夏の言霊

香鳴裕人

一  そもそも、恋人同士じゃないけどもさ。



 蝉がかまびすしい。夏が息をするごとに、僕の呼吸は苦しくなる。建て付けの悪さから、嵌め殺しになってしまった窓を通して、昊天こうてんを見上げる。少なくとも、窓枠に切り取られた四角形の中に雲はない。背面、何もかもが運び出された部室内には、コンクリートの壁と床、そして黴臭かびくさい空気だけがあった。臭気に湿度が絡み、僕の体に粘り着く。鶯色うぐいすいろのTシャツと肌の間に入り込むのみならず、ジーンズの内側も容赦なく侵すとあっては、長居するべきではないと嫌でも気づく。どうせまた湧き出てくるのだからと、額の汗を拭うこともなく、開け放されたドアから部室棟の廊下に出た。

 夏休みのうちに部室の大掃除を行う、という暴挙を提案したのは、副部長の水野みずの花凛かりんだった。断固、反対したいところではあったが、文芸部の部室が掃除を必要としていることは僕の目から見ても明らかで、お飾りながら部長の地位にいるともなれば、物言いのつけようがなかった。

 文芸部の部室は棟の二階にある。さびで汚れるのも厭わず、熱を蓄えた廊下の手すりに両肘を預けてみれば、溜め息のひとつも漏らしたくなる。炎夏の好晴こうせいは所構わず陽を焼きつけ、それゆえ眼下に広がる中庭は、凜乎りんことして、その輝度を誇っている。木製のベンチも、銀杏いちょうの木も、部室棟に繋がる質素なコンクリートの道も、夏姿なつすがたを誇示してやまない。なぜ狙い澄ましたように今日が極暑なのか、天候への抗議のために、頭のひとつやふたつを、わざとらしく抱えてみたくもなる。なぜきみたちは、僕らにきちんと予定を明かしてくれないのか! 実際にそうしてみせても、僕の体感のうえで蒸し暑さが増すだけで、何の救いももたらさないことは明々白々に過ぎた。

 四肢にまとわりついた湿度が、風によって振り払われる。視線を脇にやれば、丁寧に掃除された本棚が日光浴をしていた。収められていた本は、傍に敷かれたブルーシートに積まれている。バベルさながらに積み上げられた蔵書は、ちょうど格技場の陰になる位置にあり、こちらは陰干しということらしい。床に敷かれていた絨毯は、今頃、部室棟の屋上で熱風に晒されているだろう。傷みが激しいちゃぶ台は捨てて、部費で新しい物を買おうと、ことを先導する花凛が、会計を務める菅原すがわら早緑さみどりに持ちかけていた。

 メールの返信が届き、僕は棟の屋上へ行くべく、建物の脇にしつらえられた階段を上った。雨風に晒され続け、手すりと同様に錆びついた踏面ふみづらの上に、夏蝉が何匹か行き倒れている。ここは二階建て、蝉の死骸に気を取られているうちに上る段がなくなり、仰ぎ見れば青天が一杯に広がっていた。物を干すには無上の日和だろう。今回の件、悪いばかりでもなくなってきている。美人とは言えなくとも愛嬌のある顔立ちの花凛が、夕暮れの頃、疲労混じりの笑顔を浮かべるとなれば、まんざらでもない気さえしてきた。

 僕は屋上に足を踏み入れ、烈日の注ぐ中に花凛の姿を求めた。特に探すでなく、すぐにその身なりを視界に捉えたのだが、それがあまりにも呆れるばかりのものだったので、僕は小言めいた問いかけをする羽目になった。花凛は、この屋上に野晒しにされているパイプ椅子に膝を揃えて腰掛け、バニラのアイスバーを舐めている。だが、それが問題なのではない。「花凛さ、来月で十八になるって自覚あるの。」傍に寄り、花凛と目が合ったことを確認してから、僕は屋上を囲む柵に背を預けた。棟の廊下と違い、ここに日光を遮るものはなく、服越しでなければ、熱にやられたアルミの支柱に背を焼かれていただろう。「選挙について調べたりしたけど、そういうことでいいの?」花凛は椅子に座り直し、僕を視界の正面に据えてから、事も無げに言った。

