 叔父に買ってもらったというマルボロメンソールを喫しながら、僕の話を聞き終えた南水は、「それって、結真があたしに本気で惚れて、あたしがその親友だって子のを跳ね除けられれば、全部丸く収まるってことだよね。」と、真っ先に正解を言った。「あ、言っとくけど、あたし、男はいつもひとりだからね。もしもの時、誰の子か分かんないの、嫌じゃん。」僕は僕で、叔父から半ば強引に奪い取ったセブンスターを咥えた。「そういうわけだから、まあ、結真なら考えなくもないけど、でも、できれば次の生理が来てからにして。」何をするつもりでいるのか尋ねるほど野暮ではなく、しないと断言できるほど清い生き方はしてこなかった。結局、何も言えることがない。

 話が途切れた後で、南水は自分のことを言った。「睦人さんは、口伝くちづて惚れだって言ってた。辞書には載ってない造語だけど、って。人から話を聞かされるうちに好きになっちゃうっていうね。でもほんと、睦人さんから結真の話を聞けば聞くほど、まじでときめくようになっちゃったんだよね。」そして南水は、思い出したように、「結局、あたしって何人目?」と、再び聞いた。僕が抱えている状況のあらかたを白状した今となっては、つれなく三人目と言えやしない。「さあね。少なくとも、上にいるべきふたりが、僕を男として好いちゃいないのは確かだ。」勇奈は考えるまでもなく、花凛のことは付き合いの長さ相応には分かるつもりだ。「で、あたしには男として好かれてるけど、逆に結真の方が何とも思ってないってね。」「知り合ったばかりで何か思えって方が無理がある。」ふっと、わずかばかり考える仕草を見せた後に、南水が言った。「なんかこれ、究極の三択って感じする。」「三択?」

 南水の瞳は強く僕を捉えたまま。それは南水が南水自身に、僕からぶれない証を捧げたいがため、そんなふうに思える。「そう。その一、好きだけど好かれてない人、その二、最高の友達、その三、好きじゃないけど好いてくれる人。ね、そうじゃない?」いくらか、腑に落ちるところはあった。「僕に選ぶ気があるなら、そうなるね。」

 出掛けにリップクリームで色をつけた唇、開かれるそれを、光がいろう。「結真は選ぶ。」南水の断言は揺るぎない確信を帯び、根拠の分からぬまま、僕は呑まれていく。勢いそのまま、真実を晒すように、南水は言葉を重ねた。「そこに愛があるならね。結真が求めているのは女じゃなくて愛だから。どう?」「叔父さんがそう言ったの?」「これは、睦人さんとあたしの共通見解ってやつ。」ふたりがかりで胸裏きょうりに押し入られては、たまったものじゃない。僕にできるのはせいぜい、溜め息の代わりに煙を吐き出すことくらいだった。

 潮でざらつく風は、遮蔽物しゃへいぶつの無さゆえに吹き付ける。この光景は、何かの物語にならないだろうかと、ふと考えてしまう。海のが打ち寄せ、時折、鳥の声が混ざり、辺りは静けさよりも静かだ。咥内をいぶす苦味が、感性を覚ますと共に、意識をわずかばかり鈍くする。煙る香りは、鼻腔に届く前に磯臭さと混じる。マルボロメンソールの煙を透かして光を見る。そして僕は、気付けば南水に瞳を据えていた。

 まさか告白されるとは思っていまいが、南水は空気の変化を鋭く感じ取ったようで、唇は煙草を挟んだまま動かず、瞼はまじろぎを減らし、身を研ぎ澄ませて僕の言葉を待っている。ムードを膳立てしてもらって、このまま口を噤めはしない。「南水、僕の小説のモデルになってもらえないか。」僕は一語一語、はっきりと声にした。「モデルって?」「具体的に言えば、南水からイメージした人物を中心にして話を書くこと。」「それって何すればいいの? 身の上話?」「そういうのは僕が勝手に埋める。いくらか一緒に過ごしてもらえれば、特に何かする必要はない。」南水の目元が、仄かに綻んだ。「遠回しなデートの誘い、ってわけじゃないね。」「残念ながら、一切、そういう目的はないよ。」嘘になる言葉を吐きたくなかったのは、南水から向く視線が、陽光さえ味方につけて、強かったからか。目元のみならず、南水は口元にも笑みを浮かべた。「あはっ。結真って、すらすらと酷いこと言うね。期待しないわけないのに。いいよ、付き合ってあげる。」「酷いと言う割に、ずいぶん楽しそうだな。」太陽を受け止める南水の瞳が、喜びに近しいものとして、ごく微少、淫らに潤んだような気がした。「うん。あたし、けっこうそういうの、ぞくぞくする。」





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