二  実際、なれるじゃないですか。



 あの日の花凛も濡れ鼠だった。

 やはり夏のことで、不意の雷雨が襲った日。まさに篠突くとはあのことで、雨後には、公園の砂場がプールに成り果てていた。部活を終え、帰途に就こうとしていた中学の学友たちは、およそ二時間の足止めをくらった。


 雷鳴が嘶くのを耳にしながらでは、無我の境地は果てなく遠い。座禅を組んでいたのは、悟りを求めてのことではない。足の行き場がなく、また、時間を持て余していたからだ。屋根のあるベンチにいてさえ雨水は眼下に溢れ返り、到底、地に足を下ろせる状態ではなかった。いかなる豪雨に打たれたとて、おおよそ人は死ぬものではないが、資料写真を撮るために持ってきたデジタルカメラが無事でいられるかは甚だ怪しい。組んだ足にカメラバッグを乗せたまま、僕はここから動けずにいた。半眼に映る景色の端で、湖面が荒々しく波立っている。小説の描写の参考にと、湖の写真を撮りに来て、とんだことになってしまった。

 瞬く稲光と、遅れてやって来る轟き。伴奏としての止め処ない雨音。この状況下で一介の中学生が無念へ辿り着きようもなく、僕は趣向を変えてみることにした。描写のモデルを得るためにここへ来たのならば、写真と共にこの光景も持ち帰ればいい。半眼だった目を開け、肌を澄ませ、今ここで五感によって掴める物を血肉にしようと努めた。深い息をするために開いた口へ、濃い湿度の味が入り込んだ。まさしく怒涛のように荒ぶる様相の中でのことだったと、そう言って言い訳になるのかは分からないが、僕は迂闊にも、人の近づく気配をぎりぎりまで感じ取れなかった。

 背後にある水音に別なアクセントが加わった気がして、足をほどいて振り向いた。花柄のサンダルで沛雨はいうの濁流を掻き分けて、少女がこちらへ歩み寄って来ていた。落雷の瞬間光で、刹那だけ明度を上げた彼女の姿は、とても沐雨もくうという言葉でこと足りるようには思えず、今しがた洗濯機から出てきたのだと言われても、僕は納得しかねない。アニメキャラクターがプリントされた白地のTシャツも、水玉のショートパンツも、しとどという表現を超え、降り募る雨の中で溺れているようにさえ見えた。

 少女はおもむろに口を開き、「私も一緒に、雨宿りしてもいいかな。」落ち着き払った声音で言った。熟慮する必要は皆無で、「どうぞ。」と、簡潔に言ってから、僕はベンチの片端へ体を寄せた。少女がもう一方の端に腰を下ろすと、肌や服に留め置けない雨滴が流れ、にわかにベンチを重い濡れ色に染めた。視点を定めていないふうで湖に目をやっている彼女の横顔に、僕は見覚えがあった。名前は知らない。だが、学校で見かけた覚えがある。「きみって、北嶂ほくしょうの生徒?」少女は、三回ほど目をぱちくりとさせてから、「一年四組、水野みずの花凛かりん。」と、答え、「花凛って呼んで。名字は嫌い。」そう付け加えた。「一年六組、大楠おおくす結真ゆうま。」例に倣って、僕も簡潔に自己紹介をする。「好きなように呼んでくれ。」僕の方は、別段、拘りがあるではなかった。

 雷雲がその全てを吐き出すには、まだ程遠く、僕らが話をするための時間はたっぷりとあった。それが、僕と花凛の出会いだった。雨上がり、すっかり陽も落ちた帰り道で、花凛は私的な問題についても話してくれた。妹が三人いる中、自分だけ父親が違うから家族に疎まれていて、家に居場所がないのだ、と。夏休み中は特にそれで困るのだ、と。



 西館にしだてとの待ち合わせには、花凛の家から向かった。高校に入ってからというもの、実家と花凛の家のどちらに住んでいるのか、判然としなくなっている。僕が花凛の家に持ち込んでいるノートパソコンに、西館の書いた短編小説のファイルを送信してもらい、家を出る前に目を通してきた。相変わらず文章はしっかりしていて、組み立ても十分に効いている。彼女がまだ高一だということを考慮すれば、あえて難癖をつける要素はなかった。むしろ、傑出しているとさえ言える。僕の惚れた女性が、自己を客観視できる人だとするならば、年齢という条件を外したうえで評して欲しいということなのだろう。

