三  何って、差し入れ。



 浅い横穴の中にいて、葉洩れ日を見ている。蝉は縦横無尽に鳴りを尽くす。この雑木林は、僕が小学生だった頃、仲間内でロビンの森と呼ばれて根城のひとつにされていた。小学生がうっかり迷子になってしまうくらいには広い林で、ここ、僕らの拠点だった場所は大分奥まった所にある。今も昔も、およそ誰かが訪れることはない。分数の掛け算を覚えたばかりの僕たちは、秘密基地と称して、具合良く切り立った面に、奥行き一メートルに及ぶ穴をどうにか穿った。これはリトル・ジョンの洞窟なのだと、物知り顔で誰かが言った。

 大層な名を付けられた横穴の中にレジャーシートを敷き、僕はひとり、足を伸ばして座っていた。こしらえた当時と比べて、ずいぶん背は伸びたはずだが、天井に頭を打つことはない。よくぞここまで掘ったものだと、我ながら感心する。ここまで来たのは、ノスタルジアに浸るためではなく、作品の構想を練るためだった。度々たびたび、僕はここに長居をする。飲み物だけでなく、食べ物さえ持ち込むことがある。この時節であるから、タンクトップの裏で汗が這い回っているが、不思議と気にならない。ランニング用のハーフパンツは花凛の家に置いていなかったので、一旦、実家に戻って着替えた上でここまで来た。盛夏の林で黙思するにあたって、僕なりの正装という物がある。

 僕や花凛かりん、あるいは菅原すがわらといった三年の文芸部員は、二学期に入ってすぐの文化祭をもって部活から引退する。先達に倣うのであれば、その後も毎日のように部室に顔を出すのだろうが、区切りとしてはそうなる。先のタイミングで西館にしだてが助言を求めてきたのも、それゆえのこと。後輩に託すバトンを、僕はまだ握っている。最後の晴れ舞台で、僕はそれを綾取らねばならない。

 僕は、自分の部活動を締め括るための作品を考えている。文化祭では、三冊の冊子を売る予定になっているが、そのページを予め割り振る話し合いの中で、僕はまとまった七十五ページを頂戴していた。僕の文体を物差しにして原稿用紙で数えるならば、二百枚には達しないだろうというところ。一作品にこれだけの分量を割くというのは、知っている限り、過去に例は無い。我が儘を聞いてくれた文芸部の面々には感謝している。

 その作品が、自分の中で何であるのか。どういった定義を持ち、僕はどこからそれを視て、いかように向き合うのか。蝉時雨の中で夏陰に居場所を作り、僕は想念を弄んでいる。無論、西館に焚き付けられたからではないのだが、最後に良い所を見せたいと、どこかしらで思ってしまうのも、避けられない人情だった。

 思考が埋没していくにつれ、僕を取り巻く世界が意識の盲斑へと入り込み、五感が役目を忘れていく。わざわざ訪れたこの場所が、この世のどこに位置する何であるのか、次第に構わなくなっていく中、スポーツサンダルを履いた足の甲を甲虫らしきものが進んでいく感触だけが、どういうわけか、殊更ことさら強く感じられる。

 言葉になずさう。物語の奥で鳴りはためく情動を築く。ほとんどは嘘で、わずかばかりは真実で、螻蟻ろうぎにも塵芥じんかいにも満たない命を、言選ことえりによって組み上げる。触れた誰かが、須臾しゅゆ、生きるよすがとできればそれで御の字。傲岸な紛い物であることが最上。感性を止めるな。僕が僕の神であるという責任から逃げるな。まことの振りをした模造品しか作り得ないのならば、その嘘を貫き通せ。例え誰ひとり騙すことができなかったとしても。どうせ僕だって騙されはしない。そこにある言詞げんしの群れが、連なれば何もかも空言そらごととなることを知っている。

 暗紫色あんししょくの水底にいて、ふと蝉の声だけが意識される。考えに耽るうち、いつの間にか目を瞑っていたらしい。小休のつもりでまなこを外光に晒すと、まだらに注ぐ陽が、その輪郭を曖昧なものとしていた。いつの間にか、雲が出てきたようだった。

