四  そういうの隠してるのも裏切りかなって。



 僕がじゃんけんで何を出すか、その傾向を花凛かりんには知られているようで、十回のうち九回は僕が負ける。あいこになることさえ少なく、僕は今夜もあえなく散り、小銭を預かって、神社の境内にある自販機で練乳入りのコーヒーを買う役を任された。花凛の家の洋間に戻ると、ちゃぶ台に置いたノートパソコンに向き合っていた花凛が、こちらへ苦い顔を向けて、「来ちゃった」と、言った。生理はつい先日終わったばかりのはずだ。「来たって、菅原すがわらの?」「そう、みどりちゃんの。」菅原の名前は早緑さみどり。花凛は緑と略して呼ぶ。事態は察せたので、それ以上の問いは重ねずにふたつの缶をちゃぶ台に置いた。

 花凛と向き合う形で、僕もちゃぶ台に自分のノートパソコンを広げていた。画面に目を向ければ、案の定、携帯と同期しているチャットアプリのアイコンがタスクバーで点灯している。僕の方にも、菅原からのメッセージが届いているに違いなかった。文芸部の運営において、僕と花凛は菅原に感謝してもしきれず、恩人に対して偽りも誤魔化しも許されるべきでないなら、観念する外はない。

 事実、届いていたのは菅原からのメッセージで、それは、『進捗を報告せよ。』という、ごくシンプルなものだった。部員の原稿の進行管理は、前々から菅原の仕事だ。僕はキーボードを叩き、正直に『七十五分の零。』と返した。ちゃぶ台越し、向かいから諦め混じりの溜め息が聞こえ、花凛も似たような返信をしたのだろうと見当がついた。だとしても、母数には大きな開きがあるから、菅原の眉間により深い皺を刻むのは、僕の返信の方だろう。ほどなく、菅原から、『大楠おおくすくんが原稿を落としても、私が掻き集めた穴埋めの原稿が載るだけだから、何も気にせずにそのまま進めて。』と、送られてきた。僕の自尊心をうまくつついている。時を同じくして文芸部に入り、顔を突き合わせるようになってからおよそ二年半。焚き付け方は心得ているらしい。僕は簡潔に、『了解。』と、返しておいた。

 そんな状況ではあったのだが、目下、文芸部とは関係のないファイルを相手にしなければならなかった。叔父の紹介で、ソーシャルゲームのシナリオを作成する仕事を受けている。さほど分量があるではなく、言ってみればアルバイトだが、責任は伴う。叔父の面子を潰すわけにもいかず、まずは請け負った仕事を納期に間に合わせる必要があった。もっとも当の叔父は、締切を締切と思わない所があるから、甥が少々それに倣ってもどうとも思わないのかもしれない。反面教師にしておく方が無難であるのは疑いなく、キャラクターの画像、設定、すでに先方からOKをもらったプロットと、改めて目を通していった。いざ執筆にかかろうとした所で、チャットアプリのアイコンが点った。菅原が用件を言い漏らすのは珍事だと、能天気に考えてアプリを確認してみれば、届いていたのは西館にしだてからのメッセージだった。

 好意を寄せていると知られていれば、及び腰にもなろうというもので、恐る恐る内容を確認してみたが、『こんばんは。昨日、創作観が変わるほどの有益な教えを頂いてから、ずっと考えていたんですけど、』これから袖にするのだという雰囲気は読み取れなかった。とは言え、気楽な雑談が展開されるとも思えない。「花凛、ちょっと煙草吸ってくる。」稀に、叔父が煙草を一箱、お土産に持たせてくれることがある。それは、月に二三本のペースで消費されていく。一服するべく立ち上がりかけた所で、「何度も言うけど、いい加減、ここで吸いなよ。」と、制された。花凛の目を忍んで携帯でやり取りをしようという肚ではなかった。花凛はむやみに僕のパソコンを覗かないし、努めて隠すことでもない。結局、本棚の最上段、僕が間借りしているスペースから、金属製の携帯灰皿とセブンスター、そしてライターを手にしたのみで、そのまま取って返した。パソコンの画面では、西館が話を続けていた。『私、これでいて、あまり手段を選ぶ方ではないんですよ。』ただ息を整えるために、僕は煙草に火を点けた。

 左手に煙草を持ち、軽く喫してから、右手でキーを叩いて西館に応じた。『じゃあ、どういう手段を、何の目的で講じるの?』『先輩のこと、時と場合に応じて、師匠って呼んでもいいですか。その代わりに先輩は、私のこと、いついかなる時も勇奈いさなって呼んで頂いてかまいませんから。』それは、全く思いがけない所から。『野暮なことを聞くようだけど、それは呼称だけの問題?』『いいえ。私にとって先輩は師匠で、先輩にとって私は彼女、って、そういうことです。』気付けば、強烈に過ぎるパンチを見舞われていた。『お互いの関係性が一致してなきゃいけないなんて法律、ありませんよね。』考えるまでもなく、西館の言う通り、そんな法は存在しない。存在していたとしても、僕はそれを破るのだろう。命辛々いのちからがらの心持ちで返信を打ち込むしかなかった。『僕も美学のみに生きているわけじゃない。ましてや、それが勇奈からの提案であるなら、一も二もなく呑む。』「結真ゆうまくん、集中してるのはいいけど、煙草、もったいないよ。」向かいにいる花凛から、咎めるふうではなく声を掛けられた。僕はいつしか煙草を呑む動作を忘れ、吸いしの煙草はじっと灰を伸ばしていた。『それじゃあ、明日と言わずたった今から、ああ、もう勇奈って呼んで頂けてますね、ついさっきから、よろしくお願いします、師匠。』伸びた灰を落としてから、煙草を咥える。胸裏に形容し難い痛痒を感じながらも、高鳴りは否めなかった。

