疑惑の捜査(2)

 その男は生活安全課のビニールが破れかかった古い来客用のソファに腰掛け、虚ろな眼で周囲を舐め回すように眺めていた。よれたスーツには綿埃の白いカスのような汚れが点々と目立ち、藍色のネクタイは曲がっていびつな三角形を描いていた。娘を亡くしたばかりの父親。もし、そんな不幸な人物像に世間一般的なイメージがあるのならば、彼の姿はそれにぴったりだろうと英亮は思った。

交通安全を呼び掛けるポスターに写るアイドルの笑顔が妙に心強い。善良な市民と直接触れあうことの出来る生活安全課の空気は交番勤めの長かった英亮にとっては古巣を思い出させる。どこか懐かしい、好ましい空気だ。やけに明るい声で電話応対する署員も、若い婦人警官にセクハラ紛いの発言をしてたしなめられている老人も微笑ましく見える。不思議なものだった。刑事に憧れて警察に入署した当時、交番勤務を任される事は不要な回り道だとしか思えなかった。だが、今は違う。見慣れた市民との温かなやり取りが自分に力を与えてくれている気さえする。英亮は深呼吸で気持ちを整えると憔悴しきった父親の前に座った。


「お待たせしてすみません。お話、伺わせて頂きます」

「ずいぶんお若いですね。あなたも刑事さん?」

「ええ。そうですよ」

「前に会ったあの人はいないんですかね…」


 男の表情は曇る。ただでさえ縮こまった姿がいっそう寂しさを増したように見えた。


「すみません。麻宮は別件で席を外しております。私がしっかりと用件を伺いますので、どうかお気を悪くなさらないで下さい」

「いえ、そんなつもりでは…ただ どうせ話すなら担当の刑事さんにお話をしたかったものですからね」

「そうでしたか…わかりました。若輩ではありますが、私もあの時は麻宮と共に捜査に当たった身です。お答えできる範囲であれば、何でも話すつもりですよ」

「心強いね。では、あなたにお話しする事にしましょう」


 物腰は柔らか。

 言葉に敵意もない。

 目の下には深い隈。

 疲れを感じさせる服装。

 第一印象に特筆すべき点はない。

 特に警戒の必要もない人物像だ。

 真面目なサラリーマン…といったところか。こちらが誠意を示せばすんなりと引き取ってくれるだろう。要は警察に不信感を抱かせない事が肝要だ。被害者遺族は往々にして真実の究明を求めている。何故、どのような経緯で事件は起きてしまったのか。起きた事は覆らない。だからこそ彼らは自分にとって納得のいく心のやり場を求めている。それを解さなければいたずらに遺族の感情を逆撫でするばかりだ。男の求めるものはどこにあるのか?英亮は彼の語る言葉からそれを慎重に汲み取らなければならない。


「煙草、吸ってもいいですかね?」

「あ、いや…すみません。今は署内も完全に分煙でして」

「ああ…そうでしたか。それは残念だ」


 男は背広の内ポケットから取りだしかけた煙草のケースをそっと元に戻すと行く当てのなくなった右手をぶらつかせながら膝の上に戻した。


「いやね、最近また吸い始めるようになりまして。ずっと吸ってなかったんですけどね。娘が嫌いだったもので。家の中で吸わなくなる内にいつの間にか買わなくなって…たぶん、娘に嫌われたくなかったんでしょうね。『パパ臭い』、とかそういう事を平気で言う子でしたから。でも…もうその必要もない」


 男が眼を伏せる。英亮は彼の話したいままに言葉を続けさせた。男が本題を切り出すまでこちらから余計な横槍を入れるような事はしない。そうしなければ彼が本当に伝えたいと思っている言葉を引き出すことはできない。


「刑事さん、おいくつですか?」

「私ですか?23になったばかりです」

「そうですか。親御さんとはよく話したりするんですか?」

「まあ、そこそこですね。私はまだ実家暮らしなので両親には甘えてばかりですよ」

「はは、それはいいな。私はあまり娘と会話をしてこなかった。向こうはずいぶん歩み寄ってくれてたのかな、と今になって思うんですけどね。けど、私は大きくなるにつれて変わっていく娘を理解してやることができなかった…だから、今回の件もどう受け止めていいのか自分の中で整理が着いていない」