 底無しに湧くかのような湿り気の中、ごく自然な有り様で立つ、花凛の姿が目に映った。その身なりは、リトル・ジョンの洞窟で黙考する際の、僕の考える正装を知っている者のそれだった。メーカーのロゴの入った青のランニングシャツ、膝上までのスパッツと、その上に履いた白のショートパンツ、スニーカー、僕のことをよく心得ていると、それは称えられていい。

 もしこれが幻影なら、もっと違う服を着ているだろうと思えて、「何しにこんな所まで。」と、尋ねた。「何って、差し入れ。ここにいるんだろうなって思ったから。どうせ携帯は切ってるんだろうし、直接。」花凛はコンビニのレジ袋を左腕に下げていた。「わざわざ?」「そりゃまあ、大親友ですし。」僕にとっての聖域であるこの場所に案内したことがあるのは、唯一、花凛だけで、服装のことも合わせて考えれば、大親友と定義しても誤りではなさそうだった。「でも、そのつもりだったんだけど、雲行きが怪しいから、もし眠りこけてるなら起こして連れて帰ろうかなって。今日はバイトないから一緒にいられるしね。」確かに、梢の隙間から雨催あまもよいの空が覗いている。まだここに居座りたい気持ちはあったが、僕は賢明であるべきだろう。


 花凛と並んで林を進むうちに雨がぱらつき、アスファルトの路面を踏む頃には大降りに至っていた。近くにあったガード下に待避して、差し入れである缶コーヒーのプルタブを開ける羽目になった。雨勢は見る間にいや増し、隣に花凛がいるともなれば、否応無く出会った日の情景を思い起こさせる。夏の情緒を感じるには程遠く、汗に塗れた体に甚雨じんうを浴びれば、不快感ばかりが胸を衝く。「これ、いわゆるゲリラ豪雨ってやつなのかな。」「だろうね。ところで花凛、どうして自分の分の飲み物があるんだ?」花凛はミルクティーの缶を唇に宛てがっていた。「私も文芸部員だし、ページをもらってるわけで、ご一緒させてもらおうと思って。」僕の隣で構想を練ろうという魂胆だったようだ。「僕が、誰かといると気が散るたちだって知ってるだろ。」「知ってますとも。私がその誰かの範疇に入らなくて、一緒にいても大して気にならないってことも。」澄ました顔で、当然のこととして言われたそれは、決して花凛の自惚れとは言えなかったので、僕は何も言わずにおいた。

 花凛の買って来たコーヒーは僕が最も好んで飲む銘柄で、紛れ当たりではないはずだった。「これ、待ってればやむのかな。どうなの。すごく成績良いくせに家から近いってだけで晨央しんおうを受けた結真くん。」「ゲリラ豪雨だとすれば、ここで数時間ほど駄弁だべっていれば濡れずに帰れる公算が大きい。」夕立とは呼べないだろう。すぐにはやまない。「この近くで、ちゃんと雨を凌げる所、どこかあったっけ。」頭を巡らせるまでもなく、この近辺は昔から寂れている。「大型スーパーかラブホテル。」どちらも解にはなるまい、そう思ったのだが、「満場一致でラブホテルじゃないかな。折半ね。」花凛にとっては選びようのあるものだったらしい。実際、昼のフリータイムがあったはずで、数時間なら休憩料金で粘れてしまう。「買いたい本があるんだよ。少々値が張る物が。」「それ、私が買ってあげるよ。もうすぐ誕生日でしょ。」ただの口実だったものに対してこうも言われてしまえば、濡れて帰ろうとは言い難く、無駄な抵抗も呑み込むべく、僕は一気にコーヒーを呷った。「差し入れをもらっておいて、ここで折半を求めるのも、よくよく考えれば図々しい。ホテル代は僕が出すよ。」避けられぬ雨宿り、ならば、花凛の生活費を削る類のものじゃない。