 花凛は僕の顔を覗き込んでいて、「煙草、そんなに美味しい?」さほど興味の無いふうに聞いてきた。「花凛も吸ってみるか?」「結真くん、いくらでも買い足せる身分じゃないのに、そんな大事な物もらえません。」花凛は居住まいを正し、自分のパソコンのキーをぽつぽつと叩いた。そういえば、部室の掃除をしていた日、師弟関係を利用して云々と花凛に言われていた。勇奈の言葉から解釈するなら、師はいても弟子はいない。師と対になるのは恋人で、すなわち師弟関係ではなく、論理の上では何も問題ないはずだった。


 目を覚ましたのは、ちょうど明けめているところ。目覚まし時計のデジタル表示を見れば、床に就いてから二時間程度しか経っていない。気が昂っているのか。だとして、それは執筆に集中したゆえのことではなさそうだった。隣では、花凛が淡い寝息を立てている。寝入る前に濡れ事に及んでしまうこともしばしばだが、お互いが執筆で疲れていたこともあって、今日はじゃれるのみで目を閉じていた。半身を起こせば、なけなしの眠気は旋風つむじかぜに巻き上げられるかの如くに消え去り、僕は花凛を起こさないよう用心しながら寝床を出るしかなかった。

 明け方の神社が纏う静謐せいひつな風格は、僕のような人間をどこか怖じさせる。さすがにこの時間では暑気も少しは遠慮しているようで、発汗は緩やかだった。昨日の大雨で洗われたのかどうか、踏みしめる石段は湿りを残しつつも、心做しか小ざっぱりして見える。もっとも、風雨に散った葉がそれを台無しにしているのだが。早起きの蝉の声に混じって小鳥の囀りが聞こえ、頭上に目をやるが、葉色の群れに隠れてその姿は無い。僕はさらに石段を登っていく。書き物をしていると孤独になりがちだから、縋れるものには縋っておけ、というのが叔父の言だ。それについては倣うことにしている。手水舎ちょうずやで手を清めてから、賽銭箱に十円玉をひとつ放り込み手を打ったが、いつもと違い、思念の中に願として浮かぶものは無かった。僕は少なからず混乱している。何をどう願えばいいのか、はっきりと形にならない。宙ぶらりんになった賽銭を残したまま、たまには花凛のご機嫌取りでもしようと、さらに硬貨を取り出して自販機へ向かった。

 例によって、練乳入りのコーヒーとコーラを買った。僕も花凛も原稿は終わっておらず、眠気覚ましのつもりだった。花凛はさらに、日中ずっとバイトに出るという。冷えた缶が熱気に触れて零す湿りを両の手で感じながら、さっき登ったばかりの石段を下っていくと、反対に段を登ってくる人影が花凛のそれであることに気付いた。寝衣として着ていたキャミソールとショートパンツのままだ。恥じらいを持って欲しいと切に願うものの、僕も同様にTシャツとハーフパンツであるので、口を噤まざるを得ないのだろう。遅れて僕の姿を見咎めた花凛は、「それ、私の分?」まずそう尋ねたので、僕は黙って花凛のもとまで行き、コーヒーの缶を手渡した。「ありがと。せっかくだから、そこで座って飲もうよ。」石段の踊り場には、神社には似つかわしくないブルーのカラーベンチが置かれていて、花凛は細かな滴りを帯び始めている缶をそちらへ突き出した。寝間着が汚れるのを厭わないというのがいかにも花凛らしく、僕は心中で苦笑しながら、導かれるままに腰を下ろした。

 コーラのプルタブに指を掛けながら、「起こしちゃったのか。悪いな。」と、言うと、「ううん。違うよ。」と返され、そして缶を開ける音がふたつ続いた。「私、結真くんが隣にいないとちゃんと眠れないの。知ってた?」それは全く思いがけないことで、缶を口に宛てがおうとしていた手が止まった。「知らなかった。」偽っても、花凛相手ではすぐに看破されるだろう。正直に答えた。「結真くん、意外と鈍感だから、ばれてないと思った。」その言い様だと、僕に気を遣わせまいと隠していたという側面は、あるにはあるのだろう。「でもまあ、私がこれからしようとしてる話を考えたら、そういうの隠してるのも裏切りかなって。」「話って。」思わずコーラに口を付けた。喉を湿らせたかった。「結真くん、私と結婚しようよ。」「いったい何の話を、」「何って、正真正銘、プロポーズだけど。」取るに足らない真理を紡ぐようにして、花凛は言った。「花凛は僕のことを、異性としては求めてないんだろう?」「うん。求めてないよ。でも、私たち男と女なんだから、結婚はできるよね。」何もかも明白なこととして言われたそれをいなむ言葉を、何も見つけられない。「確かにそうだけど、だとしても、もっと先の話だろう。」コーラの糖分が、喉にどうしようもなく残る。「違うよ。今の話だよ。今月末、結真くんが十八歳になったら、結婚しようよ。私はしたいよ。」




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