 選挙権を得る自覚があってこれならば、なおのこと酷い。あるいは僕は、からかわれるか試されるかしているのか。生真面目に推し量っても馬鹿を見るだけのように思われたので、「服、どうにかしろって。」結局、端的に言うに留めた。バニラアイスが一滴垂れたのを見咎め、長話は歓迎されないだろうとも思った。「服? ああ、これ。」言いながら、花凛は自分の胸に視線を下げた。そこには、花凛曰くEカップだという乳房が、蜂蜜色はちみついろのブラジャーで包み込まれている。それが完全に透けて見えていた。水浴びでもしたのだろうか、白いブラウスは濡れそぼち、およそ遮蔽の役を果たしていない。安物ばかり買うからこういうことになる。紺色のミニスカート、そのポリエステルの生地は含んだ水気で腿に張り付き、離れていく素振りを見せない。服から零れたのであろう水滴が、屋上を湿らせていた。ショートの髪は、まずまず乾いているふうに見える。絨毯と一緒に自分も干すつもりでここにいるのかもしれなかった。

 花凛は、二回の瞬きをした。静かに驚いたふうだった。「何度も見てると思うんだけどな。最近よく着けてるから、これ。そのうち何回かは、結真ゆうまくん自身が脱がしてるし。」身に覚えがないわけじゃない。「僕の目じゃなく、人の目を気にしてくれって話。」花凛は、アイスバーをひと舐めしてから、「結真くんって、独占欲ある人だったっけ。そもそも、恋人同士じゃないけどもさ。」さも意外そうに言った。「そういう話じゃない。人としての品性の問題。加えて言うなら、花凛を恋人にするなんて、こちらから願い下げだ。」「大親友ですからね。」大の字を頂くかはともかく、親友というところに、僕らの関係は収斂しゅうれんしていくだろう。「そういうことだ。くれぐれも、僕の恋路は邪魔するなよ。」「邪魔しなくても、うまくいきそうな気配ないけど。結真くん、勇奈いさなちゃんのことになると妙に弱いから。不思議。ああ、今夜まだうちにいる? ドカポンやりたいし、生理も終わったし。」舐めるばかりでは溶けゆく速度に勝れず、花凛はアイスバーを齧った。

 背を向けている中庭から、「大楠おおくす先輩、」清粋せいすいな声音が届いた。「こちらを手伝っていただけませんか? 更紙ざらがみを運ぶんですけど、重いので。」たとえ振り向かなくとも、そこに誰がいるかはわかる。西館にしだて勇奈だ。「邪魔しないから、いい所見せて来なよ。」さぼっていたいのか、僕を思ってくれているのか、花凛の真意がどうあれ僕のやることはひとつで、手の甲で額の汗を拭った。



 日差しこそなくなったものの、深夜の境内けいだいは何ら夏を失ってはいなかった。うだるほどの熱。虫の音はたけなわ。自分の呼気すら鬱陶しくなる。夜陰に浮かぶ自販機の明かりに照らされた指で、練乳入りコーヒーのボタンを押すと、電子音を立ててスロットが回り始めると同時に、灯蛾とうがが一匹二匹と行くあてなく飛んだ。吐き出された缶と釣り銭を手に取る頃には、スロットの数字は六七七で止まっていた。運試しは失敗のようで、僕は自分の財布を痛めてコーラを買わなければならない。

 当たり付きの自販機を置くこの神社から徒歩一分の所に、花凛の住むアパートがある。自分の部屋が欲しいと言ったら家賃五万円以内の部屋と返された、いい加減邪魔だったんだと思う、というのが花凛の弁だ。立地よりも間取りを優先した花凛は、2Kの部屋にひとりで住んでいる。