 仄暗い部屋、ベッドに腰掛けてゴムの後始末をしてから、花凛にティッシュを渡した。花凛は事後に愛液を拭う。僕は僕で自分の物を拭いていると、花凛が丸めたティッシュをごみ箱に放り込んだ。「ナイスシュート。さすが私、美しい放物線。」けばけばしい身形みなりをしたベッドの隣に置かれたごみ箱は、花凛の位置からでは見えないはずで、その点は秀でていると評してもよかった。「実はね、私、バスケが得意なの。」花凛は得意げに言うが、無論、何を今さら、だ。「そりゃそうだろう。中学でバスケ部に所属していたんなら。」僕は放課後、たいていはテニスコートにいて、花凛がバッシュで駆ける姿はほとんど目にしたことはないが、母校の女子バスケ部は決して弱くはなかったし、花凛はとりわけ期待されていた。高校に入学した際も、晨央の女子バスケ部から、熱烈な勧誘を受けたほど。

 まだ余韻の去らない花凛の肢体に布団を被せてから、僕も潜り込んだ。そのまま、ささやかな後戯のつもりで花凛の髪に触れていたが、僕もまだまだ未熟で、「僕が西館を好きだってこと、本人に話した?」と、この場にそぐわない言葉を、つい口にしていた。僕の恋心のことは花凛しか知らない。情報の出所はひとつだった。

 花凛はためらうことなく、星図の描かれた天井に目をやりながら、「明言はしてないけど、それと分かることは話したよ。」と、淡々と言った。「どうして。」「結真くんを取らないで欲しいって、そういうことをお願いしたからね。」花凛の口からそんな言葉を聞くなど、全く考えになく、僕は努めて当惑を押し殺した。「順に聞こうか。邪魔して欲しくないと言っていたのに?」僕が浅はかだったというなら、ひとつの問いで全てを明らかにできるわけもなく、ひとつずつ質していくよりほかない。

 負い目を感じるでなく、苛立つでもなく、「邪魔じゃないよ。」花凛の口調は平坦で、「私の本当の気持ちを、そのまま伝えただけだから。」その視線は天井の星図に向いたまま。「取らないでというのは?」「だって、もし結真くんと勇奈ちゃんが付き合うことになったら、今までみたいなふうに過ごすことはできなくなるでしょ。半同棲みたいになってるのもやめなきゃだし。それ、どうしても嫌だったから。」こうしてなお、「自惚れるようで悪いが、花凛が僕を好きだってことなのか?」この問いが肯定されることは決してないと確信していた。けれど、尋ねないことには、話を前に進められない。「ううん。いつも言ってるように、大親友。でも、私にとっては、彼氏なんかよりもよっぽど大事なのかもしれないね。」花凛にそう言われてしまえば、そのまま呑むことだけが是だった。「ちなみに、西館は何て返したわけ。」「親友として、大楠先輩の恋が実ることは望むわけですよね、って聞かれて、もちろんそうだから、イエスってことを言ったら、それなら、もし私が大楠先輩と付き合ったとしても、花凛先輩との関係に手出しはしません、って。それで全部解決しちゃった。」「相当な大物だな、西館。」これもやはり、恋慕の相手、他ならぬ西館がそのように言ったのだとなれば、疑いを挟めるものではない。

 僕は体勢を直し、花凛と同様に、仰向けになって星図を見上げた。「まあ、僕にとっては概ね望まざることだけど、それが花凛の気持ちと行動だっていうんなら、何も言えないよ。」「結真くん、変な所だけ優しいから、わりと困る。」起伏に乏しかった花凛の声音が、ここでこそ揺らいだ。「全面的に優しい存在のつもりだけど。」「大親友に手を出しておいて、よそで何人も食べてたでしょ。知ってる。」つと、花凛の指が、僕の肩に触れる。「身に覚えがないとは言い切れない。」何も気付いていないとは思っていなかったが、こうして咎められるふうに言われるのは初めてのことで、内心では面食らったところがあった。「私は他の人は知らないのにね。」実際、花凛の浮いた話は一切聞かない。それは、誰からも相手にされていないのとは違うと、漏れ聞く限りで知っている。「罪悪感が湧くには湧く。」「本気にしないでよ。冗談。」幾分か、雰囲気が和らいで、安堵を抱くのを自覚した。「今のをユーモアと捉えろというのは酷だ。」「刺されないでね。私、それすごく困るから。」視線がこちらへ向く。花凛の発する全ては真剣そのもので、これは冗談口とは違うのだろう。




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