十三 ええ。抱けるものなら。
心に痺れを感じながら、僕は戸を閉めて、外からの熱を遮り、おもむろに
勇奈は焦点なく床を見て、あまりに世話がないと、ため息をも加えた。ただし、槍玉の先は変わった。「でも、花凛先輩も大概酷いですから。そっちの方は。すぐ隠せたはずなんですよ。
かまわないとの返事に食ってかかる名分はなく、僕は立ち上がった。「しかし、勇奈は、ずいぶん口が大胆になったんだな。」座ったまま僕を見上げて、勇奈は真っ直ぐに言う。「そんなに嬉しい顔をされても困ります。ちゃんと先輩のせいですよ。」「嬉しい?」僕は疑問を抱き、自分の頬に手で触れた。自分がどんな表情でいたか、意識していなかった。もうひとつ疑問が出た。「僕のせい?」「怒るようなことじゃないですから。」前置きをして、勇奈は微笑を浮かべながら、しかし淡々と言った。「大楠先輩、私の性格悪い所も、むしろ好きなんだって、分かっちゃったら、猫被りはとっておきでいいじゃないですか。先輩が得をするのはそれです。私も疲れませんし。」やはり違和感があった。僕が最優先で、自分は二の次というような。その根拠が見えない。訝しむのが顔に浮かんでいたのだろうか、勇奈は、「花凛先輩でOKなんだから、というのもありますけど。あの人より性格悪くなれる気、しないし。」と言い足した。取り決めがある以上、勇奈が好んで花凛を
まずもって、すべきことがあった。「シャワー、浴び直してくるよ。」と、勇奈に伝えた。隣の部屋にある衣類ケースまで向かう途中、押し入れを開け、すぐ視界に入った
花凛の家のバスルーム、そこにあるシャンプー、リンス、ボディソープで念入りに洗い、匂いを上塗りしてから、火照る体に服を着て洋間に戻れば、勇奈がこちらを向いて立っていた。ちゃぶ台を見やれば、パソコンは閉じられている。執筆は止まったのか。勇奈に視線を戻して、虚を衝かれた。違う。ふっと目を離しただけの間で、その顔から落ち着きは
事実、勇奈は耐えきれなかった。正しくは逆だ。今この時まで、どうにか耐えていた。正面から強く見つめられる。勇奈の猛る瞳は僕に向き、しかし怒りは勇奈自身に向いていると、僕にそう感じさせてから、問われた。「教えてください。好きな女を抱かずに、他で済ませる理由を。それとも、もう私を好きではありませんか。」呼吸がしにくい。先の話より、ずっと致命的な問題があったじゃないか。「いくら僕でも、この雰囲気で告白をしたいと思えない。するつもりはある。」
ふっと、勇奈から勢いが失せた。やはり堪えきれなかったと、そんなふうで俯いた。「私は彼女のはずです。どちらもというのなら、まだ分かります。今のこれは、私にはわかりません。好きなら、まだ先輩の好きな私なら、どうして。私に経験がないから、気にするんですか。」答えずに済ませるわけにもいかない。都合の良い偽りは思いつかない。「抱けるなんて発想がなかったよ。勇奈は彼女だと、ちゃんと思えていたのかどうか。たぶん、違った。」俯いたままで、弱々しく、勇奈は言った。「先輩、それ、一番聞きたくなかった言葉です。」よく聞いて、大切に話さなければならないと、それを思った。深度があればこそ、そして、やはり、子供のように映るゆえに。「どうして。僕にも聞かせてくれ。勇奈の立場なら、望むことじゃないはずだろう?」勇奈は若干、言葉に詰まる。「ごめんなさい。」謝罪ゆえか、勇奈の目は僕を向いた。「立場も関係なく、望んでません。年相応だったり、もっと未熟だったり、私もあるから、だから、セックスのこと、よく分からないですし、怖いです。」言い終えればすぐ、勇奈の視線は僕から逸れて、床を向いた。「だったら、なぜ、」「引き換えに渡せないじゃないですか!」僕の言葉を遮った勇奈の悲痛な声は、もはや涙として聞こえた。