 僕と花凛の最寄りにあたる駅の中を素通りして、南口から北口へと出た。日没が忍び寄る中で、街並みは傍若無人な熱気に浸されている。当面の所、鳴りを潜める腹積もりはないのだろう。向かうのは、客席を備えた駅前のパン屋だ。せっかくの機会、もっと開けた場所の小洒落た店で会いたいものだったが、教えを請う身であるからと、西館は僕の地元まで出向くと主張して譲らなかった。無論、小説のコーチをするのに、フラペチーノは要らない。

 思慕する相手を好んで待たせようとは思わず、僕は待ち合わせの十五分前に着いたのだが、店の前に立つと、ガラス越しに、カウンター席にいる西館と目が合った。彼女は微笑みながら、やんわりと手を振り、恥を知らない僕の鼓動は跳ねる。仄かな桃色のワンピースと、生来の物でありながら黒みの淡い、茶色がかったロングヘア、そして品良く整った容貌に、眩暈めまいのするような調和を感じた。

 店のドアをくぐって、空調が効き過ぎていないことに安堵した。西館は冷房を苦手としている所があった。さして広くはないが、店内は明るく健康的で、客の入りはほとんどなく、いざ入ってみると、この店の方がかえって具合が良さそうに思える。僕は手早くクロワッサンを取り、烏龍茶を頼んで会計を済ませ、西館の隣に腰を下ろした。カウンター席のある店にしたいと言ったのは僕で、それは西館と隣り合わせに座りたかったからではなく、単に指南がしやすいからによる。向かい合わせに座っていたのでは、同じ紙の同じ文章を一緒に追うことは難しい。駅前のロータリーを望む席には、先んじてトレイが置かれ、そこにあるのはクロワッサンとカフェオレだった。「あ、パン、お揃いでしたね。」左隣に置かれた僕のトレイを見て、西館はそう言った。

 西館はやおら立ち上がると、丁寧に頭を下げた。「今日は、よろしくお願いします。」僕としてはもう少しフランクでいて欲しいのだが、「よろしく。」とだけ言い、手振りで着席を促した。少しばかり先輩振っていた方が、この場合、話が進むのだろうし。シンプルな意匠のスツールに再び腰掛けた西館は、テーブルの裏のスペースに置いてあったバッグから、クリアファイルを取り出した。短編を印刷して持って来て欲しいと頼んであった。その際、一部だけで十分であること、また、綴じないで欲しいことも言い添えている。「これ、原稿です。」クリアファイルから取り出され、僕の手に渡ったそれは、ひどくたおやかな手触りを備えていて、顔には出さずにいたが、意表を突かれた思いでいた。相当に上等な紙に印字したようで、あるいは気を遣ってくれたのかもしれない。僕はトレイを脇にやると、濃緑のシャツの胸ポケットから三色ボールペンを抜き出し、赤をノックした。まずは文章の出来の細かい所から話をしていく心算だった。

 外気が夜に染まっていく毎に、店内の照明が存在感を増した。地球の自転は相変わらずの速度で続いているらしい。各停の電車が間欠的に乗客を吐き出し、往来に人の流れを生み出していた。僕が二杯目の烏龍茶を飲み干したところで、ようやく話が落ち着き、そこでやっと西館はクロワッサンに手を伸ばした。僕のトレイにある皿は、とうに役目を終えている。西館はクロワッサンのひとくち目を咀嚼し、飲み込んでから、「先輩って、プロの作家になるんですか?」出し抜けに聞いてきた。違和感を抱く質問だった。西館が言葉をいい加減に扱うとは思えず、「妙な言い方をするね。」と、口に出した。「普通、僕に選べるのは、目指すか目指さないかだろう? それじゃあまるで、僕が自分の意志ひとつで小説家になれるみたいだ。」そう言っても、西館に何ら怯む所はなかった。「実際、なれるじゃないですか。先輩なら、いくらでも。謙遜って、別に美徳じゃないと思いますよ。」真に受けようとは思わないが、僕をおだてているふうにも見て取れない。「なる、と言ったら、どうするの。」「追いかけます。」西館の瞳にも声音にも、力が明確に宿っていた。「ならない、と言ったら?」「なって欲しいです。」そこに迷いなど、一脈もなかった。グラスの中で溶けて、冷水になろうとしている氷を一瞥いちべつしてから、三杯目を注文する勇気を奮い起こせなかった僕は、「長くなりそうな話なら、西館がそれを食べた後、河岸かしを変えようか。その辺をただ歩くのでもいい。」そう提案して、直後、よっぽど勇気の要る台詞を口走ったと気付いた。