 玄関でスニーカーを脱ぎ、キッチンを抜けて四畳半の洋間に入ると、夜色やしょくが豹変した。隣室にあるエアコンから冷風が吹き、僅かな外出の間に滲んだ汗を鎮めてくれる。冷えたフローリングの存在を、靴下越しに感じる。テレビラックに置かれた液晶ディスプレイから、レトロゲームが奏でる八和音の電子音楽が流れていた。僕がこの家に持ち込んだゲーム機やソフトの類は増えていくばかり。その大半は、叔父から譲り受けた物だ。叔父からしても、昔馴染みの作家から譲ってもらった品であるらしいのだが、仕舞い込まれているよりは、誰かが遊んでくれていた方が良いと、僕の自宅へまとめて送って寄越した。

 木製のちゃぶ台の上にふたつの缶と小銭を置くと、花凛が、「ありがと。結真くんの番だよ。早く。夜が明ける前には寝たいし。」と、せっついてきた。花凛の立場なら、積極的に終わらせたくもなるだろう。さらに、「負けた方が勝った方のをたっぷり五十分舐めるって話、忘れてないからね。」そう付け加えられた。「僕がぼろ負けしていることを前提で言おう。三十分にしよう。」「今さらそういうのなし。」何をどう勘案しても、花凛に譲歩してもらう余地は寸毫すんごうもない。

 前触れなく、視界が光を失った。「あ、停電」部屋がふっと闇に落とされると共に、流れ続けていたゲームのBGMが途絶えた。プレイ途中のデータも、一緒くたに消えたことになる。「最後にセーブしたの、いつだっけ。」エアコンが冷気を吐く音も止まり、虫の鳴き声を縫うように発された花凛の声音は、少なくとも五分前のことではないと覚えている者のそれだった。「おそらくだけど、一時間半くらい前。」「やり直す?」およそ一時間半前のデータからなら、再開することができる。「今さら、今からか?」とても楽しめるとは思えない。


 いつもの通り、花凛は音を立てた。経緯はどうあれ手を抜く気はないらしく、僕は僕で、懇切丁寧に舌を這わせた。不意の停電で無勝負とならなければ、僕が花凛の股ぐらに顔を埋めているだけのはずだったのだ。それが今、咥えるのに忙しない花凛が、横たわった僕の頭に向けて臀部でんぶを突き出している。僕が熱心に尽くして当然だろう。断続的に響く嬌声の中で、時折、パイプベッドが軋んだ。鼻先からは、蒸れた汗と、滴る色の匂いがする。冷房の効いた部屋でのこと、触れ合う肌に夏の温気うんきは残っておらず、ただ体温ばかりが互いを巡っていた。「何分経った?」花凛が口を離して尋ねたので、僕は枕元に置いてあった携帯を手に取り、画面を確認した。「三十二分。」「ごめん、ちょっと小休止。」僕の上で四つん這いになったまま、花凛は脱力して首を垂らした。携帯の画面の端に、チャットアプリの新着メッセージを知らせるアイコンが表示されているのが目に入る。ゲームをしていた間に届いていたらしい。不覚だった。「珍しい。西館から個チャ。」「勇奈ちゃんから? 何て?」走り読みをしてから、「小説。読んだうえでアドバイスをして欲しいと。僕が部にいるうちにってことらしいな。」噛み砕いて教えた。「ああ、結真くん、文章表現の才能だけは尋常じゃないから。師弟関係を利用して食べちゃうとかは勘弁してね。」心外にも程がある。「冗談はよしてくれ。僕は西館と恋がしたいのであって、性行為に耽りたいわけじゃない。」「そういうの、人の愛液で顔をどろどろにしておいて言うものじゃないと思うけど。もう私、一回飲んだし。」花凛はそう言ってから舌を伸ばした。残り十八分、僕とてやめるつもりはなかった。




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