 男は煙草のケースを右手に握ると左の指で中身を取り出したり戻したりする動作を繰り返した。指先が微かに震えているのは寒さの為か、緊張の為か。表情からは窺えない。


「刑事さん、私は娘がどういう子だったのかは知りません。知ろうとしなかったというのが正しいでしょう。娘の交遊関係、趣味嗜好、将来の夢。なにひとつ知りはしない。けどね、ひとつだけ知っている、わかっていることがあるんですよ。それはね、あの子は自殺なんてしない。その一点です。それだけは間違いがないんだ」


 英亮はまだ何も言わない。男の次の言葉を待っている。ただ膝の上に置いた拳を握り直し、じっと待った。


「もう一度 捜査を行って頂く事はできませんか?娘の死をこのまま自殺として片付けることは出来ないんですよ。あの子の親として、私には絶対に」


 姿勢を正した男の眼に熱に浮かされたような光が灯った。男は白目の面積が大きな一重の目蓋でまっすぐに英亮を見据える。自身の主張に一点の曇りもないと信じきっている人間の顔だった。


「申し訳ございません」


 視線を外すように英亮は深々と頭を下げる。


「捜査に落ち度があったとは私どもは考えておりません。適正な捜査と判断の結果、娘さんの死に不審な点はなかったと我々は結論を下しております。少しお時間は頂きますが、お望みであれば詳細な死亡診断書をお出しすることもできます。ですが…お辛いだけかと思います。私のような若僧が言うのもおこがましい事ですが、娘さんとの思い出を大切にしてあげて下さい」


 簡潔に感情を込めず淡々と英亮は口にするべき事を述べた。遺族が何を望もうと期待しようと一度結論の出た捜査が再び行われることはあり得ない。期待を持たせるよりも事実をありのままに話す。それが今 自分に求められている仕事だと英亮は判断した。


「いえ、そういう意味で言ったわけではないのです。捜査に落ち度があったとは私も考えておりません。警察の皆さんが自殺だと判断されたのなら、そこには否定せざる根拠があるのでしょう。しかしながら皆さんが行った捜査はあくまでも通常の捜査であったはずです。違いますか?」

「少し意味がわかりかねますが…そうですね。規定通りに捜査を行いましたよ」

「刑事さん。あなたは魔法や呪術に関しての造詣はおありでしょうか?娘の死に関してそういった類いの検討はなされなかったのではないですか?」


 男はそう言ってから腰を浮かせると深くソファに座り直した。発言の前後で男の挙動や態度に変化は見られない。故に男はその突拍子もない発言に何らの疑問も抱いてはいない。むしろ自身の導き出した結論に確信を抱いている。そう見えた。


「娘の部屋には魔法に関する書物がたくさん置いてありました。あの子がそういったものに深く入れ込んでいた事は確かなんです。ならば、それがあの子の死に関わっている。そう考えるのが肉親ってもんです。そうでしょう、刑事さん?」


 男の眼に熱病めいた光が宿った。

 早く話を切り上げるべきだ。

 英亮の本能はそう告げる。


「年頃の娘さんなら占いなんかに興味を持つことはごく自然な事です。残念ながら関連性は薄いと言わざるを得ません…」

「ええ。そうですね。それが常識的な回答だ」

「すみません。失礼ながら、それはどういった意味でしょうか?」


 深入りしている。英亮は自身に危機感を強めた。既に常識から逸脱し始めた男の会話にこれ以上乗るべきではない。軌道修正すべきだ。そう思うのだが彼の視線を切る事ができない。英亮もまた、憑かれたように前のめりで話を聞き続けた。


「おかしいとお思いでしょうが、私は確信しているんですよ。魔法がこの世の中には存在している、ということをね。そして今日 刑事さんとお話しして引っ掛かっていた疑問にも答えが出た」


 男は既に英亮の質問に答える気はないのか、話を先に進め続けた。憔悴しきったように見えた顔に気色が射している。


「お時間を取らせてすみませんでした。これで失礼を致します。恐らく、もうここを訪ねることもないでしょう。今日お話した事は忘れて頂いて結構です」

「待ってください、冴神さん。あなたは再捜査を望んでいたのではないのですか?」


 男の名を呼び止めた。冴神はソファから立ち上がると歪んだネクタイを締め直してコートに袖を通した。


「刑事さん、命は大切にすることだ。親より先に死ぬなんて、そんな親不孝はないですからね」


 その言葉を最後に男…冴神時雨サエガミシグレは警察署を後にした。

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Wizard's High 紅苑しおん @144169

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