 保護樹林に沿った県道、その歩道で西館と並び、歩みを進めていた。とても近場とは言えないが、どうにか徒歩圏内だと言える距離に、目指す湖、花凛と僕が出会ったその場所はある。幸い、西館が履いていたのはドット柄のスニーカーで、歩くのに難儀する類の物ではなかった。とは言え、帰路についてはバスを使うつもりでいる。家に籠もりがちな文芸部員の運動不足解消として、というのが、この徒行の体裁だった。民家が途絶え、清暉せいきが滑らかに注ぐようになり、星芒せいぼうは駅前で見上げた際のそれよりも、溌剌はつらつと佇んでいた。蒸熱じょうねつは相変わらずで、虫は口をひそむことを知らず、ここまで来てしまって逃げ場もないとなれば、僕は積極的に風趣を味わうしかないのだろう。

 煙草が吸いたい気分だった。叔父の家に遊びに行くと、一二本吸わせてもらえる。「それで、西館が本気で小説家を目指しているのは分かったけど、どうしてそこに、僕の人生設計が関わってくるんだ?」雑談と沈黙を間に挟みながら、本題も少しずつ前へ進んでいた。「これ、前置きなんですけど、」ずっと前方に目をやっていた西館が、緩い角度で僕を見上げた。「私が晨央しんおうに入ったのって、先輩がいたからなんです。」少子化に伴って近場の高校が統合され、僕らの通う学校は、五年前から晨央と名乗るようになっていた。統合とは名ばかりで、実質的には、逢館おうだて高校の空いていた教室に他校の生徒が組み込まれたと表現するほうが正しい。「本当はもっと偏差値の高い高校に行けたはずで、進路指導の先生や親に納得してもらうのが大変でした。自慢みたいになるから、この話はあまりしません。」初耳だったが、違和感のあるものではなかった。むしろ、西館がうちの高校に通っていることこそ疑問だった。「西館が文芸部に入るまで、僕と面識はなかったはずだよね。」一目惚れをしたわけではなかったが、入部の際の西館の自己紹介はよく覚えている。たった四ヶ月前のこと。「そうです。でも、文化祭で買った文芸部の冊子で、作品は読みました。奥付で、その時の話ですけど、先輩が二年生であることも知りました。私が入部したら、その時まだ先輩は部にいるんだ、って、そう思って。」三年生は文化祭をもって引退だと明記されていたはず。僕と西館、二人ともが部に在籍する期間は半年にも満たない、それを知っていてなお、ということになる。「酷く買い被られたもんだな。」「謙遜、憎たらしくなるからやめてくださいよ。」「天才振ってた方がいいってのか。」「振る、じゃなくて、実際に天才なんです。事実をありのまま認めても、責められるいわれはありません。」西館の声音は真剣そのものだったが、僕としては、戯けてみせることしか道筋を見出せなかった。「どうしても僕を文豪に仕立てたいらしい。」「本当、憎たらしいことこの上無いです。」あえて片恋の相手に憎まれようとは思えず、このままでは話が進みそうにもない。

 梢の先に浮かぶ月輪がちりんを見上げ、息をき、寸刻だけ目を瞑って、そして観念した。「オーケイ、心の底から納得できたとは言えないけど、西館の評価を受け入れよう。それで、僕が天才で、なぜ西館が晨央に来る? 憧れゆえってことか?」「いいえ。」西館は即座に、きっぱりと否定した。「プロの作家になることよりも、先輩を超えることの方が難しいからです。陳腐な常套句を用いるなら、壁は高い方がいいって、そういうことです。それに、私を超える人間は私だけであった方が、やっぱり気分良いじゃないですか。」僕は今この時まで、小説を書くことへの、西館の内に秘められた情熱の温度を、多分に見誤っていたのだった。「先輩、プロになってください。私はその先輩を超えたいです。」気圧され、継ぐ言葉を見失った。しかし、僕の恋慕のに消える気配はなかった。「それじゃあ、話は終わりましたし、後はデート気分で湖まで行きましょうか。」「デート気分って。」「先輩が私を好きだって、実は知ってます。」常套句のおまけのように、西館は平然と言った。僕の目の前にいるのは、どうやら並外れた才器の持ち主であるらしい。




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