勇奈は目を潤ませ、自嘲めいた笑みを浮かべる。「花凛先輩のこと、本当はきっと、どうこう言えないです。私。」引き換えに。一足飛びに結論から出た印象で、このままではきっと掴めない。「もう少し、順を追って話してくれないか。」申し訳なさそうに、勇奈は首を横に振った。「頭ぐちゃぐちゃで、きっと無理です。それに私、もう、今、一番やりたくなかったことをしてるから。」僕は何も聞いていないのに、勇奈はもう一度、首を横に振った。
僕はクッションをひとつ出して、床に敷き、勇奈をそこに座らせた。僕は煙草とライター、灰皿を取って、壁に背を預けた。改めて見やれば、勇奈ははっきりと泣いていた。「絶対に、先輩の負担にはなりたくなかった。先輩から何かをもらうなんて、奪うなんて、したくなかった。もう、遅いですね。こんなふうに、泣いたら。」勇奈は涙を拭わなかった。僕は煙草に火を点け、気を落ち着けるべく、ひとつ喫した。聞いて、ありのままを受けよう。こんな僕なのだ。それができれば上等だ。ふたつ目を喫して、言葉を投げかけた。「僕の負担になることを、どうしてそこまで?」勇奈は、痛みのある目で僕を見上げる。見つめる。見つめているうちにも、新たに零れる。「超えたいって、その気持ちは本当にあったけど、でも、私、嘘を吐いたんだと思います。先輩がいたから高校を選んだ、その話。」質問の答えは返らなかったが、僕は話の続きを待った。僕がまた、ひとつふたつと喫する間を挟んで後、嗚咽を抑えて、勇奈は続けた。「先輩の書く小説、そのたった一行だけだとしても、私はそれだけで、もう、他の、どの作家の書いたどんな作品よりも、絶対に、必ず好きです。」僕は、もう黙るよりない自分を良しとした。
涙の厚い勇奈の瞳に、意志が灯ったように見えた。力なくも、確かに。「本当にあるんです。書きたい、もっとうまく、そして、先輩をも超えたい、その気持ちは。揺るぎなく。だから、だから困って。」涙の止まらぬまま、それが服に届くまでに至る中、自分に呆れ果てると言いたげで、勇奈は薄く微笑んだ。「苦肉の策です。要するに。先輩に指導してもらうなら、その穴埋めをしなきゃいけなくて。でも、私が渡せるものなんて、先輩が好きな私しかなかった。」勇奈の微笑みはわずかで消えて、表情が強張る。怯えと、後悔が入り交じる。「結局、こんなことになって。家出のことは本当です。先輩の負担になるまいとして、結果、中途半端なだけでした。これなら、最初から先輩とどこかに泊まれば良かった。」言ってから、勇奈は深く息を
話をして、心が軽くなる面はあったのか、勇奈は涙で乱れた目で、ふざけるように僕を睨んだ。「同じ部屋で、好きな女がバスローブを着るだけで出てきたら、さすがに抱きますよね。嘘でも、そうだって言ってください。先輩に渡せるものが本当に何もなかったなんて、知りたくないです。」「あるよ。今も、抱けるものなら抱きたい。」質問に対して、直接の返答はしなかった。見当違いとは思わない。「ええ。抱けるものなら。先輩、変なふうにお人好しだから、こんなの聞いちゃったら、今、不可能の方ですね。」勇奈は、僕の返答を正しく解釈した。そして、ふっと言い足した。「笑い話です。先輩の負担になることが怖くて、先輩の前で泣きました。」
沈黙がややあって、その後、勇奈がぽつりと漏らした。「私、花凛先輩のこと、嫌いです。」嗚咽は収まりつつあって、声音は落ち着いていた。「先輩のこと、ただの友達としてしか見てなくて、才能にも作品そのものにも、言葉のひとつにさえ、興味なくて。そこにあるのに、先輩の書く物語は、すぐそこにあるのに。ずっとずっと、そばにあったのに。」僕は何も差し挟むことができず、短くなっていた煙草を灰皿に押しつけ、火を消した。勇奈の話には続きがあった。「でも、花凛先輩もきっと、似たようなこと思ってますよね。才能だけ見て、作品ばっかりもてはやして、どうして大楠結真という人間に、ちっとも目を向けようとしないのか。そこにいるのに。目の前にいて、あなたは愛されているのに、って。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます